麻生家系図。 麻生彩子(麻生太郎の娘)の年齢や画像は?東大卒で現在はフランス?結婚相手は誰?

安倍家と麻生家の家系図を辿ってわかった歴代総理の異常な親戚関係

麻生家系図

そして麻生太郎さんの母は、戦後日本を導いた吉田茂首相の娘、和子さんです。 さらに妹は、三笠宮寛仁親王と結婚した信子妃ですから、麻生太郎さんは、皇族とも縁戚関係があります。 また麻生太郎さん自身、鈴木善幸元首相の娘を嫁にしています。 さらに家系をたどると、明治の元勲大久保利通をはじめ、岸信介元首相や、現内閣総理大臣である安倍晋三さんにもつながる麻生太郎さん。 家系図をひもとくと、まさに麻生さんの家系は華麗なる一族なのです。 なんだか響きが凄いですよね。 麻生家は旧華族や皇室との結びつきが濃い家系!? 麻生太郎さんは前述したように、1983年に元首相の鈴木善幸さんの三女である千賀子さんと結婚し、一男一女をもうけました。 弟の泰さんの妻和子さんの祖母は、「伯爵 牧野伸顕」の二女利武子であり、利武子の姉雪子は吉田茂の妻です。 妹の雪子さんは、「子爵 相馬恵胤」の息子で相馬家当主の相馬和胤と結婚しました。 末の妹の信子さんは、寬仁親王妃となり彬子女王と瑶子女王をもうけました。 つまり、麻生家は旧華族や皇室との結びつきが非常に濃い家系になるのです。 なんとなく麻生さんの奔放な発言に納得してしまいました。 麻生太郎・麻生家始まりのストーリー! 麻生家は1857年に生まれた「麻生太吉さん」から始まります。 当時はまだ庶民が、 西アフリカでダイヤモンド採掘業にも従事しました。 1973年には麻生セメントの社長になり、1962年の原油の輸入自由化によって衰退していた炭鉱業からセメント業への転換を成功させました。 1979年の衆議院議員総選挙に福岡から出馬して、 定員5名中4位で初当選して政界へ入りました。 狭き門ですね。 そして、1996年に橋本内閣の経済企画庁長官に就任して初入閣します。 2001年には自民党総裁選に出馬して、元首相の小泉純一郎さん、橋本龍太郎さんと戦って3位、となりました。 麻生太郎が総理大臣に就任・そして辞職! 小泉政権で党政務調査会長を務め、2003年に総務大臣として入閣して、郵政民営化を進めました。 2006年に再び自民党総裁選に出馬するも現総理の安倍晋三さんに敗れ、外務大臣として入閣しました。 2007年に自民党総裁選に出馬した際は福田康夫さんに敗れ、 2008年4度目の自民党総裁選でついに自民党総裁となり、9月に第92代内閣総理大臣に就任しました。 しかし、たった一年後の2009年8月の衆議院議員総選挙で自民党が民主党に惨敗して第1党の地位を失い、9月に麻生内閣が総辞職しました。 3年後の2012年の衆議院議員総選挙で自民党が政権を奪還、第2次安倍内閣が成立すると、副総理兼財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)として入閣して、今日の麻生太郎さんに至ります。 麻生太郎さんの経歴も、祖父や父に負けず凄いです。 麻生太郎の年齢はいくつ?経歴・学歴や大学もものすごい!? 麻生太郎さんは、1940年生まれの77歳。 現閣僚の中では最長老です。 学習院大学を卒業後は、アメリカのスタンフォード大学や、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学。 帰国後は麻生セメントの社長に就任。 自社の経営に努めました。 麻生太郎の政界入りは比較的遅く1979年、39歳で衆議院議員に初当選。 一度の落選をのぞいて、以後12回の当選を果たしています。 麻生太郎さんは、自他ともに認める、おしゃれで明るい性格ですが、少し口が軽く、ときおり問題発言をしていますね。 また意外ですが、1979年のモントリオールオリンピックに、クレー射撃の日本代表として出場していることでも有名です。 やはり現役で活躍している麻生さんは元気ですよね。 これは元スポーツ選手というところから来ているのかもしれませんね。 麻生太郎の家系図・学歴や経歴が疑われる声も!? 現閣僚の中でも長老の麻生太郎さんですが、どうやら漢字の多様な読み方は苦手なようでで、漢字の誤読が多さが、マスコミ格好のネタとなっています。 例えば、怪我を「かいが」、完遂を「かんつい」、焦眉を「しゅうび」、順風満帆を「じゅんぷうまんぽ」、 措置を「しょち」、思惑を「しわく」などと読み違えています。 誰でもひとつは間違えてしまいそうなものばかりですが、やはり他の政治家たちより、麻生太郎さんは、圧倒的に漢字の誤読が多いですね。 なんだかお茶目で可愛いですですけどね。

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麻生太郎の家系図に驚愕!安倍晋三総理、天皇家も親戚だった!

麻生家系図

山鹿・麻生氏は、北条氏得宗領となった山鹿荘の地頭代として九州に下向した。 いわゆる「下り衆」と呼ばれる武士団であった。 下り衆としては、筑前の武藤少弐氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏・渋谷氏、肥後の相良氏、豊前の宇都宮氏・下総(門司)氏らが知られる。 豊前の宇都宮氏は麻生氏の一族で、豊前国の国衙内の役職に携わり勢力を振るった。 麻生氏の出自考察 ところで、麻生氏の出自に関して『筑前軍記略』には、成勝寺執行の一品坊昌寛が山鹿秀遠の跡を、源頼朝から賜った。 昌寛は源家の御祷の師であったと記されている。 男子の無かった昌寛は、勧修寺一統の麻生朝長の二男家政を養子として、山鹿庄を譲与したという。 一方『鎮西要略』には、奥州合戦の勲功により宇都宮家政(朝長の二男)は筑前国山鹿庄を賜った。 山鹿は平家の没官領で、家政は氏を山鹿と称し、また子孫は麻生を称したとある。 他方、麻生氏の系図は「麻生家一大系図」「系図」「麻生系譜全」があり、それぞれ異同を見せている。 すなわち「麻生家一大系図」は家政を朝長の二男とし、「系図」では家政は朝長の孫としている。 また、「麻生系譜全」では家政は重業の二男とあり、重業は朝長と同一人物とみられる。 「麻生系譜全」の重業の項の注記には、「公家勧修寺一統、京都より上総国十文字郷へ下向」とある。 成勝寺執行一品坊昌寛は源氏の祈祷師をしていたが、源平合戦に際して頼朝に従い、砺波山の戦いに手柄を立てた。 また、「系図」では昌寛は範頼に従って九州にも渡り、そのときの功によって山鹿秀遠の所領を賜ったとある。 この昌寛の女を妻に迎えたのが重業(朝長)で、重業は広綱と家政の二人の男子をもうけた。 長男の広綱は早世し、二男の家政は昌寛の養子となり山鹿庄を譲られたという。 さらに『姓氏家系大辞典』の麻生氏の項を見ると、麻生氏は筑前宇都宮流といい、重業が筑紫に下り筑前宇都宮氏の祖になったと記されている。 「建久年間(1190〜98)、宇都宮重業筑紫に下る、その裔なり、(中略)山鹿家政、実は高階忠業の男、朝綱の猶子となる。 筑前国山鹿に住す。 (以下略)」とあり、『筑前続風土記』にも、重業が筑前に下向したと記されている。 ところで、中世の系図集として信頼性の高い『尊卑分脈』を見ると、宇都宮氏系図に山鹿氏がみえる。 それによれば宇都宮朝綱の子が山鹿家政で、「朝綱猶子、実父高階氏業遠子、成佐曾孫、一品房昌寛子也」と注記され、朝長(重業)の名は見えない。 このように、麻生氏の出自に関しては、諸説があり、それぞれ詳細にみればみるほど矛盾の多さに気付かされる。 いずれが真実かはいまとなっては分からないが、宇都宮氏から分かれたとみて間違いないのではないだろうか。 麻生一族の土着と乱世のはじまり 山鹿荘に下向した家政は、『麻生隆守記』によれば、遠賀郡麻生の荘帆柱山に城を築いて山鹿左衛門尉と名乗って在城し、のちに麻生左衛門尉家政と称したという。 家政は『尊卑分脈』の宇都宮系図に山鹿左衛門尉、麻生系図では山鹿右衛門尉となっている。 宇都宮系図で家政の嫡男時家も山鹿左衛門尉を称し、その子の小次郎兵衛資時が麻生氏を称したことになっている。 家政が下向してきたときには、花尾城も帆柱城もなく、まず山鹿城に入ったものであろう。 ところで『太平記』『梅松論』『九州軍記』などを見ると麻生氏と山鹿氏はいつもならんで名前が出ている。 このことは、家政は山鹿を称し、山鹿城を支配の拠点として洞海周辺の若松・戸畑・八幡・黒崎・遠賀郡一帯に勢力をもつようにった。 その後、花尾城・帆柱城を築いて一族が広まるにつれ、麻生氏を称する庶子家が出てきた。 そして、中世の争乱のなかで惣領であった山鹿氏が没落し、代わって庶子家の麻生氏が惣領家となったものと思われる。 そして、麻生家は北・中・南の三家に分かれたようで、山鹿城にいた山鹿氏は中の麻生で、「是は中之分也」という山鹿氏系図が伝わっている。 一方、花尾城にいた麻生氏が惣領で南の麻生と称していたようだ。 元弘の乱(1333)によって京都の六波羅探題は足利高氏に攻略され、九州の鎮西探題北条英時は、少弐氏、大友氏らに攻撃されて自刃、鎌倉幕府は滅亡した。 英時の養子規矩高政は遠賀郡に逃れて山鹿政貞のところに身を寄せた。 高政は豊前の糸田貞義と連絡を取ると北条残党を集め、帆柱城に拠って兵を挙げた。 これに山鹿政貞をはじめ、長野政通・貞通兄弟、門司氏らが応じた。 花房山城にいた麻生家宗もはじめは、高政に応じたようだ。 高政・貞義らの勢いは振るったが、少弐頼尚が筑前・肥前の兵を率いて帆柱山城を攻撃すると、麻生家宗は少弐氏に転じて攻撃軍に加わった。 高政・貞義勢は次第に形勢不利となり、ついに帆柱山城は陥落、高政・貞義は城を脱出したもののそれぞれ戦死して九州における北条残党の乱は鎮圧された。 庶子家の台頭 かくして、後醍醐天皇による建武の新政がなったが、新政は武士たちの支持をえることができず、建武二年、武家政権回復を企図した足利尊氏が謀叛を起した。 尊氏は京都を制圧したものの、翌建武三年、北畠顕家軍に敗れて尊氏は九州に奔り再起を期した。 少弐頼尚らが赤間関において尊氏を迎え、そのなかには、大友・城井・宗像氏、そして、山鹿氏、麻生氏らも加わっていた。 九州に入った尊氏は、多々良浜において菊池氏、阿蘇氏を中心とする九州宮方と戦い、劣勢を跳ね返す大勝利をえた。 九州で態勢を立て直した尊氏は、ふたたび西上の軍を起こして京を目指した。 尊氏勢は摂津湊川で楠木正成と戦ったが、そのなかには少弐頼尚に従って山鹿、麻生氏も加わっていた。 以後、山鹿氏らは尊氏方に属して畿内を転戦し、建武四年には山鹿家員が河内国東条の戦いにおいて南朝方を敗る功をあげている。 南北朝の争乱に際して、山鹿・麻生一族は結束して武家方として行動した。 しかし、尊氏と弟の直義の対立から観応の擾乱が起こると、山鹿・麻生氏は惣領家と庶子家とに分裂した。 九州は南北両朝の対立に加えて、直義の養子直冬が第三の勢力としてあらわれ、惣領家の山鹿家直・氏久らは少弐頼尚に与して直冬に従った。 一方、庶子家の麻生筑前守は武家方の九州探題一色範氏に従って活躍した。 擾乱は足利直義の敗北に終わり、直冬は九州を逃れ去り、少弐氏は宮方に降った。 足利尊氏は山鹿惣領家の所領・所職を没収し、庶子家の麻生氏に与えた。 その後、九州地方は懐良親王を奉じる菊池武光の活躍によって宮方優勢に展開した。 文和二年(正平八年=1353)、筑前針摺原の合戦が起こり、敗れた一色範氏は博多を放棄して九州から脱出した。 山鹿家直らはこれをきっかけとして、九州宮方に応じて所領の回復を図った。 しかし、以後の山鹿家直らの動向は史料上に現われることはなく、動乱のなかで没落したようだ。 惣領家の没落を後目に、麻生家長は幕府から勲功賞を受け、所領・所職を着実に増やしていった。 さらに、麻生上総介は、筑前国の幕府料所の代官職も与えられている。 上総介は麻生氏惣領の義助と思われ、幕府の奉公衆の一員であったようだ。 そして、義助は九州探題斯波氏経、今川了俊に従って各地を転戦し勲功賞を受けた。 義助が一貫して武家方として行動した背景には、奉公衆という立場があったことは疑いない。 幕府奉公衆に列す 明徳三年(1392)に南北朝合一がなり、半世紀にわたる動乱の時代にピリオドが打たれた。 応永二年(1395)、庶子家の山鹿仲中、北麻生家資らが惣領義助の統制に従わないことから、将軍足利義満によって所領を没収された。 惣庶の対立は鎌倉時代末期から南北朝期にかけて珍しいことではなかったが、奉公衆麻生氏の場合、惣領職については室町幕府将軍が安堵あるいは解任することになっていた。 このことは、将軍は惣領を支援することで武士の統制をはかり、惣領にしても将軍家を後ろ楯として独立傾向を強める庶子家を統制することができた。 この関係があって、惣領に服さなかった山鹿らの庶子家は将軍によって所領を没収されたのであった。 義助のあとは家春が継ぎ、永享六年(1434)、将軍義教から所領の安堵を受けた。 ついで、弘家が家督を継承したが、この弘家の代に惣領家の所領は最大となった。 『麻生弘家知行惣庄郷村浦浜所々目録写』によれば、千二百町余というものであった。 弘家のあとは弘国が継ぎ、麻生庄以下の領掌を幕府から承認された。 麻生氏は義助以後、幕府奉公衆として本領安堵を受け、麻生氏も幕府との関係を維持する努力を続けている。 そして、将軍家に対して軍事奉仕を行い、京に上番勤務した。 長享元年(1487)には将軍足利義尚の江州出陣に従って、近江国坂本に従軍した。 幕府は豊前の有力国人麻生氏を奉公衆に組み込むことで、九州探題渋川氏を支援させ、大内・大友・少弐氏らの守護勢力に対する牽制などの役割を期待したようだ。 ところで、中国地方の大名である大内氏が九州に進出するきっかけとなったのは、今川了俊のあとの九州探題となった渋川満頼の後見となり、幕府料国である筑前の代官に任命されたことにあった。 鎌倉以来太宰府を拠点に筑前に勢力を振るった少弐氏は、大友氏と結んで探題=渋川氏に対立した。 大内氏は少弐氏との抗争を続け、麻生氏は幕府(探題)=大内氏に味方して各地を転戦した。 その過程で、次第に大内氏との従属関係を深めていったのである。 一族の内訌に揺れる 麻生氏系図を見ると、家春・家慶は大内持世に味方して少弐氏と戦い討死している。 以後、弘家・弘国父子、ついで興春、興益らの麻生氏代々は大内氏との関係を強化している。 応仁の乱を契機として、世の中が戦国乱世の色合いを深めるのと比例して、幕府権力も大きく失墜していった。 麻生氏は幕府奉公衆として幕府将軍と直結して勢力を拡げてきたが、幕府の衰退もあって、大内氏と結ぶことで勢力の維持・拡大を企図するようになったのであろう。 家春・家慶が戦死したのち、弘家が家督を継いだが弘家は中継ぎであったようだ。 すなわち、家慶には幼い男子又光丸がおり、成長したのちに又光丸が麻生氏の家督を継ぐことになっていた。 しかし、又光丸は早世したため弘家が惣領となったのである。 その後、弘家は大病を患い、幼い実子に代えて甥の弘助を養子として家督を譲った。 ところが、弘助は親類・縁者を味方にして弘家に敵対したため、弘家は大内教弘に調停をゆだねた。 しかし、弘助はこれに従わなかったため、赤間関において討たれ麻生氏の家督は弘家の実子弘国に安堵されたのであった。 やがて、応仁の乱が起こると大内氏は西軍の中心勢力として京に滞在して活躍した。 その間、弘助の弟である家延(家信)が弘家・弘国父子に対立し、ふたたび麻生氏は内訌に揺れた。 弘家は自力で家延を制圧することができず、京都から帰った大内政弘を恃んだ。 政弘は留守の間に少弐氏らに撹乱された豊前・筑前を回復するため九州に出陣、たちまち豊前・筑前を平定した。 そして、筑前花尾城に拠る麻生家延を攻撃した。 家延は抵抗したものの、ついに起請文を出して大内氏に降った。 こうして、麻生氏の内訌は一段落し、以後、麻生氏は幕府との関係を続けながら、大内氏の被官化していったのである。 時代の転変 大内氏は豊前・筑前を押えて、その勢力は隆々たるものがあった。 しかし、少弐氏、大友氏らの反撃も執拗に繰り返され、明応元年(1492)、大内政弘は少弐政資と箱崎で戦っている。 ついで永正三年(1506)、政弘のあとを継いだ義興が少弐資元と戦ったが、翌四年、前将軍義尹の仲裁で大内・少弐・大友・渋川氏らは和睦した。 翌五年大内義興は、前将軍義尹を奉じて上洛し義尹を将軍職に復帰させた。 享禄元年(1528)、資元は松浦党の支援を得ると太宰府に進出した。 これに対して、大内義隆は、享禄三年の夏、筑前守護代の杉興運に資元討伐を命じた。 杉興運は資元の拠る勢福寺城を攻撃したが、資元を支援する龍造寺家兼ら肥前衆の奮戦によって敗戦を被った。 天文元年(1532)、大内義隆はふたたび少弐討伐軍を送ったが、これも龍造寺家兼の活躍で大内方の敗戦となった。 業を煮やした義隆は、天文四年(1535)、みずから兵を率いて肥前に侵攻し勢福寺城を攻略した。 資元は多久の梶峰城に入ったが、大内軍はここも攻撃して資元を討ち取った。 天文十八年、花尾城主の麻生弥五郎が、大内義隆の怒りにふれて追放され、花尾城には義隆の臣相良武任が入った。 弥五郎の処分は、陶隆房(晴賢)の陰謀に加担していたことが漏れて、相良氏が代わって花尾城に入れられたのだとされている。 しかし、弥五郎なる人物は麻生氏の系図には見えない。 天文二十年、陶隆房が兵を挙げ、義隆は山口を逃れたが大寧寺において自刃した。 花尾城の相良武任は、陶軍の攻撃を受け、奮戦のすえに落城、自刃して果てた。 義隆を討った陶隆房は、大友義鑑の弟義長を迎えて大内氏の当主に据えた。 この事態に毛利元就ははじめ陶方に立っていたが、やがて陶氏と対立するようになり、弘治元年(1555)、厳島の合戦で毛利軍に敗れた陶晴賢は自刃した。 その後、義長を討ち取った毛利元就は一躍中国の覇者に躍り出た。 ・少弐資元の死については、天文五年とするもの、天文七年とするものがある。 戦国時代の終焉 毛利氏は豊前・筑前への進攻を開始し、同じく北九州の制圧を企図する大友義鎮と抗争を繰り返すようになった。 豊前の有力国衆である麻生氏には大友宗麟からの誘いもあったようだが、麻生隆実は毛利氏に属して戦い、その戦功に対して元就から馬や太刀を贈られている。 毛利氏と大友氏の抗争は永禄年間(1158〜69)を通じて繰り返され、麻生氏ら筑前の国人領主は二大勢力にはさまれ翻弄された。 毛利氏の攻勢に手を焼いた大内義鎮は遠交近攻の策をとり、庇護していた大内輝弘を山口に帰還させ、さらに出雲の尼子残党と同盟を結び背後より毛利本国を攻めさせた。 ここに毛利氏は本国防衛に廻らなければならなくなり、少ない兵力を残して筑前から去っていった。 後ろ楯と頼んだ毛利軍の撤退で、取り残された高橋・秋月・原田・宗像、そして麻生隆実らは大友氏に降った。 かくして、大友氏は筑前・豊前を版図におさめ、北九州一円を支配下におく大勢力となった。 その一方で、南九州では島津氏が北上作戦を展開するようになり、肥前では少弐氏を滅ぼした龍造寺隆信が勢力を拡大していた。 天正六年(1578)、大友宗麟は日向に進攻して島津軍と戦い、壊滅的敗北を喫した。 ここに大友軍の権勢は大きく失墜し、麾下の諸領主にも動揺が走った。 龍造寺隆信は大友領を浸食し、筑後・筑前・肥後にも勢力を伸ばしてきた。 やがて、天正十二年、龍造寺隆信は島原半島で有馬・島津連合軍と戦い、圧倒的な大軍を擁しながら、まさかの敗戦を喫し討死を遂げてしまった。 ここに、島津氏が九州最大の勢力となり、島津氏は肥後・ 筑後・筑前を制圧し、大友氏の本領である豊後への攻撃を開始した。 万事窮した大友宗麟は、天正十四年、大坂に上り豊臣秀吉に救援を求めた。 かねて九州征伐を企図していた秀吉は、宗麟の要請をいれて島津氏討伐を決定、ただちに九州出兵を陣ぶれした。 麻生氏の最期 豊臣秀吉の九州出兵が陣ぶれされると、麻生鎮里は二子を人質として秀吉軍に送った。 ところが、家臣らのすすめにより変節して薩摩に走った。 その結果、二子は殺害され家臣はことごとく浪人となり、麻生氏は滅亡した。 一説によれば、鎮里は太宰府の岩屋城で島津軍と戦い、討死したとするものもある。 一方、花尾城の家氏は秀吉の九州平定にあたって、重臣船津氏忠を小倉に遣わして降伏し、花尾城を退いた。 島津氏討伐の先鋒を命じられた家氏は、田川の香春岳城攻めに出陣して秀吉の朱印状を受けた。 天正十五年、島津氏が秀吉に帰服したのちの仕置によって、筑後三井・生葉郡において四千六百石を賜り、小早川隆景の与力とされた。 朝鮮の役にも出陣したが、隆景のあとを継いだ秀秋の代に小早川家を退身して浪人となった。 その後、関ヶ原の合戦ののちに黒田長政に召し出されて二千石を与えられ、弟の三右衛門も七百石を賜った。 加えて、長政は叔母で尾上安右衛門の寡婦に化粧料千石を添えて家氏の室とした。 しかし、家氏はこれを喜ぶことができず、伝家の古文書を弟の家長に譲って出奔したという。 応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料… 戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。 どこの家にもある家紋。 家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。 わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。

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麻生太賀吉

麻生家系図

3大財閥(15大財閥) 三井財閥 三井越後屋(三越・三井銀行)を源流に始まった、日本三大財閥の一つ。 2019年現在の当主である三井永乗氏(建築家)の先代、三井高公氏の自宅は東京都港区から東京都小金井市の「江戸東京たてもの園」に移築 歴代当主 三井高平 三井高富 三井高房 三井高方 三井高美 三井高弥 三井高清 三井高祐 三井高就 三井高福 三井高朗 三井高棟 三井高公 三井永乗 三菱財閥 土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占。 2008年に岩崎寛弥氏が他界し跡取りがなく断絶の危機(三菱銀行役員、東京都文京区の岩崎寛弥邸) 歴代当主 岩崎弥太郎 岩崎久弥 岩崎彦弥太 岩崎寛弥 住友財閥 愛媛県の別子銅山によって隆盛を極めた。 世界財閥家系のなかでも最も古い歴史を持つ。 住友芳夫(住友金属工業技監、東京都渋谷区の高級分譲マンション) 歴代当主 住友政友 住友友以 住友友信 住友友芳 住友友昌 住友友紀 住友友輔 住友友端 住友友聞 住友友視 住友友訓 住友友親 住友友忠 住友登久 住友友純 住友友成 住友芳夫 10大財閥(15大財閥) 安田財閥 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれ、三井、三菱、住友と共に4大財閥として数えられることもある。 安田一(安田生命会長や経団連顧問、東京都港区の高級住宅街に建つ一軒家) 安田弘(安田学園教育会理事長やセコム監査役、自宅は東京都港区の高級マンションでしたが、その後は不明) 歴代当主 安田善次郎 安田善之助 安田一 安田弘 鮎川財閥(日産コンツェルン) 日立鉱山を源流とし持ち株会社、日本産業のもとにコンツェルン化した財閥。 鮎川純太(山一証券を経てベンチャー企業向け投資会社社長に就任、女優杉田かおるの元夫) 歴代当主 鮎川義介 鮎川弥一 日本冷蔵(ニチレイ)入社後、テクノベンチャー社長など、東京都新宿区に居を構えていた 鮎川純太 2007年ころの鮎川純太氏の自宅は東京都文京区の分譲マンションの高層階 浅野財閥 浅野総一郎がコークス販売で成功を収めたのをきっかけとして大規模化していった。 歴代当主 浅野総一郎 浅野泰治郎 浅野五郎 浅野一(浅野総業社長や太平洋セメント販売社長) 浅野一郎(次期当主?) 港区の高級住宅街に建つビル型住宅(浅野五郎、一邸) 古河財閥 足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て財閥化。 古河潤一(古河林業社長、自宅は古河潤之助氏と同じマンション) 歴代当主 古河市兵衛 古河潤吉 古河虎之助 古河従純 古河潤之助 古河潤一 大倉財閥 乾物店から始まり鉄砲屋を経て貿易事業へと乗り出した。 大倉喜彦(大倉商事社長時代に会社が破産、のちに中央建物社長やホテルオークラ会長など歴任、東京都渋谷区の高級住宅街の一軒家) 歴代当主 大倉喜八郎 大倉喜七郎 大倉鶴吉(大倉喜六郎) 大倉喜彦 中島財閥 航空機・航空エンジン製造が主軸で第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。 創業者、中島知久平の庶子、中島源太郎は文部大臣 歴代当主 中島知久平 中島源太郎 自民党の衆議院議員 中島隆太郎? 源太郎氏の秘書(源太郎氏の長男) 中島洋次郎 自民党の衆議院議員(源太郎氏の次男) 群馬県太田市の国の重要文化財に指定された中島知久平邸 野村財閥 銀行や証券会社などの金融資本を中心とした財閥。 野村文英(2011年他界、野村ホールディングス役員、自宅は東京都港区の高級住宅街に建つ共同住宅) 歴代当主 初代野村徳七 二代野村徳七(野村信之助) 野村文英 長女:小林昌代 二女:白井房代 家督を誰が継いだか調査中 15大財閥 渋沢財閥 500にのぼる企業の創設、育成に携わったが株を大量に保有しなかったため、支配力の点からも財閥に相当しない。 渋沢雅英(渋沢栄一記念財団理事長、東京都港区の分譲マンション) 歴代当主 渋沢栄一 渋沢敬三 渋沢雅英 神戸川崎財閥(松方コンツェルン) 川崎汽船や川崎重工業などの経営。 現当主の詳細不明 歴代当主 川崎正蔵 兵庫県神戸市中央区に豪邸を構えていた 川崎芳太郎 川崎武之助 川崎芳熊 兵庫県神戸市東灘区 川崎芳久 川崎桟橋監査役 以降不明 理研コンツェルン(理研産業団) 持株会社、理化学興業による理化学の研究および技術開発などが目的の企業群。 同族支配は行われていない 日窒コンツェルン 日本窒素肥料を中心に石灰窒素・硫安の製造に成功し拡大した財閥。 現当主の詳細不明 歴代当主 野口遵 野口寛 三菱商事を経て日本窒素役員、野口研究所理事長 以降不明 日曹コンツェルン 日本曹達を主軸としてソーダ生産企業を傘下におさめ事業を拡大。 現当主の詳細不明 歴代当主 中野友禮 中野和雄 以降不明 阪神財閥(大阪府) 大林財閥 大林組による建築を主軸とする財閥。 大林剛郎(大林組会長) 歴代当主 大林芳五郎 大林義雄 大林芳郎 大林剛郎 石原財閥 鉱山開発の南洋鉱業公司が元の化学専業の財閥。 現当主の詳細不明、石原健三(2005年他界、石原産業社長) 歴代当主 石原広一郎 石原健三 以降不明 弘世財閥 日本生命などで構成される財閥。 弘世源太郎(日本生命保険役員) 歴代当主 弘世助三郎 弘世助太郎(日本生命保険社長) 弘世現(日本生命保険社長) 弘世源太郎 安宅財閥 官営八幡製鐵所の指定問屋として発展。 安宅昭弥(2015年他界、安宅産業役員だったが公私混同・放漫経営で破綻、自宅は東京都大田区の高級住宅街に建つ立派な邸宅) 安宅一弥(アタカコーポレーション社長) 歴代当主 安宅弥吉 安宅英一(安宅産業社長) 安宅昭弥 安宅一弥 岩井財閥 岩井商店を中心に鉄鋼商社として発展。 現当主の詳細不明 歴代当主 岩井勝次郎 岩井英一郎 岩井英夫(日商岩井会長) 兵庫県神戸市東灘区 岩井浄 広海財閥 広海商店による貿易や海運業が主軸。 現当主の詳細不明 歴代当主 広海二三郎 広海仁三郎(広海四郎) 広海浩三 以降不明 岸本財閥 岸本汽船による海運業が主軸。 現当主の詳細不明 歴代当主 岸本五兵衛 岸本五兵衛(二代) 岸本兼太郎(岸本汽船社長、大阪府大阪市西区居住) 以降不明 久原財閥 久原鉱業が中心の鉱業系財閥。 久原裕(日立製作所役員、自宅は東京都武蔵野市) 歴代当主 久原房之助 久原光夫(日産自動車役員) 久原裕 白い陸屋根の建物と手前の赤い車の停車している戸建てが久原家 伊藤財閥 松坂屋などを経営。 代々松坂屋を継いでいたが祐洋氏の代で途絶える 歴代当主 伊藤祐民(伊藤家15代当主) 伊藤次郎左衛門 伊藤次郎左衛門祐洋 伊藤哲也 武田財閥 製薬業により発展。 武田國男(武田薬品工業会長) 歴代当主 武田長兵衛 二代目長兵衛 三代目長兵衛 四代目長兵衛(亀蔵) 五代目長兵衛(重太郎) 六代目長兵衛(鋭太郎) 武田國男 山口財閥 銀行資本中心の財閥。 四代目山口吉郎兵衛氏の自宅は兵庫県芦屋市の立派な邸宅(滴翠美術館) 山口格太郎氏の自宅は芦屋市の旗竿地に建つ一軒家 歴代当主 山口吉郎兵衛 二代目山口吉郎兵衛 三代目山口吉郎兵衛(大阪第百四十八国立銀行頭取) 四代目山口吉郎兵衛 四代目山口吉郎兵衛(山口銀行頭取や日本生命保険会長など) 山口格太郎(会社役員、かるた・百人一首研究) 山口治男(英語教諭) 山口宏典 四代目山口吉郎兵衛邸 山口格太郎邸 藤田財閥 非鉄金属・精錬等が主力。 藤田直照(藤田美術館理事、兵庫県西宮市の生垣を巡らせた立派な和風住宅) 歴代当主 藤田伝三郎 藤田平太郎 藤田光一(藤田組、現・DOWAホールディングス社長) 藤田直照 寺田財閥 酒造業により発展。 現当主の詳細不明 甚与茂の系統は南寺田家、元吉系は北寺田家、利吉系は堺寺田家と称された。 この三家が起こした3つの家業グループが、寺田財閥を構成していた。 歴代当主 寺田甚与茂 寺田甚吉(和泉銀行頭取、南海鉄道社長など) 以降不明 岸和田城二の曲輪跡地に建つ寺田利吉氏の大屋敷(現在は飲食店) 村井財閥 タバコ王と呼ばれた村井吉兵衛によって創設。 現当主の詳細不明 歴代当主 村井吉兵衛 村井弥吉 村井弘忠(会社役員、東京都世田谷区だった) 村井徹也 京都府京都市東山区の村井吉兵衛氏の別邸、長楽館(ホテルやカフェとして営業中) 広岡財閥 銀行、保険業などを経営 歴代当主 第8代広岡久右衛門正饒 第9代広岡久右衛門正秋 第10代広岡久右衛門正直(大同生命社長) 広岡恵三(大同生命社長) 兵庫県芦屋市 広岡喜一(大同生命役員) 兵庫県神戸市東灘区 以降不明 阪神財閥(兵庫県) 兼松財閥 商船会社や新聞社などの経営。 現当主の詳細不明 歴代当主 兼松房治郎 兼松馨(養子) 以降不明 鈴木財閥 樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立。 鈴木一誠氏の自宅は鈴木治雄氏との敷地内別居二世帯住宅 歴代当主 鈴木岩治郎 鈴木岩治郎(二代目) 鈴木岩蔵 鈴木治雄(太陽鉱工、東邦金属会長など) 鈴木一誠(太陽鉱工社長) 乾財閥 乾汽船による海運業が主軸。 代々家業を継いでいる 歴代当主 乾新兵衛(三代目) 乾新治 乾豊彦 乾英文 乾新悟 小曽根財閥 阪神内燃機工業などに多角的投資。 小曽根真造氏の自宅は兵庫県神戸市須磨区では有名な洋館 小曽根実氏の自宅は兵庫県神戸市? 小曽根真氏は神奈川県鎌倉市 歴代当主 小曽根喜一郎 小曽根貞松 小曽根真造(阪神内燃機工業) 小曽根実(ジャズピアニスト) 小曽根真(ジャズピアニスト) 呉錦堂財閥 神戸を本拠にマッチ、綿花などを扱う。 現当主の詳細不明、呉錦堂の別邸で孫文記念館として保存されている兵庫県神戸市垂水区の移情閣 歴代当主 呉錦堂(ご・きんどう:ウ・ジンタン) 呉啓藩(東亜セメント社長) 以降不明 山邑財閥 清酒ブランド・桜正宗の創業家。 現当主の詳細調査中 八代目山邑太左衛門が居住していた兵庫県芦屋市の旧山邑家住宅 歴代当主 山邑太左衛門(~11代目、家業の櫻正宗を代々継いでいる) 嘉納財閥 「灘の生一本」で知られる、灘五郷の本家・本嘉納家(菊正宗)と分家・白嘉納家(白鶴)の酒造業が母体。 現当主の詳細調査中 歴代当主 嘉納治郎右衛門(~十二代目) 川西財閥 昭和毛糸紡績、共立モスリン、山陽皮革、神戸生糸などを経営。 現当主の詳細不明 神戸市立王子動物園内に移築された旧ハンター邸 歴代当主 エドワード・ハズレット・ハンター(Edward Hazlett Hunter) 長男:範多龍太郎:大阪鉄工所社長 二男:範多範三郎(ハンサブロウ・ハンター:Hansaburo Hunter:東京都小平市に『範多農園』と呼ばれる広大な農園があったが既にない) 三男:範多英徳 範多龍平 範多商会社長 範多貞彦? 辰馬財閥 清酒『白鹿』を製造する辰馬本家酒造を代々継ぐ。 自宅は兵庫県西宮市 歴代当主 辰屋吉左衛門(のち辰馬吉左衛門) ~13代辰馬吉左衛門 辰馬吉男 辰馬章夫 辰馬健仁 牛尾財閥 電気、ガスなどの事業が主力。 現当主は牛尾吉朗氏か?自宅は兵庫県姫路市の閑静な住宅街 歴代当主 牛尾梅吉 牛尾健治 ウシオ工業社長牛尾吉朗かウシオ電機会長牛尾治朗(子:牛尾志朗) 内田財閥 内田信也氏は海運業で成功し山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一角。 現当主の詳細不明 歴代当主 内田信也 兵庫県神戸市須磨区に百畳敷きの大広間のある大別荘 内田誠太郎 以降不明 山下財閥 山下汽船による海運業。 現当主の詳細不明 歴代当主 山下亀三郎 兵庫県神戸市中央区に2万坪の和洋折表の豪邸と、神戸市須磨区に1万坪超の邸宅、神奈川県小田原市に対潮閣という別邸(全国十か所に別荘) 山下太郎 山下真一郎 (商船三井副社長など) 山下隆一郎 以降不明 山下真一郎氏の自宅は東京都港区の一等地に建つマンション 勝田財閥 勝田商会による海運業。 現当主の詳細不明、勝田銀次郎氏の自宅は兵庫県神戸市灘区の立派な日本家屋だが現在は宗教団体が利用 歴代当主 勝田銀次郎 以降不明 八馬財閥 海運業が中心だが西宮銀行、武庫銀行、神戸土地興業、阪神急行電鉄などに出資。 八馬啓氏、兵庫県西宮市不明 歴代当主 初代八馬兼介~三代八馬兼介 八馬啓(会社役員) 岡崎財閥 岡崎汽船による海運業を基盤として、銀行業や保険業などを経営。 山崎豊子さんの華麗なる一族のモデルとされる財閥、岡崎真雄氏の自宅は東京都港区の高級賃貸マンション 歴代当主 岡崎藤吉 岡崎忠雄 岡崎真一 岡崎真雄(ニッセイ同和損保名誉会長など歴任) 岡崎忠(岡崎忠雄氏の婿養子の系統) 岡崎晴彦(子供服ブランド「ファミリア」社長) 岡崎忠彦(子供服ブランド「ファミリア」社長) 鴻池財閥 江戸時代に成立した銀行が主力の財閥。 鴻池統男(不動産管理業鴻池合資会社経営、2013年他界、自宅は兵庫県芦屋市の立派な邸宅) 歴代当主 鴻池善右衛門(初代~九代) 鴻池幸富 鴻池幸方(鴻池銀行頭取、日本生命初代社長) 鴻池幸昌 鴻池正通 鴻池統男 以降不明 竹中財閥 建設業中心の財閥。 竹中勇一郎(竹中工務店役員) 歴代当主 竹中藤兵衛正高(初代) 竹中藤右衛門(14代) 竹中錬一 竹中統一 竹中勇一郎 中京財閥 岡谷財閥 鉄鋼、機械などを扱う岡谷鋼機の経営。 歴代当主 岡谷惣助(9代目) 岡谷惣助(10代目) 岡谷正男 岡谷篤一 瀧財閥 代々家業である瀧定名古屋を経営。 歴代当主 瀧定助(初代) 瀧定助(瀧正太郎) 瀧定助(瀧憲蔵) 瀧晋太郎 以降不明 愛知県名古屋市瑞穂区の高級住宅街の一区画を占める瀧潤次郎邸(左側)、右も瀧家 神野財閥 エネルギー事業が中心のサーラグループを経営。 歴代当主 神野金之助(初代) 神野金之助(2代目) 神野太郎 神野信郎 神野吾郎 森村財閥(森村グループ) 貿易会社である森村商事や森村学園の運営。 歴代当主 森村市左衛門(六代目) 森村開作 森村義行 森村衛 森村産業社長 東京都世田谷区の高級住宅街にあったが既にない 以降不明 甲州財閥 甲州財閥は創業一族が家業として事業を行うという性質よりも、山梨県出身の実業家たちが緩やかに連合して事業を行うという性質。 若尾財閥 若尾逸平は銀行家。 東京都港区の一等地の自宅は既にない 歴代当主 若尾逸平 若尾民造 若尾謹之助 若尾達郎 東建商事社長など 雨宮財閥 鉄道、海運、貿易など。 詳細調査中 歴代当主 雨宮敬次郎 雨宮亘 雨宮鉄郎 東京都渋谷区の一等地 以降不明 根津財閥 東武鉄道による鉄道事業が主力。 根津公一氏の自宅は根津嘉一郎氏と同じマンション 歴代当主 根津嘉一郎(初代) 根津嘉一郎(二代) 根津公一(根津美術館館長、東武百貨店会長) 東京都港区の一等地に広大な土地を有する根津美術館 その他の財閥 大原財閥 紡績や銀行など。 大原謙一郎(自宅は大原孫三郎と同じ) 歴代当主 大原孫三郎 大原総一郎 大原謙一郎(倉敷商工会議所の名誉会頭など) 大原あかね(大原美術館理事長) 東京川崎財閥(川崎八右衛門財閥:川崎金融財閥) 銀行や保険など。 川崎守之助氏の自宅は東京都港区の一等地(解体済み)と別邸が神奈川県湯河原町の洋館 歴代当主 川崎八右衛門 川崎八右衛門(二代目) 川崎守之助 川崎雄厚(川崎定徳社長) 福沢財閥 電気事業が主力。 現当主の詳細不明 歴代当主 福澤桃介 福澤駒吉(東亞合成化学工業、現・東亞合成社長) 以降不明 森コンツェルン アルミニウムなどの電気化学工業中心。 現当主の詳細不明 歴代当主 森矗昶 森曉(衆議院議員、昭和電工社長など、東京都千代田区) 森矗一(ジャパンインベストメント社長) 藤山コンツェルン 大日本製糖(現・大日本明治製糖)を中心に製糖業を営む。 現当主の詳細不明 歴代当主 藤山雷太 藤山愛一郎(外務大臣、初代日本航空会長など) 藤山覚一郎(大日本製糖社長・会長やホテルニュージャパン社長など、自宅は東京都港区) 藤山清一郎 中外コンツェルン 紡織業など朝鮮で事業を展開。 現当主の詳細不明 歴代当主 原安三郎 東京都千代田区、神奈川県茅ヶ崎市に松籟荘という別荘 以降不明 是川グループ 投資や投機にて財を成す。 現当主の詳細不明 歴代当主 是川銀蔵 是川正顕(地学者) 以降不明 横河グループ 建築家、工学博士横河民輔による建設業。 横河健氏の自宅は横河正三氏との敷地内別居二世帯住宅 歴代当主 横河民輔 横河時介(横河電機製作所社長など)か横河正三(日本ヒューレット・パッカード社長など) 横河健(横河正三の息子、建築家、日大教授) 津島財閥 元々大地主だが銀行業により更に発展。 太宰治の姻戚、政治家一家、詳細調査中 歴代当主 津島惣助 津島源右衛門 津島文治 津島康一(俳優) 以降不明 茂木財閥 生糸売込商や銀行業。 キッコーマンの茂木家とは別 歴代当主 茂木惣兵衛(茂木保平) 2代目茂木惣兵衛 3代目茂木惣兵衛(茂木良太郎) 以降不明 片倉財閥 製糸業から発展。 片倉康行氏の東京都世田谷区の高級住宅街に建つ邸宅。 歴代当主 片倉兼太郎(初代) 片倉兼太郎(二代:佐一) 片倉兼太郎(三代:脩一) 片倉五郎 片倉工業取締役 片倉康行 片倉工業取締役 片倉信政 日本航空機長? 鈴与財閥 物流業により発展。 代々家業を継いでいる 歴代当主 初代鈴木与平 二代鈴木与平 三代鈴木与平 四代鈴木与平 五代鈴木与平 六代鈴木与平 七代鈴木与平 八代鈴木与平 鈴木健一郎 豊田財閥 豊田グループの運営。 歴代当主 豊田佐吉 豊田喜一郎 豊田章一郎 豊田章男 服部財閥 セイコーホールディングスの経営。 歴代当主 服部金太郎 服部玄三 服部謙太郎 服部純一(服部純市)か服部真二 ソフトバンクグループ ソフトバンクグループ傘下の企業統治。 歴代当主 孫正義.

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