坂本 九 飛行機。 坂本九飛行機事故で遺書!身代わり説や明石家さんまとの関係,原因や真相は?

「上を向いて歩こう」だけではない、歌手・坂本九が遺した偉大な功績…今日は31回目の命日。 【大人のMusic Calendar】

坂本 九 飛行機

プロフィール 名前:坂本九(さかもときゅう) 本名:大島九(おおしまひさし) 愛称:九ちゃん 生年月日:1941年12月10日 出身地:神奈川県川崎市川崎区 没日:1985年8月12日(43歳) 坂本九さんは1941年12月10日、荷役請負業の社長をしていた父親と母親の第9子として生まれます。 そんな坂本九さんが生まれた日は、第二次世界大戦のマレー沖海戦が起こった日で、幼少期は戦争の真っただ中だったため、母親の実家である茨城県笠間市に 疎開します。 その後、高校生の時に 両親が離婚した坂本九さんは、母親に引き取られたことで姓が大島へと変更になっています。 そしてこの頃から エルヴィス・プレスリーに憧れるようになった坂本九さんは、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となります。 バンドから始まった坂本九の音楽 高校生になった坂本九さんは、当時若者に人気だった ロックン・ロールに熱を上げ、立川の将校クラブでアメリカ人を相手に初めて人前で歌います。 1985年、当時ロカビリーバンドとして活動していた井上ひろしさんと ザ・ドリフターズに加入した坂本九さんは、ボーカル兼ギターを担当します。 同年8月には、ロカビリー歌手として 第3回日劇ウエスタンカーニバルに出演し、新人賞を受賞しています。 そんな坂本九さんは当時、母親の反対を押し切って芸能活動を行っていたのですが、ふと間違いではないかと思い始め、「 芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退したのです。 しかし、周囲の説得で パラダイス・キングの一員としてビクターレコードと契約し、『題名のない唄だけど』で歌手デビュー。 残念ながら、この曲はヒットしませんでした。 若い頃に世界的スターとなった坂本九 その後の1960年、東芝音楽出版(東芝レコード)に移籍した坂本九さんは、移籍後の第1弾シングル『 悲しき六十才』が10万枚を売り上げ、初のヒットとなります。 そして1963年、『SUKIYAKI』というタイトルでアメリカでもリリース。 【6月15日は何の日フッフ〜】それは1963年(昭和38年)のこと・・坂本九の『上を向いて歩こう(SUKIYAKI)』がアメリカのヒットチャート(Billboard Hot 100)で1位を獲得した日です。 現在もアジア圏の楽曲によるBillboard Hot 100の1位獲得は『上を向いて歩こう』のみ。 その後の1964年、『上を向いて歩こう』が米国内でレコード累計販売枚数が100万枚を超えたため、坂本九さんは 日本人初の『ゴールドディスク』を受賞しています。 プロフィール 名前:柏木由紀子(かしわぎゆきこ) 本名:大島由紀子(おおしまゆきこ) 生年月日:1947年12月24日 出身地:東京都世田谷 最終学歴:玉川学園女子短期大学 所属事務所:坂本九音楽事務所 東京都世田谷区で生まれた柏木由紀子さんは、3人姉妹の末っ子で引っ込み思案だったそう。 母親の勧めでカナリヤ児童合唱団に所属、小学生5年生の時には、芸能事務所である劇団若草に入団しています。 そんな柏木由紀子さんは、 雑誌『女学生の友』などでモデルを務め、高校生の時には松竹映画 『明日の夢があふれている』で映画デビューしています。 また、その時に共演した三田明さんの所属事務所の勧めで、翌1965年に 『若い真珠』でレコードデビューも果たしています。 1966年には、テレビドラマ『東京の人』でヒロインを務めた柏木由紀子さんは、東宝テレビ部に所属し、数々のテレビドラマで活躍します。 そして1969年にマドンナ教師役に抜擢された『 炎の青春』や、翌1970年の『 細うで繁盛記』で人気を博したのです。 きっかけは坂本九からのアプローチだった ヨーロッパへ新婚旅行へ行った坂本九と柏木由紀子 坂本九と柏木由紀子の新婚旅行(パリ)の写真がおしゃれ「徹子の部屋」より… — キネコ kinekoV 翌1972年5月には、 ヨーロッパへ新婚旅行をしている坂本九さんと柏木由紀子さんですが、ずっとカメラマンも一緒だったそうです。 坂本九の死因は飛行機事故だった… 数々のヒット曲を世に送り出し、世界的スターとして活躍していた坂本九さんですが、1985年8月12日、43歳という若さで亡くなっています。 日本航空123便の墜落事故で突然死した坂本九さん 坂本九さんの死因である 日航機墜落事故は、1985年8月12日に発生し、悲運な飛行機事故として今もなお語り継がれています。 実は墜落事故を起こしたJAL123便は1978年6月2日、羽田発伊丹行き115便として着陸しようとした際、機体底部が滑走路に接触する「しりもち事故」を起こしていました。 そしてこの事故の修理はボーイング社が行いましたが、 後部圧力隔壁の修理の際に 人為的ミスを起こしていたのです。 修理ミスは事故の7年前、別の事故でボーイングがこの隔壁を修理したときに起きた。 2列のリベット(鋲)でとめるべきところを1列でとめてしまったため、強度不足になった隔壁が飛行中に破れ、機内の空気が尾部へ流入して垂直尾翼を破壊し、事故機は制御不能になった。 これが事故の真相だった。 asahi. こうしたことから、ヒューマンエラーで起こった事故ではなく、 自衛隊に撃墜され、それを隠すために現場の特定や救出等も遅らせたのではと言われています。 つまり、本件は 修理ミスに起因する事故ではなく、「外部要因によって墜落させられた事件であり、それを隠すために組織的な隠ぺい工作が行われ、意図的に現場の特定や救出等も遅延された可能性がある」ということだ。 引用:520名が犠牲になった33年前の日航機墜落に新証言。 地元民たちが目撃した光景とは!? 藤原 自衛隊は、墜落当日の夜に現場を確認しています。 ところが、自衛隊から上がってきた墜落現場の情報は3地点、しかも位置にかなりばらつきがありました。 米田 防衛庁 当時 の公式発表は御座山北斜面、御座山南斜面、扇平山の北側、御座山の東5kmと、次々に変わりました。 ismedia. しかし、 遺体の損傷が激しかったことから、坂本九さんと断定されたのは 歯形からだったそうです。 その後、事故から99時間後の16日、坂本九さんの遺体は家族によって確認されています。 遺体の損傷が酷かった坂本九さんですが、 普段から身に着けていた笠間稲荷のペンダントが胸に刺さっていたこと、そして首が太かったことから、家族はすぐに坂本九さんだと分かったそう。 また、坂本九さんは 『安全姿勢』をとった状態で発見され、即死だったそうです。 遺書は残せなかった坂本九 日航機墜落事故で亡くなった方の中には、遺書やメモを残している方もいたそうです。 実は、坂本九さんは機内にボストンバッグを持ち込んでおり、その中に遺書がないか家族も淡い期待をしたそうです。 そして坂本九さんのバッグの中に、録音機能付きのウォークマンが入っていたので、家族は期待しながら聞いてみたと言います。 プロフィール 名前:大島花子(おおしまはなこ) 愛称:花ちゃん 生年月日:1973年10月7日 出身地:東京都 最終学歴:東洋英和女学院大学 マネージメント:キョードー・プロモーション 坂本九さんの長女・大島花子さんは、坂本九がさん亡くなった時、まだ11歳でした。 そんな大島花子さんは、『歌が大好きだった父親が喜んでくれたら』と、現在は 歌手・シンガーソングライターとして活躍しています。 また、自身の経験(11歳で父親を亡くして)から、 グリーフケアについて学ぶようになり、年に2回『Concert for grief』と題したホールコンサートを開催しています。 ちなみにグリーフケアとは、大切な人を亡くし悲しんでいる人に寄り添い、援助することです。 事故当日の父親の不可解な言葉を忘れられない次女・ゆき子さん 坂本九さんの次女・ゆき子さんは、事故当日に父親である坂本九さんが発した不可解な一言を忘れることが出来ないと言います。 ゆき子さんは幼いながらに、そんな父親の言葉が引っ掛かったそうです。 次女の舞子さんの記憶に残る坂本さんの一言。 事故を予測していたのか、坂本さんは事故当日の朝に空を見上げて、「今日は雲が速いから飛行機に乗りたくないんだよね」とつぶやいた。 舞子さんはその時、「何でそんなことを言うんだろう」と、疑問に思ったことを覚えているという。 fnn. 今年で12回目!坂本九も「出演」するこのコンサート、銀座ヤマハホール。 ママの「古希」(内緒だけど!)のお祝いも兼ねて。 家族の絆をどうぞぜひ。 本日10時から先行発売です。 — 大島花子🍎 hanakooshima しかし35年経った現在も、嫁である 柏木由紀子さんは再婚せず、娘2人と、亡き坂本九さんを思いながら、ユニット『ママエセフィーユ』として毎年クリスマスコンサートを行っています。 そして坂本九さんの歌は数々の大物アーティストにカバーされたり、CMで使われたりして受け継がれています。 まとめ いかがでしたでしょうか。 昭和を代表する歌手で世界的にも有名な坂本九さんについて、若い頃や結婚した嫁・子供、そして坂本九さんの命を奪った飛行機事故についてまとめました。 数々の名曲を世に送り出してきた坂本九さんは、柏木由紀子さんと結婚し子宝にも恵まれ幸せに生活していましたが、1985年、日航機墜落事故により亡くなっています。 しかし、亡くなって25年が経つ現在も、坂本九さんは家族に愛され、そして数々のアーティストにカバーされるなどして歌も受け継がれています。

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坂本九氏が亡くなった事故 何故、大阪に?

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本来は乗る予定ではなかった? 写真:hoshino. asablo. jp 飛行機事故について情報をたどってみると、本来は坂本九はこの飛行機にのるはずがなかったということがわかってきました。 それはどういうことか?実は、坂本九は国内での飛行機移動には全日空を利用すると決めていた為、事故のあった日本航空に乗ることはないはずでした。 しかし、この日に限っては仕事相手が用意した便が日本航空だったのです。 のちに全日空への変更を試みますが、お盆の時期という事で全日空に席を確保できず事故機に乗る事になってしまいました。 このため、坂本九の家族も乗客名簿が発表されるまでは事故にあっているはずがないと信じていたということです。 point 358 1 事故から長い時が過ぎても 写真:youtube. com 事故から30年を過ぎ、当時のことを知らない世代の方も増え、飛行機事故についての情報もあまり詳しく知らないという方も多いかもしれませんね。 事故犠牲者の遺族の方も年数分の歳を重ね、夏の御巣鷹慰霊登山に参加できる方も減ったとのニュースも報道されていました。 今年の夏も御巣鷹登山に関連して坂本九の「上を向いて歩こう」を流すテレビ局やラジオ局がありました。 事故から32年目となる2017年は仏事では33回忌のお弔い上げという節目の年にあたります。 過去のニュースになっても遺族にとっては大切な家族を失ったことに変わりはありません。 point 341 1.

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坂本九

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事故、そして亡き父のことを語る大島花子。 30年前の夏、1985年8月12日に日本航空ジャンボ機が「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)に墜落し、520人の命が奪われた。 その中に「上を向いて歩こう」の世界的大ヒットで知られる歌手・坂本九さんがいた。 当時43歳。 このとき小学6年生だったのが、九さんの愛娘の長女・大島花子(41)だ。 30年が経過した今、突然襲った悲劇の日の思いを本紙に語った。 この時期が来ると、決まって30年前の墜落事故関連の映像がテレビから流れてくる。 「見たくはないですよ、やっぱり。 感情のスイッチをオフにする作業というか、気を紛らわせながらじゃないと見れないですよね」 30年前、小学6年生11歳の少女を襲った「父の墜落死」という突然の悲劇によって負った心の傷は、今もって癒えてはいないようだ。 「1週間くらい、知人の家に預けられていたんです。 最悪の事態を子供なりに、覚悟はしていたのですが、週刊誌だったかな。 『坂本九死す』って書いてあったのを見たんですよ。 母親から父が亡くなったと聞いたわけでもなく、気づいたらお葬式。 事実として見たのが週刊誌の言葉だったんですよね」 あまりに衝撃的な事故は、到底受け入れられるものではなかった。 「私の中では海外に行っていて早く帰ってこないかな、くらいな感じで思っていないと、生きていけないというか、心のバランスがおかしくなってしまう。 母親は女優の柏木由紀子(67)。 事故後も2人の娘には気丈に振る舞っていたという。 「パパがいた時と同じような環境を作ってあげようとしていた気がしますね。 運動会でも、当時、父が大きいビデオカメラで撮ってくれてたんですよ。 父が亡くなった後の運動会で母がそれを持って撮ってくれたのが忘れられない。 本当に仲の良い夫婦だったので…寂しさは募っていくだろうし、さすがに想像はしきれないですけどね」 そんな大島にとって今でも脳裏に焼きついて離れない光景がある。 それは事故前日のことだ。 「父がたまたま家にいたんですよ。 1日一緒だったかは記憶にないんですが、普通に暑くて、甲子園をやってて、母がカキ氷を作ってくれて…なぜか炎天下の中、庭掃除をしている」 父の思い出はたくさんあるが、大島にとってはこの光景が最も「キラキラ輝いている」ものだという。 一見すれば何げない日常だが、実はこの思い出が大島を歌手への道へ向かわせた。 「子供を叱っているかもしれない、こうやってお話ししているかもしれない、そういう何でもない日常がすごく大切なんじゃないか、いま生きていることがどれだけ輝いていることなのか。 これを伝えるために、歌っているんです」 現在は定期的にライブ活動を行い、昨年末にはファーストアルバム「柿の木坂」をリリース。 その中に「親父」という曲が収録されている。 生前の坂本さんが、亡くなった厳しい父親を思いながら作詞作曲した曲だ。 「この曲は生前、歌っているのを聞いて、当時、衝撃を受けて涙が出るほど感動したんです。 5~6年前から私も歌うようになったんです。 いま父とは会話はできないですが、父の思いを感じながら歌っています」 29日には東京・神楽坂の音楽の友ホールでライブを行う。 「アルバム曲も歌いますが、『上を向いて歩こう』を手話で歌ったりしているんです。 父がやっていたことなんですけど、歌い継いでいこうかと思っています」 父親と同じ道を歩いている大島。 「尊敬するアーティストでもあり、道しるべでもありますが、坂本九になるのではなく、自分らしい歌を歌いたいと思っています。 でも『うまい』と言われるよりも『いいよね』って言われるのが理想かな」 この「いいよね」は、生前、坂本さんが話していた言葉だという。 「プロの父がテレビとか見てて、『この人いいよね』って言うんです。 うまくないのになあって思う人でもそう。 温かい感じがあるとか、何かあるんだと思うんですが」 今となっては確かめようのない坂本さんの「いいよね」だが、大島は「日々の日常が大切」というメッセージを抱え歌い続ける。 大島は現在、家族などを失って悲しむ人を支えるグリーフケアという活動を始めている。 「深い悲しみを負ったときに、体や精神の変化をケアする活動があるんです。 震災のときも同じような人がいて、何とかしてあげたいなと思い興味を持ち始めました。 いま思うと、そういう心のケアが、自分自身にも必要な状況だったのかもしれないなと…」 講座を受けたり、当事者としてカウンセリングを受け、データとして提供するなどの手伝いもしているという。 東京都出身。 父は歌手の坂本九さん、母は女優の柏木由紀子、妹は元宝塚歌劇団で女優の舞坂ゆき子。 92年にミュージカル「大草原の小さな家」で初舞台。 97年から作詞作曲活動を始め、2003年に父の「見上げてごらん夜の星を」でメジャーデビューした。 06年に結婚、09年に男児を出産した。

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