しょう いん じ だい ゆう。 知恩院

三太夫 (さんだゆう)

しょう いん じ だい ゆう

20156• 833• 115• 149• 258• 287• 425• 162• 304• 113• 133• 349• 333• 288• 194• 139• 155• 122• 191• 129• 235• 116• 131• 223• 1448• 2872• 4040• 2682• 461• 114• 382• 277• 136• 345• 2728• 113• 202• 145• 161• 136•

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中国の歴代王朝と中国の歴史作品の時代背景

しょう いん じ だい ゆう

大まかなイメージとしてご覧ください。 西暦 中国 日本 B. 2070年 三皇五帝 ( さんこうごてい ) 縄文 ( じょうもん ) B. 1600年 夏 ( か ) B. 1046年 商 ( しょう )( 殷 ( いん )) B. 770年 周 ( しゅう )( 西周 ( せいしゅう )) 弥生 ( やよい ) B. 403年 春秋 ( しゅんじゅう ) 周 ( しゅう ) ( 東周 ( とうしゅう )) B. 221年 戦国 ( せんごく ) B. 206年 秦 ( しん ) A. 8年 漢 ( かん )( 前漢 ( ぜんかん )) 23年 新 ( しん ) 220年 漢 ( かん )( 後漢 ( ごかん )) 280年 魏 ( ぎ ) 呉 ( ご ) 蜀 ( しょく ) 317年 西晋 ( せいしん ) 439年 五胡十六国 ( ごこじゅうろっこく ) 東晋 ( とうしん ) 古墳 ( こふん ) 589年 南北朝 ( なんぼくちょう ) 618年 隋 ( ずい ) 飛鳥 ( あすか ) 907年 唐 ( とう ) 奈良 ( なら ) 平安 ( へいあん ) 960年 五代十国 ( ごだいじゅっこく ) 1271年 宋 ( そう )( 北宋 ( ほくそう )) 遼 ( りょう ) 宋 ( そう ) ( 南宋 ( なんそう )) 鎌倉 ( かまくら ) 金 ( きん ) 1368年 元 ( げん ) 1644年 明 ( みん ) 室町 ( むろまち ) 安土桃山 ( あづちももやま ) 江戸 ( えど ) 1912年 清 ( しん ) 明治 ( めいじ ) 1949年 中華民国 ( ちゅうかみんこく ) 大正 ( たいしょう ) 2019年 中華人民共和国 ( ちゅうかじんみんきょうわこく ) 昭和 ( しょうわ ) 平成 ( へいせい ) 令和 ( れいわ ) スポンサーリンク 中国の歴代王朝と代表的な作品 三皇五帝(〜B. 2000年頃) 古代中国の神話における8人の帝王が存在した時代。 三皇五帝 ( さんこうごてい )に誰を挙げるかは諸説ありますが、代表的な説をご紹介します。 三皇 ( さんこう ): 伏義 ( ふくぎ )、 神農 ( しんのう )、 女媧 ( じょか ) 五帝 ( ごてい ): 黄帝 ( こうてい )、 顓頊 ( せんぎょく )、 嚳 ( こく )、 尭 ( ぎょう )、 舜 ( しゅん ) 秦 ( しん )の 始皇帝 ( しこうてい )・ 嬴政 ( えいせい )が、中国を統一した後に称した「 皇帝 ( こうてい )」という称号は、 三皇五帝 ( さんこうごてい )より 貴 ( とうと )い存在という意味を込めて、 三皇 ( さんこう )の「 皇 ( こう )」と 五帝 ( ごてい )の「 帝 ( てい )」を合わせて「 皇帝 ( こうてい )」としたと伝えられています。 夏(B. 2000年頃〜B. 1600年頃) 夏 ( か )王朝全盛期の地図(B. 2050年頃) 『 呂氏春秋 ( りょししゅんじゅう )』や 『 史記 ( しき )』に黄河中流域に存在したと記されている最古の 世襲 ( せしゅう )王朝。 尭 ( ぎょう )、 舜 ( しゅん )の時代、たびたび 氾濫 ( はんらん )を起こす 黄河 ( こうが )の治水に成功した 禹 ( う )が、 舜 ( しゅん )の 跡 ( あと )を 継 ( つ )いで建国したと言われています。 17代 桀王 ( けつおう )の時代、武勇に優れた 桀王 ( けつおう )に降伏した 山東 ( さんとう )の 有施氏 ( ゆうしし )は、 末喜 ( ばっき )という絶世の美女を献上しました。 末喜 ( ばっき )を 寵愛 ( ちょうあい )した 桀王 ( けつおう )は、 末喜 ( ばっき )の歓心を買うために宮殿や 楼台 ( ろうだい )を増築し、その内装は宝玉で飾り立てます。 そして、肉を山のように盛りつけ、干し肉を林のように吊した豪華な宴会を催し、 末喜 ( ばっき )に引き裂く音を聞かせるためだけに毎日100 疋 ( ひき )(200 反 ( たん ))の 絹 ( きぬ )を 貢 ( みつ )がせました。 そんな 桀王 ( けつおう )を 諫言 ( かんげん )した 関竜逢 ( かんりゅうほう )は処刑され、 関竜逢 ( かんりゅうほう )を 弔 ( とむら )った 商 ( しょう )(現: 河南省 ( かなんしょう ))の 湯王 ( とうおう )は投獄されてしまいます。 釈放された 湯王 ( とうおう )は軍を起こして 桀王 ( けつおう )を追放し、すでに 桀王 ( けつおう )から心が離れていた諸侯を従えて 商 ( しょう )を建国しました。 商(殷)(B. 1600年頃〜B. 1046年) 商 ( しょう )( 殷 ( いん ))の地図(B. 1600年頃〜B. 1046年) 商 ( しょう )は考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝で、次の 周 ( しゅう )王朝は前王朝の 商 ( しょう )のことを 殷 ( いん )と呼んでいたため、 殷 ( いん )の方が一般的な国号として知られています。 占 ( うらな )いに 基 ( もと )づく 神権政治が行われ、 甲骨文字 ( こうこつもじ )が使われていました。 氏族共同体である都市国家が複数存在し、 商 ( しょう )を頂点とする複数の都市国家が連合していた王朝と言えます。 4代 太甲王 ( たいこうおう )の時代、 商 ( しょう )建国の功臣・ 伊尹 ( いいん )は 暴虐非道 ( ぼうぎゃくひどう )な 行 ( おこな )いを好む 太甲王 ( たいこうおう )を一時的に追放しました。 この 伊尹 ( いいん )と 前漢 ( ぜんかん )の 霍光 ( かくこう )は、後世に皇帝を廃位した前例として語られることになります。 30代 紂王 ( ちゅうおう )の時代、絶世の美女・ 妲己 ( だっき )を 寵愛 ( ちょうあい )した 紂王 ( ちゅうおう )は、干し肉を林のようにぶら下げ、酒で満たした池をつくって 宴 ( うたげ )を 催 ( もよお )し、 炮烙 ( ほうらく )という刑罰で罪人が苦しみながら焼け死んでいく様子を見世物として楽しみました。 1046年頃〜B. 770年) 周 ( しゅう )( 西周 ( せいしゅう ))の地図(B. 1047年頃〜B. 771年) 周 ( しゅう )を建国した 武王 ( ぶおう )は建国後まもなく亡くなってしまいますが、 武王 ( ぶおう )の弟・ 周公旦 ( しゅうこうたん )が跡を継いだ 成王 ( せいおう )を支えて諸侯をまとめ、 封建制による支配を確立します。 12代 幽王 ( ゆうおう )の時代、 幽王 ( ゆうおう )は絶世の美女・ 褒姒 ( ほうじ )を 寵愛 ( ちょうあい )するあまり、民心を失ってしまいました。 そして、 幽王 ( ゆうおう )が 皇后 ( こうごう )の 申氏 ( しんし )を廃位するに至ると、怒った 申侯 ( しんこう )は西方の異民族( 犬戎 ( けんじゅう ))と連合して反乱を起こし、敗北した 周 ( しゅう )は 鎬京 ( こうけい )( 長安 ( ちょうあん ))から 洛邑 ( らくゆう )( 洛陽 ( らくよう ))に首都を移します。 春秋戦国時代(B. 770年〜B. 221年) 春秋 ( しゅんじゅう )時代 春秋 ( しゅんじゅう )時代の地図(B. 770〜B. 403) 周 ( しゅう )の敗北によってその支配力は低下し、多数の諸侯が並び立つ群雄割拠の時代に突入します。 周 ( しゅう )の他に 晋 ( しん )・ 燕 ( えん )・ 衛 ( えい )・ 魯 ( ろ )・ 鄭 ( てい )・ 曹 ( そう )・ 秦 ( しん )・ 斉 ( せい )・ 楚 ( そ )・ 宋 ( そう )・ 陳 ( ちん )・ 蔡 ( さい )・ 呉 ( ご )・ 越 ( えつ )などの諸侯が互いに争いを繰り返し、その中でも大きな勢力を誇っていた 晋 ( しん )が、 韓 ( かん )・ 魏 ( ぎ )・ 趙 ( ちょう )の3国に分かれました。 この、 晋 ( しん )が3国に分かれる以前を「 春秋 ( しゅんじゅう )時代」、分かれた以後を「戦国時代」と言います。 戦国 ( せんごく )時代 戦国時代の地図(B. 403〜B. 221) その後、諸侯は戦国七雄と呼ばれる 秦 ( しん )・ 韓 ( かん )・ 趙 ( ちょう )・ 魏 ( ぎ )・ 楚 ( そ )・ 秦 ( しん )・ 斉 ( せい )の7国に 淘汰 ( とうた )され、この頃になると、七雄の君主それぞれが「王」を称するようになりました。 またこの頃になると、鉄製の農具の発展によって食料の増産が進むようになります。 247年、 秦 ( しん )王・ 嬴政 ( えいせい )が13歳で即位すると、B. 230年には 韓 ( かん )を、B. 228年には 趙 ( ちょう )を、B. 225年には 魏 ( ぎ )を、B. 223年には 楚 ( そ )を、B. 222年には 燕 ( えん )を、そしてB. 221年には 斉 ( せい )を滅ぼし、中国史上初めての統一王朝「 秦 ( しん )」が誕生しました。 221年〜B. 206年) 秦 ( しん )の地図(B. 210年頃) 秦 ( しん )の 始皇帝 ( しこうてい )( 嬴政 ( えいせい ))は、 度量衡 ( どりょうこう )や文字を統一し、封建制よりも中央集権の性格が強い 郡県制を導入します。 また一方で、北方騎馬民族の侵入に備えた万里の長城や、壮大な宮殿・ 阿房宮 ( あぼうきゅう )、 秦始皇帝陵 ( しんしこうていりょう )や 兵馬俑 ( へいばよう )を建設したことに加え、 焚書坑儒 ( ふんしょこうじゅ )による思想の弾圧によって、民衆の不満が高まっていきました。 206年、巡幸中に 始皇帝 ( しこうてい )が亡くなると、跡を継いだ二世皇帝・ 胡亥 ( こがい )は 丞相 ( じょうしょう )・ 李斯 ( りし )と 宦官 ( かんがん )・ 趙高 ( ちょうこう )の 傀儡 ( かいらい )となって暴政を行い「 陳勝 ( ちんしょう )・ 呉広 ( ごこう )の乱」を引き起こします。 この「 陳勝 ( ちんしょう )・ 呉広 ( ごこう )の乱」は 秦 ( しん )によって鎮圧されたものの、反 秦 ( しん )勢力は 楚 ( そ )の国を復興して 秦 ( しん )と戦い続けました。 この戦いで活躍したのが、 項羽 ( こうう )と 劉邦 ( りゅうほう )です。 秦 ( しん )の首都・ 咸陽 ( かんよう )を落とし、 胡亥 ( こがい )の跡を継いだ 秦王 ( しんおう )・ 子嬰 ( しえい )を降伏させた 劉邦 ( りゅうほう )は、その後に起こった 項羽 ( こうう )との争い( 楚漢 ( そかん )戦争)に勝利して 漢 ( かん )( 前漢 ( ぜんかん ))を建国しました。 206年〜A. 8年) 前漢 ( ぜんかん )の地図(B. 206年〜A. 8年) 高祖 ( こうそ )( 劉邦 ( りゅうほう ))は大きな力を持つ建国の功臣たちを粛清し、親族を 諸侯王 ( しょこうおう )に封じて、郡県制と封建制が混在する 郡国制を導入し、 劉 ( りゅう )氏による支配体制を強化しました。 ですが 高祖 ( こうそ )の死後、 高祖 ( こうそ )の 皇后 ( こうごう )・ 呂后 ( りょこう )( 呂雉 ( りょち ))の一族が実権を握るようになったため、5代皇帝・ 文帝 ( ぶんてい )の頃より 諸侯王 ( しょこうおう )の権限を縮小する政策を行います。 また、7代皇帝・ 武帝 ( ぶてい )は 郷挙里選 ( きょうきょりせん )という人材登用制度を採用し、 秦 ( しん )の時代から 版図 ( はんと )を広げ、 西域 ( せいいき )との交易(シルクロード)が可能となりました。 前漢 ( ぜんかん )時代の代表的な作品 中国ドラマ 『 劉邦 ( りゅうほう )の 大風歌 ( たいふうか ) — 巻建国記 ( かんけんこくき )-』(原題: 『大风歌』) 監督:ホアン・ジェンチョン 新(8年〜25年) 前漢 ( ぜんかん )第14代皇帝・ 平帝 ( へいてい )が亡くなると、外戚の 王莽 ( おうもう )はわずか2歳の 劉嬰 ( りゅうえい )を皇太子に立て、自分は「摂皇帝」として実権を掌握します。 8年、 王莽 ( おうもう )は「 高祖 ( こうそ )の霊から 禅譲 ( ぜんじょう )を受けた」として皇帝に即位し、 新 ( しん )を建国しました。 ですが、 王莽 ( おうもう )の行った古典を重んじた理想主義的な政策は国内の混乱を招き、「 呂母 ( りょぼ )の乱」を切っ掛けに 新 ( しん )に不満を持つ民衆や豪族が蜂起することになり、 王莽 ( おうもう )は殺され、この反乱を鎮圧した皇族 傍系 ( ぼうけい )の 劉秀 ( りゅうしゅう )が、 漢 ( かん )を再興しました。 後漢(25年〜220年) 後漢 ( ごかん )の地図(25年〜220年) 光武帝 ( こうぶてい )( 劉秀 ( りゅうしゅう ))によって再興された 漢 ( かん )( 後漢 ( ごかん ))の皇帝は早世することが多く、4代皇帝・ 和帝 ( わてい )以降幼少の皇帝が続き、外戚が政治の実権を握るようになりました。 そして、11代皇帝・ 桓帝 ( かんてい )の時代、宦官の力を借りて外戚の排除に成功すると、宦官に特権が与えられるようになり、宦官たちは 賄賂 ( わいろ )を横行させて私腹を肥やすことに夢中になります。 これによって、 漢 ( かん )( 後漢 ( ごかん ))の国力は弱体化し、異民族の侵入や国内の反乱が多発するようになり、184年には大規模な農民反乱である 黄巾 ( こうきん )の乱を引き起こしました。 魏晋南北朝時代 三国 ( さんごく )時代(220年〜280年) 三国時代の地図(220年〜280年) 12代皇帝・ 霊帝 ( れいてい )の死後、朝廷で権力を握った 董卓 ( とうたく )に反発する諸侯によって群雄割拠の状態となります。 その後、いち早く14代皇帝・ 献帝 ( けんてい )を保護した 曹操 ( そうそう )が河北一帯を支配して 魏王 ( ぎおう )となると、跡を継いだ 曹丕 ( そうひ )が 献帝 ( けんてい )から 禅譲 ( ぜんじょう )を受けて 魏 ( ぎ )を建国しました。 ですが、それを認めない 劉備 ( りゅうび )が 蜀 ( しょく )を、 孫権 ( そんけん )が 呉 ( ご )を建国し、3国が 鼎立 ( ていりつ )する三国時代が訪れます。 帝位に 就 ( つ )いた 魏 ( ぎ )の 曹丕 ( そうひ )は、 郷挙里選 ( きょうきょりせん )に代わる人材登用制度として 九品官人法 ( きゅうひんかんじんほう )を採用しました。 魏 ( ぎ )では、皇帝・ 曹丕 ( そうひ )が在位6年で亡くなり、跡を継いだ皇帝も 皆 ( みな )早世すると、配下の 司馬懿 ( しばい )が実権を握るようになります。 魏 ( ぎ )は263年に 蜀 ( しょく )を降伏させると、 司馬炎 ( しばえん )が 魏 ( ぎ )の皇帝・ 曹奐 ( そうかん )から 禅譲 ( ぜんじょう )を受けて 晋 ( しん )を建国し、280年には 呉 ( ご )を降伏に追い込みました。 五胡十六国 ( ごこじゅうろっこく )時代(317年〜439年) 五胡十六国 ( ごこじゅうろっこく )時代の地図 「八王の乱」をきっかけに 晋 ( しん )に従っていた異民族たちが反乱を起こすと、首都・ 洛陽 ( らくよう )に続いて 長安 ( ちょうあん )も陥落した 晋 ( しん )( 西晋 ( せいしん ))は滅び、 司馬懿 ( しばい )のひ孫に当たる 司馬睿 ( しばえい )が 建康 ( けんこう )( 建業 ( けんぎょう ))に首都を移して 東晋 ( とうしん )を建国しました。 この時反乱を起こした 匈奴 ( きょうど )、 鮮卑 ( せんぴ )、 羯 ( けつ )、 羌 ( きょう )、 氐 ( てい )の5つの異民族を「 五胡 ( ごこ )」、彼らが建国した国を総称して「 十六国 ( じゅうろっこく )」と言います。 南北朝 ( なんぼくちょう )時代(439年〜589年) その後、 鮮卑族 ( せんぴぞく )が建国した 北魏 ( ほくぎ )が 華北 ( かほく )を統一しますが、やがて 東魏 ( とうぎ )と 西魏 ( せいぎ )に分裂し、 東魏 ( とうぎ )は 北斉 ( ほくせい )に、 西魏 ( せいぎ )は 北周 ( ほくしゅう )に取って代わられ、577年には 北周 ( ほくしゅう )が 北斉 ( ほくせい )を滅ぼして、再び 華北 ( かほく )を統一しました。 南北朝時代の代表的な作品 中国ドラマ 『 北魏馮太后 ( ほくぎふうたいごう )』(原題: 『北魏馮太后』) 監督:ウェイ・ハンタオ 隋(589年〜618年) 隋 ( ずい )の地図 隋 ( ずい )は人材登用制度として 科挙 ( かきょ )を導入したことと、日本が 遣隋使 ( けんずいし )を派遣したことで有名ですが、わずか30年足らずで滅びてしまった短命な王朝でした。 2代皇帝・ 煬帝 ( ようだい )が行った大規模な土木事業と周辺国への盛んな遠征は民衆の疲弊と不満を招き、各地で反乱を起こした豪族たちは群雄化していきます。 煬帝 ( ようだい )はその現実から逃避して 江南 ( こうなん )に行幸し、酒色に 耽 ( ふけ )るようになりました。 隋 ( ずい )時代の代表的な作品 中国ドラマ 『 隋唐演義 ( ずいとうえんぎ ) 〜 集 ( つど )いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜』(原題: 『 隋唐演義 ( ずいとうえんぎ )』) 監督:鍾少雄(ビリー・チョン) 唐(618年〜907年) 唐 ( とう )の最大版図(660年頃) 618年、 煬帝 ( ようだい )が殺害されると、群雄の1人である 李淵 ( りえん )は 自 ( みずか )ら 擁立 ( ようりつ )した 恭帝 ( きょうてい )から 禅譲 ( ぜんじょう )を受け、 唐 ( とう )を建国しました。 高祖 ( こうそ )( 李淵 ( りえん ))の出自については、 鮮卑 ( せんぴ )族とする説と漢民族とする両方の説があります。 2代皇帝・ 太宗 ( たいそう )( 李世民 ( りせいみん ))、3代皇帝・ 高宗 ( こうそう )( 李治 ( りち ))の時代には、北方異民族の 突厥 ( とっけつ )や、 高句麗 ( こうくり )征伐を成し 遂 ( と )げ、異民族に対して 唐 ( とう )の法律や慣習を強制しない 羈縻政策 ( きびせいさく )によって従属させました。 その後、3代皇帝・ 高宗 ( こうそう )( 李治 ( りち ))の 皇后 ( こうごう )・ 武則天 ( ぶそくてん )( 則天武后 ( そくてんぶこう ))が帝位を 簒奪 ( さんだつ )し、国号を「 周 ( しゅう )」と改める「 武周革命 ( ぶしゅうかくめい )」が起こりましたが、 武則天 ( ぶそくてん )が退位すると、 高宗 ( こうそう )の子・ 中宗 ( ちゅうそう )( 李顕 ( りけん ))が再び帝位に就きます。 9代皇帝・ 玄宗 ( げんそう )( 李隆基 ( りりゅうき ))の時代は 開元 ( かいげん )の 治 ( ち )と呼ばれる全盛期を迎えますが、 玄宗 ( げんそう )が 楊貴妃 ( ようきひ )を 溺愛 ( できあい )するようになると、辺境を守る 節度使 ( せつどし )の反乱・ 安史 ( あんし )の乱を 招 ( まね )いてしまいました。 安史 ( あんし )の乱によって 疲弊 ( ひへい )した 唐 ( とう )は次第に征服した土地を 失 ( うしな )い、国内でも反乱が続発するようになると、 黄巣 ( こうそう )の乱で頭角を現した 朱全忠 ( しゅぜんちゅう )によって滅亡に追いやられました。 有名な詩人、 杜甫 ( とほ )、 李白 ( りはく )、 王維 ( おうい )たちが活躍し、日本から「 遣唐使 ( けんとうし )」が送られていたのはこの時代です。 唐 ( とう )時代の代表的な作品 中国ドラマ 『 西遊記 ( さいゆうき )』 監督:楊浩(ヤン・ジエ) 五代十国時代(907年〜960年) 五代十国 ( ごだいじゅっこく )時代の地図 唐 ( とう )の滅亡後、各地の 節度使 ( せつどし )が独立して群雄化すると、中国大陸はまた戦乱の時代になります。 この時代、 華北 ( かほく )には、 後梁 ( こうりょう )、 後唐 ( こうとう )、 後晋 ( こうしん )、 後漢 ( こうかん )、 後周 ( こうしゅう )の5つの国が 興 ( おこ )り、 江南 ( こうなん )を中心に 前蜀 ( ぜんしょく )、 後蜀 ( こうしょく )、 呉 ( ご )、 南唐 ( なんとう )、 荊南 ( けいなん )、 呉越 ( ごえつ )、 閩 ( びん )、 楚 ( そ )、 南漢 ( なんかん )、 北漢 ( ほくかん )の10の国が 興 ( おこ )ったことから、この時代を 五代十国 ( ごだいじゅっこく )時代と言います。 宋(960年〜1279年) 北宋 ( ほくそう )(960年〜1127) 宋 ( そう )( 北宋 ( ほくそう ))の地図 960年、 五代 ( ごだい )最後の王朝・ 後周 ( こうしゅう )に仕える 趙匡胤 ( ちょうきょういん )が 禅譲 ( ぜんじょう )を受けて 宋 ( そう )を建国します。 そして、 唐 ( とう )の失敗に学んだ 宋 ( そう )は、 節度使 ( せつどし )の権限の縮小と 科挙 ( かきょ )の改革を行って 武断政治から 文治政治への転換を図ると、次々に 十国 ( じゅっこく )を滅ぼし、979年、2代皇帝・ 太宗 ( たいそう )の時代に中国大陸の統一を果たしました。 またこの頃北方には、モンゴル系の 契丹 ( きったん )族による「 遼 ( りょう )」、チベット系のタングート族( 羌 ( きょう )族)による「 西夏 ( せいか )」が建国されていました。 遼 ( りょう )の侵攻を受けた 宋 ( そう )はこれを撃退することができず、毎年絹20万 疋 ( ひき )・銀10万両を贈ることで不戦同盟を結びました。 1126年の 靖康 ( せいこう )の変によって首都・ 開封 ( かいほう )は陥落し、9代皇帝・ 欽宗 ( きんそう )は捕らえられ、 宋 ( そう )( 北宋 ( ほくそう ))は滅ぼされました。 これを受け、翌年の1127年、 欽宗 ( きんそう )の弟・ 高宗 ( こうそう )は 南京 ( なんきん )で即位して 宋 ( そう )を再興します。 これが 南宋 ( なんそう )です。 元(1271年〜1368年) 元 ( げん )の地図 モンゴルの遊牧民を統一した テムジンは部族長会議の決定によって チンギス・ハンの称号を受け、1206年にはモンゴル帝国が誕生していました。 モンゴル帝国は 華北 ( かほく )を支配していた 西夏 ( せいか )と 金 ( きん )を滅ぼすと、東ヨーロッパにまで及ぶ広大な地域に領土を広げ、モンゴル皇帝(大ハーン)を中心に チンギス・ハンの子孫を王とする連合国家を形成します。 そして1271年、5代モンゴル皇帝・ フビライ・ハンがついに 南宋 ( なんそう )に侵攻し、 元 ( げん )を建国しました。 元 ( げん )は属国であった 高麗 ( こうらい )とともに、1274年の 文永 ( ぶんえい )の 役 ( えき )と1281年の 弘安 ( こうあん )の 役 ( えき )の2度に渡って日本へも侵攻を行っています。 フビライ・ハンが亡くなり1300年代に入ると、皇帝の座を巡ってモンゴル貴族同士の争いが 頻発 ( ひんぱつ )するようになり、 元 ( げん )は次第に弱体化していきました。 元 ( げん )時代の代表的な作品 中国ドラマ 『 大明帝国 ( だいみんていこく ) 朱元璋 ( しゅげんしょう )』(原題: 『朱元璋』) 監督:馮小寧(フォン・シャオニン) 明(1368年〜1644年) 明 ( みん )の地図(1580年) 1351年に起こった 紅巾 ( こうきん )の乱で頭角を現し、 江南 ( こうなん )を支配した 朱元璋 ( しゅげんしょう )( 洪武帝 ( こうぶてい ))は、 明 ( みん )を建国。 北伐を行って漢民族による中国大陸の統一を果たします。 洪武帝 ( こうぶてい )は、皇帝1代につき1元号とする 一世一元 ( いっせいいちげん )の制や、領民を把握するために 魚鱗図冊 ( ぎょりんずさつ )(土地台帳)と 賦役黄冊 ( ぶえきこうさつ )(租税・戸籍台帳)を整えて支配体制の強化に 務 ( つと )めると、3代 永楽帝 ( えいらくてい )は積極的に領土を広げ、4代 洪熙帝 ( こうきてい )、5代 宣徳帝 ( せんとくてい )の時代には 仁宣 ( じんせん )の 治 ( ち )と呼ばれる 明 ( みん )の最盛期を迎えます。 その後、 北虜南倭 ( ほくりょなんわ )と呼ばれる外敵の侵入に苦しめられた 明 ( みん )の財政は 破綻 ( はたん )し、 李自成 ( りじせい )の乱という農民反乱によって首都・ 北京 ( ぺきん )は陥落、17代皇帝・ 崇禎帝 ( すうていてい )は自害して 明 ( みん )は滅びました。 清(1644年〜1912年) 清 ( しん )の最大版図(1820年頃) 1616年に 女真 ( じょしん )族( 満州 ( まんしゅう )族)の ヌルハチによって建国された 後金 ( こうきん )は、南モンゴルを征服すると国号を 清 ( しん )に変更。 1644年に 明 ( みん )が滅びると南下を開始して 李自成 ( りじせい )を破り、3代皇帝・ 順治帝 ( じゅんちてい )の時に中国大陸の統一を果たします。 清 ( しん )は 満州 ( まんしゅう )族の風習である 辮髪 ( べんぱつ )を強要し、 清 ( しん )に批判的な思想を弾圧する一方で、漢民族と 満州 ( まんしゅう )族を同人数役人に採用する 満漢併用制 ( まんかんへいようせい )を実施して、大多数の漢民族を支配しました。 清 ( しん )は北モンゴル、チベット、東トルキスタン( 新疆 ( しんきょう ))にまで版図を広げますが、やがて 産業革命を果たしたヨーロッパ諸国の侵略を受けるようになります。 1900年、外国勢力の排斥を強行する 義和団 ( ぎわだん )の乱が起こると、これを支持した 西太后 ( せいたいごう )は欧米列強に宣戦布告。 イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の8ヶ国によって鎮圧され、これによって列強による分割や港湾の租借がさらに進みました。 清 ( しん )時代の代表的な作品 中国ドラマ 『 末代皇妃 ( まつだいこうき )— 紫禁城 ( しきんじょう )の 落日 ( らくじつ )-』 監督:滕文驥(トン・ウエンジー) 中華民国(1912年〜) 1911年、 武昌 ( ぶしょう )で起こった反乱がきっかけとなった 辛亥革命 ( しんがいかくめい )によって、漢民族による民主主義国家の建国を 唱 ( とな )える 孫文 ( そんぶん )が 中華民国 ( ちゅうかみんこく )臨時政府を設立します。 この討伐に当たった 清 ( しん )の 袁世凱 ( えんせいがい )は臨時政府と秘密裏に交渉し、 中華民国 ( ちゅうかみんこく )臨時大総統の地位と引き替えに12代皇帝・ 宣統帝 ( せんとうてい )( 愛新覚羅溥儀 ( あいしんかくらふぎ ))を退位させたため、これによって 清 ( しん )は滅亡しました。 清 ( しん )が滅亡すると、モンゴル、チベット、東トルキスタン( 新疆 ( しんきょう ))は次々に独立。 愛新覚羅溥儀 ( あいしんかくらふぎ )は 満州 ( まんしゅう )に亡命して 満州国 ( まんしゅうこく )を建国します。 袁世凱 ( えんせいがい )の死後、中国大陸は複数の 軍閥 ( ぐんばつ )に分割統治されていましたが、1937年の 盧溝橋事件 ( ろこうきょうじけん )を発端に日中戦争に突入すると、 軍閥 ( ぐんばつ )たちは協力して日本と戦いました。 その後、太平洋戦争の終結によって日本軍が撤退すると、 蔣介石 ( しょうかいせき )の中国国民党と 毛沢東 ( もうたくとう )の中国共産党の対立が再燃し、ソ連の支援を受けた中国共産党に敗北した中国国民党は、 台湾 ( たいわん )に政府を移しました。 中華民国 ( ちゅうかみんこく )時代の代表的な作品 中国ドラマ 『 大敦煌 ( だいとんこう )— 秘宝奪還 ( ひほうだっかん )-』 監督:陳家林(チェン・ジアリン) 中華人民共和国(1949年〜) 中華人民共和国 ( ちゅうかじんみんきょうわこく )の地図 1949年、中国国民党に勝利した中国共産党は 中華人民共和国 ( ちゅうかじんみんきょうわこく )を建国し、 毛沢東 ( もうたくとう )が主席の座に 就 ( つ )きます。 中華人民共和国 ( ちゅうかじんみんきょうわこく )は 清 ( しん )時代の支配地域を自国の領土と主張し、建国と同時に 満州 ( まんしゅう )と 内 ( うち )モンゴルを併合し、 東トルキスタン( 新疆 ( しんきょう ))に侵攻します。 そして、1951年には チベット全土を制圧したため、 ダライ・ラマ14世はインドへ亡命し、チベット亡命政府を打ち立てました。 中華人民共和国 ( ちゅうかじんみんきょうわこく )は中国共産党による事実上の一党独裁体制により、その後も拡張主義をとっており、現在でも周辺諸国との領土問題が存在しています。 スポンサーリンク 知っておいた方が絶対面白い! 中国の歴代王朝と代表的な歴史作品の時代背景はご理解いただけましたでしょうか? 動画配信サービスが普及したお陰で、小説や漫画だけでなく、中国ドラマでも中国の歴史を扱った作品に触れる機会が多くなりました。 もちろんどの作品も基礎知識がないまま観ても十分楽しめるのですが、中国では人を説得する時などに過去の出来事や人物の行いを例えに出すことが多いので、中国の歴代王朝の流れと作品の時代背景を頭に入れておくと、より楽しめると思います。 地図出典一覧• 夏 ( か )王朝全盛期の地図(B. 2050年頃)• 商 ( しょう )( 殷 ( いん ))の地図(B. 1600年頃〜B. 1046年)• 周 ( しゅう )( 西周 ( せいしゅう ))の地図(B. 1047年頃〜B. 771年)• 春秋 ( しゅんじゅう )時代の地図(B. 770〜B. 403)• 戦国 ( せんごく )時代の地図(B. 403〜B. 221)• 秦 ( しん )の地図(B. 210年頃)• 前漢 ( ぜんかん )の地図(B. 206年〜A. 8年)• 後漢 ( ごかん )の地図(25年〜220年)• 三国 ( さんごく )時代の地図(220年〜280年)• 五胡十六国 ( ごこじゅうろっこく )時代の地図• 五代十国 ( ごだいじゅっこく )時代の地図• 元 ( げん )の地図• 隋 ( ずい )の地図• 唐 ( とう )の最大版図(660年頃)• 宋 ( そう )( 北宋 ( ほくそう ))の地図• 金 ( きん )・ 宋 ( そう )( 南宋 ( なんそう ))の地図• 明 ( みん )の地図(1580年)• 清 ( しん )の最大版図(1820年頃) スポンサーリンク.

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吉田松陰

しょう いん じ だい ゆう

大雄院(だいおういん)は、 京都市右京区にある のお寺です。 日本最大の禅寺である妙心寺。 日本にある約6,000の臨済宗の寺院のうち、なんと半数以上が妙心寺に属する寺院なんです。 この大雄院は、そんな妙心寺に属する塔頭寺院の一つ。 塔頭のうち、 、 、大心院の三寺院が常に一般公開されており、この大雄院は 不定期に開催の特別拝観の期間にのみその境内が公開 されます。 そんな大雄院の見どころは、 「近世の天才芸術家と評される による襖絵」! ウィーン万国博覧会での評価など、日本に留まらず世界的に評価された是真の芸術作品。 そんな是真の代表作でもある七十二面にのぼる襖絵の大作が、この大雄院には残されています。 「海外でもその評価が高い芸術家が遺した襖絵を見たければ大雄院へ!」 今回は、そんな大雄院を訪れてみました。 大雄院の歴史 では、まずはじめに 大雄院 の歴史と覚えておきたいポイントを一緒に見て行きましょう! この 大雄院(だいおういん) は、日本最大の禅寺である妙心寺塔頭の一つ。 の1603年に、の武将であったが、の住職であった慧南玄譲(えなんげんじょう)を招き創建されました。 石川光忠とはあまり聞きなれない名前ですが、どんな武将だったんでしょうか? 今回は、このお寺の開基であるこの 「石川光忠(いしかわみつただ)」について見て行きましょう! そもそも光忠の属する「美濃石川家」は尾張藩の所属であり、長くに仕えた名家。 光忠の父・は、秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いで西軍に所属し敗北、にその領地を没収されてしまい、失意の中でその生涯を閉じます。 一人残された跡取り息子の光忠は、不遇な父親を弔うために京都にお寺を建立することになりました。 そのお寺がこの 大雄院(だいおういん)で、お寺の創建当時の光忠はなんとわずか 「9歳」! あの世の光元「幼いわが子を遺して死ぬとは・・・、我が人生に一遍の悔いありまくりやー!」 光忠「父上、安心してください!立派に家を継ぎます!子供だけど!」 光忠「父上の魂を弔うために立派なお寺も建てました!子供だけど!」 あの世の光元<「うぅっ、何てえぇ子に育ったんや・・・。 パパ感激!」 てことで、光忠は今の小学生ほどの年齢で名家の家督相続とお寺の創建という重責を果たしたのでした。 昔の日本で長男に生まれるとホント大変だったんですよね、現代に生まれてきてよかった…。 ただし、どれだけしっかりしていても子供は子供。 本人の資質や家柄だけで、全てが上手くいくほどその時代は甘くありませんよね。 しかーし! 彼はラッキーだったことに、母親がその後超大物に出世した人物だったんです。 そんな彼の母親の名前は。 そうです、母親は光忠を生んですぐ徳川家康に見初められ22歳で側室に抜擢、家康がベタ惚れで迎えたそうです。 その当時、家康との年の差はなんと30歳も離れていたんだとか! エロたぬきじじいめ・・・。 ウラヤマシイ。 そのお亀の方が側室に入る条件の一つとして家康に出したのが、自身の子であった光忠を守ること。 お亀の方「ちょっと家康はん、うちの子とってもええ子やさかい後の面倒を見たってくれはります?」 徳川家康「おぉ、可愛いお前の言う事やったら何でも聞いたるで!尾張藩で面倒見たるわ!がはは!」 ということで、光忠は母親の取りなしにより徳川家が治めるに召し抱えられることとなり、見事返り咲くことが出来ましたとさ! この大雄院は、そんな波乱万丈の子供時代を過ごした光忠が興したお寺です。 教訓「子供が最後に頼れるのは、いつの時代も母の愛なんですね!」 おしまい。 妙心寺の歴史についても知っておこう! 大雄院の地図• 表門 大雄院は 境内の北東に位置し、北総門からは約3分、南総門からは約4分ほど境内を歩くと到着します。 妙心寺の境内を進んでいくと、大雄院の 表門(おもてもん)が見えてきました! こちらの門は江戸時代初期の1603年の創建当時から唯一残されている建築で、京都府指定登録文化財です。 江戸時代末期に改築されたもので、京都指定登録文化財です。 こちらで拝観の受付や御朱印の依頼をさせて頂きました。 こちらで靴を脱いで建物内に入ります。 客殿(きゃくでん)及び 書院(しょいん)は渡り廊下で繋がる建築で、元々はお亀の方が徳川家康から贈られた伏見の屋敷を移築したものだそうです。 現在の建築はの1726年に再建され、いずれも京都指定登録文化財に指定されています。 玄関から入って手前が客殿、奥が書院になっています。 客殿や書院の内部は、襖絵を含めて写真撮影禁止でした。 大雄院のパンフレットより 客殿では、江戸時代から明治初期にかけての天才芸術家として名高いによる全七十二面の圧巻の襖絵を拝むことが出来ました! この是真の繊細かつおしゃれな作品は、日本国内よりむしろ海外で評価が高く、 是真の作品を日本で見られるのはとても貴重なんだそうです。 奥の書院では、江戸時代後期の画家・ 土岐済美(ときざいみ)によって描かれたダイナミックな構図の「山水図襖絵」を拝見させて頂きました。 私が訪れたのは冬だったので苔が色あせていますが、苔の綺麗な時期には 2種類の色の異なる苔のコントラストが楽しめる庭園です。 また、庭園をよく観察すると 傘の形がそれぞれ異なる三種類の燈籠が置かれているのも面白いポイントですね。 庭園の後方には小さいながらもしっかりと池や橋が配され、ぐっと凝縮された庭園美を楽しむことが出来ました。 これで、大雄院の主な見どころは見て回りました! やはりの襖絵が一番の見どころだと思います。 また、昨今はと題して是真が遺した図面をもとに新たな襖絵デザインを行っておられるなど、芸術保存を意識した取り組みもなされていますので、次回訪れる際にはまた違った風景を拝めることになりそうです。 是非行ってみてくださいね。 大雄院の写真 大雄院の地図 大雄院は、妙心寺の境内にあります。 最寄り駅は JR花園駅または 嵐電北野線 妙心寺駅です。 京都駅、京都河原町駅、祇園四条駅からバスで行くことも出来ます。 花園駅からの徒歩ルート例.

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