あつ森 藤の家紋。 柏紋 -海の人々に奉られた神の紋- 島左近、森鴎外、青島幸男...

姓名/日本のおもな姓氏(せいめいにほんのおもなせいし)とは

あつ森 藤の家紋

柏手を打つという言葉がある通り、柏は神道と関係が深い植物である。 宗像神社に奉仕する宗像氏、伊勢神宮に奉仕する久志本氏、熱田神宮に奉仕する千秋氏、吉田神社に奉仕する卜部氏など、神官関連に柏紋を使用する家が多い。 また、神社自体の紋としては、恵比寿神社の神紋が有名であるが、どちらかと言えば、海人系の人々に好まれたのではないか。 全国分布では、比較的に東日本で多い。 北から、秋田県、宮城県、山形県、千葉県、三重県、大阪府などでベスト3に入っている。 三重>千葉>宮城という海の道がそれとなく見えてくる。 全国的には4位にランクされている。 逆に少ないところは、広島県と佐賀県で13位、山口県、高知県で12位。 柏紋を持つ有名人は以下。 吉田兼好。 1283年 — 1352年、 遁世者・歌人・随筆家。 本名は卜部兼好。 卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄。 父兼顕も吉田神社の神職。 出家したことから兼好法師とも呼ばれる。 日本三大随筆の一つとされる『 徒然草』の作者。 また私家集『兼好法師家集』がある。 家紋は抱き柏紋。 葛西晴信。 1534年 — 1597年、 大名。 陸奥国出身。 第15代当主葛西晴胤の子で葛西氏の第17代当主。 上洛して時の天下人・に謁見して所領を安堵されたが、後に、の小田原征伐に参陣できず、改易される。 家紋は三つ柏紋。 画像は「の野望」の葛西晴信。 島左近。 1540年6月9日 — 1600年10月21日、 武将。 大和国の国人の家系に出生。 、・らに仕えた後、浪人となって近江に隠棲。 の説得により仕官を受け入れ、当時のの禄高4万石のうち2万石の俸禄で召し抱えられた。 関が原の戦いで壮絶死。 家紋は三つ柏。 中川清秀。 1542年 — 1583年6月10日、 武将。 はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。 清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。 本能寺の変でが横死した後はにつき、 山崎の戦いで大いに活躍した。 賤ケ岳の戦いにも方先鋒二番手として参戦したが、戦死。 家紋は中川車と中川柏。 宗像氏貞。 1545年 — 1586年4月22日、 武将。 宗像正氏の庶子として生まれる。 兄の死後、家督相続争いに勝ち、宗像大宮司に補任され、宗像総領を継いだ。 氏、氏、氏などの間で家の存続に腐心するが、の九州征伐前に急死した。 家紋は丸に一枚柏紋。 山内一豊。 1545年 — 1605年11月1日、 武将。 尾張国葉栗郡出身。 に仕え、出世し、に土佐20万石を与えられ土佐藩初代藩主となる。 妻・見性院は、2006年の大河ドラマ『 功名が辻』の主役。 定紋は土佐柏。 画像は祐天寺の山内氏の墓所にて撮影。 他にも桐、白黒一文字等の替紋を持つ。 栗山利安。 1550年 — 1631年9月10日、 武将。 播磨国のの側近として仕える。 通称は善助。 氏の筆頭家老。 二十四騎、八虎の1人である。 子に騒動を起こした事で有名な利章がいる。 家臣のと義兄弟の契りを結んでいた。 家紋は丸に三つ柏紋。 蜂須賀家政。 1558年 — 1639年2月2日、 武将・大名。 尾張国丹羽郡宮後村出身。 蜂須賀正勝の長男。 阿波の大名に任じられて 徳島藩祖となる。 阿波踊りは城が竣工した折、家政が城下に城の完成祝いとして「好きに踊れ」という触れを出したことが発祥と言われている。 家紋はと抱き柏紋。 本因坊算砂。 1559年 — 1623年6月13日、 囲碁の棋士。 舞楽宗家の加納与助の子として生まれる。 本姓は加納。 兄(叔父)の日蓮宗の僧・日淵に弟子入りして出家。 ・・という三英傑に仕え寵愛された。 から碁打ち・将棋指しへの連絡係に任ぜられて後の家元制度の基礎となった。 八百屋お七。 1668年 — 1683年4月25日、 八百屋太郎兵衛の娘。 下総国千葉郡萱田で生まれる。 幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。 文京区円乗寺の墓所にある水桶には丸に三つ柏紋が記されている(画像)が、歌舞伎などで演じられる際は、。 柄井川柳。 1718年 — 1790年10月30日、 前付け句点者。 江戸出身。 竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系。 「誹風柳多留」は、川柳評前句付の流行に拍車をかけた。 後、前付句が独立して 川柳と呼ばれるようになった。 川柳の号は15世まで受け継がれた。 家紋は丸に三つ柏紋。 肖像画にて確認。 山片蟠桃。 1748年 — 1821年3月31日、 商人、学者。 播磨国印南郡神爪村出身。 本名は長谷川芳秀。 読みは、やまがたばんとう。 生家は豊かな在郷商人、農家。 唯物論的な立場を取り、天文、宗教、経済、歴史等を百科全書的に論じた『 夢の代』を著す。 家紋の三つ柏紋は、大阪市・ 善導寺にて撮影。 高田屋嘉兵衛。 1769年2月7日 — 1827年4月30日、 廻船業者。 淡路島の農民の子として生まれる。 家紋は丸に違い柏紋。 18歳で廻船業者を志して出て、後に本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。 ゴローニン事件でカムチャツカ半島へ連行されるが、翌年帰国。 司馬遼太郎の歴史小説『 菜の花の沖』で有名になる。 牧野忠恭。 1824年10月22日 — 1878年9月1日、 藩主。 江戸出身。 三河国西尾藩主・大給松平乗寛の三男。 越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となる。 を公用人として重用し、藩政改革を行う。 寺社奉行、京都所司代などの要職を歴任。 家紋の丸に三つ柏紋は養子・忠良の墓所にて撮影。 中島錫胤。 1830年1月2日 — 1905年10月5日、 内務・司法官僚。 徳島城下の佐古町楠小路出身。 徳島藩士・三木章介の長男。 中島棕隠の養子となる。 読みは、なかじまますたね。 尊王攘夷派として国事に奔走。 維新後は、兵庫県知事、山梨県知事、貴族院議員を歴任。 家紋の柏巴紋は雑司が谷霊園にて撮影。 高島嘉右衛門。 1832年12月24日 — 1914年10月16日、 易断家。 江戸三十堀間町に生まれる。 父は遠州屋嘉衛門(本姓は薬師寺)。 材木屋、磁器販売などを手がける。 横浜発展に寄与し高島町にその名前を残す。 その後も愛知セメント株式会社を興す。 易断による占いでも特に有名で今でも「 易聖」と呼ばれている。 山崎烝。 1833年 — 1868年2月6日、 新選組隊士。 摂津国大坂出身。 生家は医家または薬種問屋。 読みは、やまざきすすむ。 新選組隊士(諸士調役兼監察)。 池田屋事件、 禁門の変、第一次・第二次長州征討などでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮した。 家紋は丸に違い柏紋。 顔画像は「薄桜鬼」より。 井関盛良。 1835年 — 1890年2月13日、 官僚。 伊予国出身。 読みは、いぜきもりよし。 神奈川県知事、外務大丞、名古屋県権令、島根県令などを務める。 神奈川県知事時代に、民間人に呼びかけて、横浜毎日新聞を創刊させたという。 家紋は抱き鬼柏紋に五瓜に唐花紋。 画像は谷中霊園の墓所にて撮影。 高橋泥舟。 1835年3月15日 — 1903年2月13日、 武士・幕臣。 江戸出身。 旗本・山岡正業の次男。 婿養子として家に入ったは義弟にあたる。 幕府が鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰京したに恭順を説いた。 、と並んで「 幕末の三舟」と呼ばれている。 家紋は丸に抱き細柏紋。 千田貞暁。 1836年9月9日 -1908年4月23日、 県令。 薩摩国出身。 藩士・千田伝左衛門の子。 読みは、せんださだあき。 戊辰戦争に新政府軍として参加。 広島県、新潟県・和歌山県・愛知県・京都府・宮崎県知事を歴任。 後に、男爵を授爵し、貴族院議員となる。 家紋の抱き柏紋は、「華族家系大成」による。 大野右仲。 1837年1月14日 — 1911年6月11日、 新選組隊士。 唐津藩出身。 藩士大野勘助の長男。 戊辰戦争が勃発すると藩主・に従って会津に入り仙台で 新選組に入隊。 艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。 二股口の戦からの補佐役を務めた。 家紋は三つ柏紋。 天王寺墓地にて撮影。 渋沢成一郎。 1838年7月30日 — 1912年8月30日、 幕臣、実業家。 武蔵国血洗島村出身。 農民・渋沢文左衛門の長男。 の従兄。 戊辰戦争では、 彰義隊を結成し、頭取に就任。 率いる旧幕府脱走軍とともに蝦夷地に行き、 箱館戦争に参戦した。 明治以降は実業家として手腕を発揮した。 家紋は丸に抱き柏紋。 桂文楽 4代。 1838年12月26日 — 1894年1月28日、 落語家。 本名、新井文三。 口癖で「デコデコ」とよく言っていたため「デコデコの文楽」と呼ばれた。 人情噺が得意で『音羽丹七』は絶品であったという。 得意ネタは『居残り佐平次』『たちきり』など。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は谷中・観音寺にて撮影。 相楽総三。 1839年 — 1868年3月26日、 赤報隊隊長。 下総相馬郡の郷士小島兵馬の四男として江戸・赤坂に出生。 江戸薩摩藩邸の焼討事件の端緒を作り 赤報隊を組織するが偽官軍とされ捕縛される。 顔画像はアニメ「 るろうに剣心」の相楽総三。 家紋は三つ重ね柏紋。 画像は青山霊園(立山墓地)にて撮影。 加納鷲雄。 1839年12月14日 — 1902年10月27日、 新選組隊士。 伊豆国賀茂郡加納村に農民・高野伴平の長男として出生。 らと 新選組の隊士募集に応じて入隊したが御陵衛士の結成に伴い新選組を離脱。 油小路事件では難を逃れて脱出し、後にを襲撃。 家紋は丸に抱き柏紋。 画像は青山霊園にて撮影。 渋沢栄一。 1840年3月16日 — 1931年11月11日、 実業家。 武蔵国血洗島村に養蚕、米、麦、野菜の生産も手がける豪農の家に生れる。 第一国立銀行や 王子製紙・ 日本郵船・東京証券取引所といった多種多様の企業の設立・経営に関わり 日本資本主義の父と呼ばれる。 家紋は丸に違い柏。 谷中霊園の渋沢家墓所にて。 久坂玄瑞。 1840年5月 — 1864年8月20日、 武士・長州藩士。 長門国国出身。 萩藩医・久坂良迪の二男。 松下村塾に学び、と共に村塾の三秀といわれた。 安政の大獄によってが刑死した後、尊攘運動の先頭に立つ。 禁門の変で負傷し、自刃する。 家紋は隅立角に三の字紋、丸に違い柏紋。 境川浪右衛門。 1841年5月28日 — 1887年9月16日、 相撲力士。 下総国葛飾郡出身。 本名は宇田川政吉、のちに市川政吉から市川浪右衛門。 第14代横綱。 28場所118勝23敗71分5預63休、勝率. 837。 優勝相当成績5回。 歴代横綱の中で引分率が最も高い。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は江東区・聞明寺にて撮影。 沖守固。 1841年8月13日 — 1912年10月7日、 政治家。 鳥取藩士・江戸詰絵師、沖一峨の長男として江戸で生まれる。 内務省に入り内務少書記官となる。 神奈川県知事、長崎県知事、元老院議官、滋賀県知事、和歌山県知事、大阪府知事、愛知県知事を歴任。 家紋は二つ蔓柏紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 安保清康。 1843年1月30日 — 1909年10月27日、 海軍軍人。 備後国御調郡の医師・林金十郎の四男として出生。 の遺体を鳥野辺に埋葬したとされる。 戊辰戦争・佐賀の乱・西南戦争に出征。 海軍中将に進級し、海軍大学校長、佐世保鎮守府長官を歴任。 家紋は丸に実付き三つ柏紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 高島鞆之助。 1844年12月18日 — 1916年1月11日、 陸軍軍人。 薩摩国出身。 藩士高島喜兵衛の四男。 読みは、たかしまとものすけ。 第1次内閣の 陸軍大臣。 最終階級は 陸軍中将。 大阪偕行社附属小学校 現在の 追手門学院小学校 を創設。 陸軍大将は義弟。 家紋は抱き鬼柏に剣菊紋。 画像は青山霊園にて撮影。 吉原重俊。 1845年5月15日 — 1887年12月19日、 官僚。 薩摩国出身。 攘夷派の志士として薩英戦争の際、やらとともに英艦に乗り込もうとするが失敗したという。 維新後は、官僚として、活躍。 外務省書記官、 日本銀行初代総裁等を歴任した。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は青山霊園にて撮影。 宇田川準一。 1848年9月9日 — 1913年3月8日、 物理学者。 江戸出身。 父は幕末に活躍した洋学者宇田川興斎。 読みは、うだがわじゅんいち。 らにまなぶ。 外国の物理学書を土台とする著書「 物理全志」は参考書としてひろくつかわれた。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は雑司が谷霊園にて撮影。 園田実徳。 1849年1月14日 — 1917年2月18日、 政治家。 薩摩国出身。 読みは、そのださねのり。 明治維新後開拓使として北海道函館に渡り、同市をはじめとする道南地方の経済発展に貢献した。 北海道銀行創業者。 目黒競馬場の建設に携わり、日本競馬会の会長も務めた。 家紋は柏巴紋。 画像は青山霊園にて撮影。 池田七三郎。 1849年12月27日 — 1938年1月16日、 新選組隊士。 上総国山辺郡田間村出身。 商人の三男。 本名は、稗田利八。 新選組に入隊し、 鳥羽・伏見の戦いや 甲陽鎮撫隊に参加。 その後、会津へ出陣し、母成峠の戦いで敗れるとらと会津に残留。 家紋の丸に剣柏紋は麻布台・真浄寺にて撮影。 寺内正毅。 1852年2月24日 — 1919年11月3日、 政治家。 周防国山口出身。 長州藩士宇多田正輔の三男。 読みは、てらうちまさたけ。 母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。 陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、 内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。 最終階級は 元帥陸軍大将。 家紋は亀甲に三つ柏紋。 矢代操。 1852年8月5日 — 1891年4月2日、 民法学者。 越前国にて鯖江藩士松本伝互の三男として生まれる。 読みは、やしろみさお。 、とともに、明治法律学校(後の 明治大学)を創立した。 元老院書記官、貴族院書記官を歴任。 家紋は抱き柏紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 安東貞美。 1853年10月20日 — 1932年)8月29日、 陸軍軍人。 信濃 飯田藩出身。 藩・槍術師範・安東辰武の三男として出生。 父の辰武は信濃松本藩槍術師範・菅沼政治の子。 台湾総督・朝鮮駐剳軍司令官や第10・第12師団長を歴任。 階級は 陸軍大将勲一等功三級男爵。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 片岡七郎。 1854年1月12日 — 1920年1月11日、 海軍軍人。 薩摩国出身。 藩士の息子。 読みは、かたおかしちろう。 最終階級は 海軍大将。 日露戦争・日本海海戦では、第3艦隊司令長官として参戦した。 後にに高等軍法会議判士長に任じられた。 家紋の追い三つ菊の葉に結三柏紋は、「華族家系大成」による。 神谷伝兵衛。 1856年3月17日 — 1922年4月24日、 実業家。 三河国松木島村出身。 東京都台東区浅草の洋酒バーの 神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。 後に婿養子の神谷(旧姓:小林)伝蔵が2世神谷伝兵衛を名乗る。 家紋の丸に二重亀甲に蔓柏紋は天王寺墓地にて撮影。 御木本幸吉。 1858年3月10日 — 1954年9月21日、 実業家。 志摩国鳥羽浦出身。 うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男。 真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、御木本真珠店(現・ ミキモト)を創業。 真珠王と言われた。 家紋は丸に一の角字と三つ追い柏。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 嘉納治五郎。 1860年12月9日 — 1938年5月4日、 教育者。 摂津国御影村出身。 家業は酒造・廻船を営む。 は甥にあたる。 講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力。 柔道の父と呼ばれる。 画像は雑司ヶ谷霊園の父・次郎作の墓で撮影。 落合豊三郎。 1861年4月7日 — 1934年3月31日、 陸軍軍人。 江戸出身。 松江藩士・落合鍬蔵の三男。 日露戦争では、第2軍参謀長として出征した。 その際、部下と対立。 以後、関東総督府陸軍参謀長、交通兵旅団長などを歴任。 最終階級は 陸軍中将。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 牧野伸顕。 1861年11月24日 — 1949年1月25日、 政治家。 薩摩国出身。 の二男。 生後間もなくの義理の従兄弟・牧野吉之丞の養子となる。 文部大臣、農商務大臣、外務大臣を歴任。 第一次世界大戦後の パリ講和会議に次席全権大使として参加。 家紋画像は青山霊園の墓所にて撮影。 森鴎外。 1862年2月17日 — 1922年7月9日、 小説家。 石見国津和野出身。 森家は代々津和野藩主、公の御典医をつとめる。 文学においては理想や理念などを描くべきだとする理想主義を掲げた。 代表作は、「 舞姫」「青年」「 阿部一族」「高瀬舟」など。 家紋は乱れ追い重ね九枚柏という変り紋。 村井吉兵衛。 1864年2月29日 — 1926年1月2日、 実業家。 京都の煙草商の次男として誕生。 先代叔父吉右衛門の養子となり家督を相続する。 明治時代にヒーローという煙草を大ヒットさせ、「 煙草王」と呼ばれた。 事業を多角化し村井財閥を形成。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は旧村井邸(長楽館)の門にて。 山梨半造。 1864年4月6日 — 1944年7月2日、 陸軍軍人。 相模国大住郡出身。 は義父。 は義弟。 内閣の 陸軍大臣となり、 陸軍大将に進級。 内閣・内閣にも留任。 2度にわたり軍縮(「山梨軍縮」)を実行した。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。 森永太一郎。 1865年8月8日 — 1937年1月24日、 実業家。 肥前伊万里出身。 生家は焼き物や魚類を商う卸問屋。 森永製菓の前身・森永西洋菓子製造所を設立。 主にマシュマロを製造していたが後にキャラメルを主力製品とする。 元首相夫人昭恵は曾孫にあたる。 家紋は丸に抱き鬼柏。 青山霊園の墓所にて撮影。 山下亀三郎。 1867年5月12日 — 1944年12月13日、 実業家。 伊予国宇和郡河内村出身。 庄屋・山下家の7人兄弟の末子として生まれた。 読みは、やましたかめざぶろう。 山下汽船(現・商船)・山下財閥の創業者。 、と並ぶ三大船成金の一人。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 大森房吉。 1868年10月30日 — 1923年11月18日、 地震学者。 越前国足羽郡福井出身。 下級武士・大森藤輔の五男。 世界初の連続記録可能な 大森式地震計を開発。 また初期微動継続時間から震源までの距離を割り出す大森公式も発表。 日本地震学の父と呼ばれている。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 白川義則。 1869年1月24日 — 1932年5月26日、 陸軍軍人。 伊予国出身。 松山藩士白川親応の三男。 上海派遣軍司令官、関東軍司令官、 陸軍大臣、軍事参議官等を歴任。 上海での天長節祝賀会で爆弾に遭って重傷を負いそれが元で死去。 最終階級は 陸軍大将。 家紋は丸に軸付柏巴紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 三土忠造。 1871年8月11日 — 1948年4月1日、 政治家。 香川県大内郡出身。 読みは、みつちちゅうぞう。 宮脇姓であったが、三土家に養子入りしたために三土姓を名乗る。 文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・内務大臣を歴任した 戦前政界の重鎮。 家紋は丸に土佐柏紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 菱田春草。 1874年9月21日 — 1911年9月16日、 日本画家。 長野県飯田に生まれた。 本名は三男治。 の門下で明治期の日本画の革新に貢献し日本美術院の創設に参加。 伝統的な日本画の世界に様々な斬新な技法を導入。 代表作は『寡婦と孤児』『紅葉山水』『黒き猫』。 画像は中野・大信寺墓地にて撮影。 林銑十郎。 1876年2月23日 — 1943年2月4日、 政治家。 石川県金沢市出身。 豪快なヒゲにもかかわらず素顔は謹厳、温厚だった。 第33代内閣総理大臣時代に特に何もしなかったことから、名前を取って「何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。 最終階級は 陸軍大将。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 窪田空穂。 1877年6月8日 — 1967年4月12日、 歌人。 長野県東筑摩郡和田村生まれ。 本名は窪田通治。 読みは、くぼたうつぼ。 選歌の「文庫」に投稿をする。 から勧誘され「明星」にも参加。 代表歌集は『まひる野』『土を眺めて』等。 家紋は抱き柏紋。 画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。 山内多門。 1878年4月29日 — 1932年5月30日、 日本画家。 宮崎県都城市倉之馬場通東に山内勝麿の子として生まれる。 読みは、やまうちたもん。 に入門、雅号都洲を授かる。 翌年、に師事する。 代表作は「秋渓」「驟雨」「日光山の四季」など。 家紋は丸に抱き柏紋。 画像は多磨霊園にて撮影。 馬場鍈一。 1879年10月5日 — 1937年12月21日、 官僚。 東京府芝区出身。 旧幕藩士・山本時光の長男。 日本勧業銀行総裁を経て内閣に大蔵大臣として入閣。 増税と公債増発を発表 内閣総辞職のため実現はせず。 また、内閣では内務大臣も務めた。 家紋は丸に五徳柏紋。 画像は多磨霊園にて撮影。 内田信也。 1880年12月6日 — 1971年1月7日、 政治家。 茨城県行方市出身。 旧常陸麻生藩士の子。 、と並ぶ 三大船成金の一人。 船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事、鉄道大臣、農商務大臣、農林大臣等を歴任した。 家紋は抱き柏紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 大谷米太郎。 1881年7月24日 — 1968年5月19日、 実業家。 富山県小矢部市出身。 貧農の家庭に長男として出生。 裸一貫から力士、酒屋、鉄鋼業などを経て、 ホテルニューオータニを創業。 浮世絵のコレクターとしても知られそのコレクションはニューオータニ美術館に所蔵。 画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。 蓮沼門三。 1882年2月22日 — 1980年6月6日、 社会事業家。 福島県耶麻郡相川村(現・喜多方市山都町)出身。 東京府師範学校に入学、在学中に同志とともに 修養団を創立する。 などの援助を受け、修養団の主幹として日本の社会教育の発展に尽した。 家紋は丸に三柏紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 小菅丹治。 1882年4月27日 — 1961年9月16日、 実業家。 神奈川県足柄上郡川村出身。 旧姓:高橋。 1908年に伊勢丹呉服店に入社。 初代・小菅丹治( 伊勢丹創業者)の養子となり、2代目小菅丹治を襲名。 関東大震災後に百貨店形式にする。 新宿に本店オープン。 家紋は丸に三柏紋。 画像は本行寺の墓所にて撮影。 渡辺水巴。 1882年6月16日 — 1946年8月13日、 俳人。 東京府東京市浅草区出身。 本名は、渡辺義。 読みは、わたなべすいは。 父は近代画家の渡辺省亭。 を訪れ門下生となり、後にに師事する。 「俳諧草紙」を創刊。 曲水社を設立し、「 ホトトギス」雑詠を代選。 家紋の三つ細柏紋は潮江院にて撮影。 北一輝。 1883年4月3日 — 1937年8月19日、 思想家・社会運動家。 新潟県佐渡島両津湊町の酒造屋に出生。 上京し社会主義思想に接近。 中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。 二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑。 主著は『 国家改造案原理大綱』『日本改造法案大綱』。 画像は弟・北昤吉の墓所で撮影。 岩村通世。 1883年8月21日 — 1965年3月13日、 政治家。 東京市神田区神保町出身。 読みは、いわむらみちよ。 岩村通俊の五男。 海軍中将の岩村俊武は兄。 は叔父。 太平洋戦争開戦時の日本の司法大臣。 A級戦犯として逮捕されたが無罪で釈放された。 家紋は抱き柏紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 河田烈。 1883年9月24日 — 1963年9月27日、 大蔵大臣。 東京府生まれ。 読みは、かわだいさお。 内閣で内閣書記官長となり、同年貴族院勅選議員に勅任される。 第2次内閣で 大蔵大臣として入閣。 東亜海運社長、大成火災海上社長等も歴任。 家紋の丸に抱き細柏紋は叔父河田柳荘の墓所にて撮影。 安成貞雄。 1885年4月2日 — 1924年7月23日、 批評家。 秋田県出身。 『火鞭』の同人で『近代思想』『新社会』などに関わり大正三奇人の一人と称された。 旺盛な読書力と優れた英語力で「学東西に亘り、識古今を貫き」と称された。 主著は『文壇与太話』。 家紋は雪輪に違い柏紋。 画像は池上本門寺にて撮影。 石川一郎。 1885年11月5日 — 1970年1月20日、 経営者。 東京都出身。 石川卯一郎の長男。 武蔵工業大学(現東京都市大学)学長の石川馨は長男。 日本商工会議所会頭の石川六郎は六男。 東京帝国大学助教授、日産化学工業社長を経て、 経団連初代会長に就任。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は染井霊園の墓所にて。 葛西善蔵。 1887年1月16日 — 1928年7月23日、 小説家。 青森県弘前市に生まれ。 生家は広く商売(米の仲買業等)をしていたが、善蔵が2歳のときに没落。 ほとんどが自らの体験をつづった〈私小説〉プロレタリア作家。 代表作は『哀しき父』『 子をつれて』『椎の若葉』等。 墓所は鎌倉市の建長寺塔頭の回春院。 重光葵。 1887年7月29日 — 1957年1月26日、 外交官、政治家。 大分県大野郡出身。 士族・重光直愿の次男。 読みは、しげみつまもる。 母の実家の養子となり重光家26代目の当主となる。 大東亜戦争中に外務大臣を務め ポツダム宣言に調印。 国際連合加盟に尽力。 画像は多磨霊園の兄・簇(あつむ)の墓所の丸に三つ柏紋。 里見とん。 1888年7月14日 — 1983年1月21日、 小説家。 横浜出身。 本名は山内英夫。 母の弟の山内英郎の養子となり山内姓となる。 『恋ごころ』で読売文学賞を受賞。 代表作は『善心悪心』『 多情仏心』。 『 彼岸花』は映画のために書き下ろした。 家紋画像はより。 家紋は丸に土佐柏紋。 松旭斎天洋。 1888年9月21日 — 1980年9月30日、 奇術師。 福井県敦賀市出身。 本名は山田松太郎。 子供の頃は大阪で丁稚奉公をしていた。 母親が奇術師のの姉であった縁でに弟子入り。 「天洋奇術研究所」を創立し、三越日本橋本店で手品商品の実演販売を行う。 家紋は三つ柏紋。 河辺虎四郎。 1890年9月25日 — 1960年6月25日、 陸軍軍人。 富山県出身。 読みは、かわべとらしろう。 兄は、陸軍大将・河辺正三。 陸軍参謀本部作戦課長時に、戦線拡大に反対。 戦争直後、軍事情報部歴史課で特務機関「河辺機関」を結成。 最終階級は 陸軍中将。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は谷中・天王寺墓地にて撮影。 牧野虎雄。 1890年12月15日 — 1946年10月18日、 洋画家。 新潟県出身。 読みは、まきのとらお。 木村荘八、たちと六潮会を、また、、らと邦画一如会を結成した。 代表作は「漁村」「凧揚(たこあげ)」「後向きの裸婦」「明るい部屋」。 家紋の丸に三つ柏紋は多磨霊園の墓所にて撮影。 広津和郎。 1891年12月5日 — 1968年9月21日、 小説家。 東京都出身。 父は小説家・広津柳浪。 好景気時代に悩むインテリ青年の苦悩を描く。 代表作は『神経病時代』『続年月のあしおと』等。 また『父と娘』はの映画『 晩春』の原作となる。 家紋は丸に片手蔓三つ柏紋。 画像は谷中霊園にて撮影。 石井四郎。 1892年6月25日 — 1959年10月9日、 陸軍軍人。 千葉県山武郡芝山町出身。 ノモンハン事件では、初代部隊長を勤めた。 関東軍防疫給水部( 731部隊)所属時には給水活動に活躍。 また、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関を主導したといわれている。 家紋は丸に抱き柏紋。 画像は月桂寺にて撮影。 尾竹紅吉。 1893年3月4日 — 1966年9月22日、 運動家。 富山出身。 本名は、尾竹一枝。 読みは、おたけこうきち。 日本画家・尾竹越堂の長女。 尾竹竹坡は叔父。 青鞜社入社後、表紙などを担当。 青鞜社退社後に富本一枝という筆名で評論を発表。 家紋は丸に三つ立ち柏紋。 画像は谷中霊園の尾竹家の墓所にて撮影。 西脇順三郎。 1894年1月20日 — 1982年6月5日、 詩人、英文学者。 新潟県北魚沼郡小千谷町出身。 西脇家は元禄時代より代々縮問屋を営む。 戦前から、モダニズム・ダダイスム・シュルレアリスム運動の中心人物として活躍。 代表的詩集は『 失われた時』。 家紋の中輪に違い柏紋はよりご教授いただく。 蝋山政道。 1895年11月21日 — 1980年5月15日、 政治学者。 新潟県刈羽郡出身。 群馬県高崎市で育つ。 の影響を受け政治学の研究を志す。 二・二六事件に際して『帝国大学新聞』に軍部批判の論説を掲載。 中央公論社副社長、『中央公論』編集主任、 お茶の水女子大学学長。 画像は小平霊園の墓所にて撮影。 横田喜三郎。 1896年8月6日 — 1993年2月17日、 最高裁判所長官。 愛知県の呉服商兼農業の家庭の三男として出生。 親社会主義的な法学者として知られ、著書『天皇制』において天皇制廃止を主張したが、晩年は保守的な思考を強め、天皇から勲章を賜る。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は護国寺共葬墓地にて撮影。 岸信介。 1896年11月13日 — 1987年8月7日、 官僚。 山口県吉敷郡山口町出身。 県庁官吏・佐藤秀助の五男として誕生。 婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。 内閣総理大臣は実弟、は外孫。 内閣総理大臣(第56・57代)。 家紋は丸に剣三つ柏紋。 画像は冨士霊園の墓所にて撮影。 薄田美朝。 1897年1月16日 — 1963年4月16日、 官僚、政治家。 秋田県出身。 読みは、すすきだよしとも。 群馬県知事、鹿児島県知事を経て、警視総監となる。 戦後、自由党から立候補し、政治家となる。 自由党政調会治安部長、自由民主党総務などを務めた。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 松井翠声。 1900年4月9日 — 1973年8月1日、 俳優。 東京出身。 本名は五百井 いおい 清栄。 読みは、まついすいせい。 活動写真 無声映画 、とくに外国映画の弁士として活躍。 のナヤマシ会に参加。 NHKラジオ「陽気な喫茶店」に出演。 家紋は三つ柏紋。 画像は鎌倉寿福寺の墓所にて撮影。 島耕二。 1901年2月16日 — 1986年9月10日、 映画監督。 長崎県長崎市に、医者の息子として生まれる。 二枚目俳優として、阿部豊、溝口健二などの作品に出演。 監督に転向し、『風の又三郎』『次郎物語』などで好評を得る。 家紋は丸に五徳柏紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 仲小路彰。 1901年2月26日 — 1984年9月1日、 思想家、哲学者。 東京市赤坂区氷川町出身。 仲小路廉の二男。 読みは、なかしょうじあきら。 大正末期から昭和にかけてのロマン主義運動の中心的存在の一人であったとされている。 家紋は変り蔓柏紋。 画像は青山霊園にある父親・仲小路廉の墓所にて撮影。 青山二郎。 1901年6月1日 — 1979年3月27日、 美術評論家。 東京市麻布区出身。 中学時代から中国・朝鮮や日本の焼き物を探求。 一時期、やたちの民芸運動に参加。 小林秀雄、、、、などと交わる。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は谷中・玉林寺にて撮影。 嶋田叡。 1901年12月25日 — 1945年6月27日、 沖縄県知事。 神戸市須磨区の開業医・島田五十三郎の長男として出生。 読みは、しまだあきら。 高校野球で夏の県大会優勝校には「島田杯」が授与されるなど、現在でも沖縄県民に愛された知事として記憶されている。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 山内恭彦。 1902年7月2日 — 1986年10月14日、 理論物理学者。 神奈川県出身。 祖父は函館戦争でに随行した山内六三郎。 読みは、やまのうちたかひこ。 群論を使って原子構造を解明。 「原子スペクトル理論への群論の応用」で日本学士院賞を受賞。 家紋は丸に土佐柏紋。 画像は染井霊園の墓所にて撮影。 北園克衛。 1902年10月29日 — 1978年6月6日、 詩人。 三重県伊勢市出身。 本名は橋本健吉。 読みは、きたぞのかつえ。 日本で初めてのシュルレアリスム宣言を配布した。 デザイナー、イラストレーター、編集者としても活躍。 代表的な詩集に『白のアルバム』『黒い火』などがある。 家紋の丸に三つ柏紋は祥雲寺にて撮影。 菊谷栄。 1902年11月26日 — 1937年11月9日、 喜劇作家。 青森県東津軽郡油川村大浜(現在の青森市)出身。 本名は菊谷栄蔵。 青森市の油屋菊谷永太郎の次男。 劇団の旗揚げ公演にオペレッタ『リオ・リタ』を提供。 家紋は丸に抱き柏紋。 香山滋。 1904年7月1日 — 1975年2月7日、 小説家。 東京府出身。 本名は山田鉀治(やまだ こうじ)。 読みは、かやましげる。 ゴジラの原作者として知られている。 代表作は『霊魂は訴える』『海鰻荘奇談』『オラン・ペンデクの復讐』など。 家紋は三追柏。 画像は新宿区愛住町浄運寺の墓所にて撮影。 速水健司。 1905年12月 — 1990年8月30日、 実業家。 栃木県小山市出身。 入谷に家具問屋速水商店を開業。 家具卸商業組合・家具健康保険組合理事長など要職につく。 かつては、テレビCMも放映するほど繁栄したが現在は閉店している。 家紋は丸に抱き柏紋。 画像は谷中・寛永寺霊園の墓所にて撮影。 岩下俊作。 1906年11月16日 — 1980年1月30日、 小説家。 福岡県小倉市出身。 本名は八田秀吉。 代表作の『富島松五郎伝』は『 無法松の一生』のタイトルで映画化される。 なんどか、賞、賞の候補となるが受賞は出来なかった。 家紋の丸に三つ柏紋は北九州市の西顕寺の墓所にて撮影。 樋口清之。 1909年1月1日 — 1997年2月21日、 歴史作家。 奈良県桜井市出身。 考古学者としては静岡県の登呂遺跡の発掘を行う。 代表作として『梅干と日本刀』『逆・日本史』『今日の風土記』。 代表作の『梅干と日本刀』から「 うめぼし博士」「梅干先生」と称される。 家紋は九枚柏紋。 画像は豪徳寺にて撮影。 山野愛子。 1909年1月20日 — 1995年7月31日、 美容家。 東京・向島出身。 実家は洋食食堂を経営。 中野に山野美容講習所(現在の 山野美容専門学校)を開設。 山野美容芸術短期大学を設立、初代学長に就任。 生涯をヤマノグループ創始者として日本美容界発展に貢献した。 画像は中野・高徳寺にて撮影。 斎藤邦吉。 1909年6月26日 — 1992年6月18日、 政治家。 福島県出身。 衆議院議員(12期)。 自民党内では宏池会に所属し、、佐々木義武とともに「派三羽烏」と呼ばれた。 自民党幹事長、厚生大臣、行政管理庁長官などを歴任。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は池上本門寺にて撮影。 土門拳。 1909年10月25日 — 1990年9月15日、 写真家。 山形県酒田市に父・熊造の長男として誕生。 絶対非演出の リアリズム写真を主張したリアリズム系の写真家。 日本の庶民、仏像等の撮影に特に才能を発揮。 また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。 家紋は丸に三つ柏。 画像は八柱霊園にて撮影。 斎藤栄三郎。 1913年6月19日 — 2000年7月9日、 評論家。 東京府出身。 読みは、さいとうえいざぶろう。 日経新聞記者、NHK解説委員を経てフリーの経済評論家となりTBSの『時事放談』出演等で活躍後、参議院議員に転身。 第1次海部内閣の 科学技術庁長官を務めた。 家紋の丸に抱き柏紋は池上本門寺にて撮影。 新美南吉。 1913年7月30日 — 1943年3月22日、 児童文学作家。 愛知県半田市出身。 本名は新美正八(旧姓:渡辺)。 雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人。 童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。 代表作は『 ごん狐』『手袋を買いに』等。 生家の家紋はだが、新美家の家紋は丸に柏紋。 沢村栄治。 1917年2月1日 — 1944年12月2日、 プロ野球選手。 三重県宇治山田市出身。 夏の高校野球(中学野球)全国大会で1試合23奪三振を記録。 静岡県草薙球場で開催されたアメリカメジャーリーグ選抜軍との試合に登板し好投。 巨人入団後も活躍。 プロ野球史上初となるMVPに選出される。 家紋は丸に三つ柏紋。 吉岡実。 1919年4月15日 — 1990年5月31日、 詩人、装幀家。 東京本所の生まれ。 芸術至上主義詩人として戦後詩に多大な影響を与える。 代表作は『昏睡季節』『液体』『 僧侶』『サフラン摘み』『薬玉』。 全284篇の詩作品と150点余りの装丁作品を遺した。 家紋は、丸に三柏。 画像は巣鴨の真性寺にて撮影。 野村芳太郎。 1919年4月23日 — 2005年4月8日、 映画監督。 京都府出身。 父・野村芳亭は日本の映画監督の草分け的存在。 1946年に復員後、の助監督を務め、『鳩』で監督デビュー。 代表作は『張込み』『 砂の器』『 鬼畜』『八つ墓村』等。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は和田堀廟所の野村家墓所にて撮影。 吉葉山潤之輔。 1920年4月3日 — 1977年11月26日、 大相撲力士。 北海道厚田郡厚田村出身。 本名は池田潤之輔。 第43代横綱。 1954年1月場所、全勝で悲願の初優勝。 引退後、年寄・宮城野を襲名。 宮城野部屋を開設する。 の不知火型での土俵入りは吉葉山から継承したもの。 画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。 賀原夏子。 1921年1月3日 — 1991年2月20日、 女優。 東京府東京市牛込区余丁町出身。 本名は塚原初子。 父は東京農業大学常務理事の塚原周吾。 文学座に入座。 退座後は、劇団NLTを結成。 代表出演作は、映画 『あにいもうと』 、テレビドラマ『これが青春だ』等。 家紋の丸に三つ柏紋は多磨霊園にて撮影。 コロムビア・トップ。 1922年5月6日 — 2004年6月7日、 漫才師。 東京都台東区浅草出身。 本名は下村泰。 鳥屋二郎と組みコロンビア・トップ・ライトのコンビで風刺漫才を得意とした。 青空一門の総帥として漫才協団を率いる。 また、参議院議員として障害者福祉に取り組んだ。 画像は目黒・東光寺にて撮影。 西村晃。 1923年1月25日 — 1997年4月15日、 声優。 北海道札幌市出身。 大東亜戦争中は特攻隊員であったが、出撃直前に終戦を迎えている。 テレビドラマ『 水戸黄門』の二代目・役として有名。 代表出演作は「赤い殺意」「黒蜥蜴」など。 家紋は三つ追い柏。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 岡本喜八。 1924年2月17日 — 2005年2月19日、 映画監督。 鳥取県米子市出身。 本名は岡本喜八郎。 代表作は『独立愚連隊西へ』『江分利満氏の優雅な生活』『 肉弾』『大誘拐』等。 すべてのカットをコンマ秒単位で決めた上で撮影に臨んだといわれる技巧派の監督。 家紋は丸に三つ柏。 画像は春秋苑にて撮影。 南都雄二。 1924年4月26日 — 1973年3月19日、 漫才師、俳優。 大阪市出身。 本名は、吉村朝治。 読みは、なんとゆうじ。 と結婚。 その後、「・鈴夫改め上方トンボ」として夫婦漫才コンビを結成。 映画俳優としては『悪名』や『兵隊やくざ』ではシリーズで出演。 家紋は丸に蔓柏紋。 加納貢。 1926年 — 2004年9月28日、 愚連隊。 東京新宿出身。 読みは、かのうみつぐ。 父は八千代銀行創業者で東京の初台一帯から新宿にかけての地主・加納直。 太平洋戦争終戦後の混乱期、戦後闇市の守護神と称され「愚連隊の帝王」と呼ばれた。 家紋は丸に違い柏紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 山口瞳。 1926年11月3日 — 1995年8月30日、 エッセイスト。 東京市麻布区出身。 母親は横須賀の柏木田遊郭の経営者。 『江分利満氏の優雅な生活』で賞を受賞。 競馬、将棋、野球に造詣が深く『草競馬流浪記』など関連作も多い。 代表作は『血族』『家族』など。 家紋の丸に蔓柏紋は横須賀・顕正寺にて撮影。 ドクター中松。 1928年6月26日 — 、 発明家。 東京府出身。 本名は中松義郎。 先祖の中松十郎左衛門は、から赤穂城を受け取る。 これまでの発明件数は3,000件以上。 主な発明は、灯油ポンプ、ピョンピョンシューズ等。 東京都知事選立候補者としても名高い。 家紋は。 牧野茂。 1928年7月26日 — 1984年12月2日、 プロ野球選手。 香川県高松市出身。 読みは、まきのしげる。 東京六大学リーグを経て、中日ドラゴンズに入団。 華麗な守備でファンを魅了。 引退後は、巨人軍V9時代の名コーチ、解説者として知られる。 1991年に野球殿堂入りした。 家紋の丸に三つ柏紋はにて確認。 戸浦六宏。 1930年4月30日 — 1993年3月25日、 俳優。 大阪府大阪市出身。 読みは、とうらろっこう。 本名は東良睦宏。 残忍さ溢れる個性的な名悪役で知られる。 が設立した創造社に参加し、作品に数多く出演。 代表出演作は『 絞死刑』『沈黙』『とべない沈黙』など。 家紋は丸に三つ柏紋。 鈴木淑夫。 1931年10月12日 -、 エコノミスト。 東京都千代田区出身。 父は 大修館書店の創業者・鈴木一平。 日本銀行、野村総研を経て、エコノミストとなり、『金融政策の効果』で日経・経済図書文化賞を受賞。 また政治家としても活躍。 家紋は丸に陰抱き柏紋。 画像は護国寺の鈴木家墓所にて撮影。 青島幸男。 1932年7月17日 — 2006年12月20日、 政治家。 東京市日本橋区の仕出し弁当店・弁菊の次男。 「 スーダラ節」「明日があるさ」等の作詞者、「 意地悪ばあさん」の主役俳優。 「 人間万事塞翁が丙午」で賞受賞。 政治家としても参議院議員、 東京都知事を務める。 画像は西日暮里・浄光寺にて撮影。 引田天功。 1934年7月3日 — 1979年12月31日、 催眠術師。 神奈川県横浜市出身。 本名は疋田功。 師匠は。 声優の小桜有美、アイドルグループ少女隊のトモは娘。 水中や爆発などの極限状態からの脱出マジックを得意とし 脱出王の異名を取った。 家紋は丸に三つ柏紋。 画像は長津田の随流院にて撮影。 宅見勝。 1936年6月22日 — 1997年8月28日、 ヤクザ。 兵庫県神戸市出身。 読みは、たくみまさる。 指定暴力団・五代目山口組若頭。 宅見組組長。 「山一抗争」、「八王子抗争」、「山波抗争」、「中野会会長襲撃事件」などの各種暴力団抗争に当事者として関与。 家紋は丸に蔦柏紋。 大鵬幸喜。 1940年5月29日 — 2013年1月19日、 大相撲力士。 樺太出身。 父親はウクライナ人のマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨ。 納谷は母の姓。 第48代横綱。 優勝32回、6連覇2回などを記録。 現役時の紋付にはがあるが、納谷家の先祖の墓には丸に三つ柏紋がある。 篠山紀信。 1940年12月3日 — 、 写真家。 東京市淀橋区出身。 真言宗円照寺の住職家の次男。 雑誌『GORO』で、ら芸能人や素人をモデルにした一連の激写シリーズで知られる。 その他、やの撮影をしたことでも有名。 家紋の三つ柏紋は実家の墓所にて撮影。 尾上菊五郎 7代。 1942年10月2日 — 、 歌舞伎役者。 東京都出身。 本名は寺島秀幸。 屋号は音羽屋。 妻は 富司純子。 長女は女優の 寺島しのぶ、長男は五代目尾上菊之助。 20代の菊之助時代に三之助の一人として人気を博す。 人間国宝。 家紋は重ね扇に抱き柏紋。 画像は雑司が谷墓地の五代目尾上菊五郎の墓所にて撮影。 樹木希林。 1943年1月15日 — 、 女優。 東京神田出身。 本名は内田啓子。 岸田森と結婚するが、後に離婚。 その後、 内田裕也と再婚し間に娘・内田也哉子( 本木雅弘夫人)がいる。

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吾峠呼世晴の素顔と本名は?写真や画像があるかを調査!

あつ森 藤の家紋

名字はいつから使われるようになったのか? 実は名字には長い歴史があり、起源を辿ると平安時代後期(西暦1000年頃)にさかのぼります。 最初は公家(貴族)達がお互いを区別するための呼び名が名字の始まりでした。 その後、名字は一度庶民にも広がったものの、戦国時代頃になると身分を区別するためのものになっていきます。 江戸時代になると「士農工商」「苗字帯刀(みょうじたいとう)」等の、職業によって区別される身分制度の中に組み込まれることになり、庶民が名字を名乗ることができなくなっていきました。 名字の歴史については、以下の関連記事で詳しく解説しています。 今のように全ての国民が名字を名乗るようになったのは、明治8年(1875年)の2月に発令された「平民苗字必称義務令」がきっかけで、 先祖が庶民だった場合はこの時に自分の先祖が届出をした名字を名乗っていることになります。 江戸時代には高い身分とされた公家(貴族)や武家(武士)の人々は、明治時代より前から名字を名乗っていました。 しかし身分の低かった庶民が名字を名乗ることが許されたのは明治に入ってからのことだったのです。 この時に庶民が決めた名字は、元々持っていた名字を名乗ったり、地元の有力者の名字をもらった人もいる一方で、田んぼの近くに住んでいたから「田辺」、山の入り口付近に住んでいたから「山口」など、地名・地形・にちなんだ名字、商人は「犬養」「加賀屋」等の職業にちなんだ名字、「東」「西村」等の方角にちなんだ名字、「佐藤」「藤田」等、藤原家にちなんだ名字が多くありました。 では元々名字を名乗っていた「公家」と呼ばれる貴族の人は、どのような人達だったのでしょうか。 公家とはどんな人達? 公家(くげ)とは、武家(ぶけ)との対義語で、天皇を長とする朝廷に仕える貴族のことをいいます。 武家は今でいう軍人でしたが、公家は今でいう皇族のような人達です。 今の皇族とは違い政治に積極的に関わる公家も平安時代までは多く存在し、公家出身の武家も多く存在します。 平安時代の後、鎌倉幕府で武家政権が発足してからは、今の皇族と同じように政治に積極的に関わる機会は減っていきました。 公家(貴族)の名字とは では、江戸時代の貴族である「公家(くげ)」は、どのようにして名字をつけたのでしょうか?藤原家に代表される公家達は、朝廷内に藤原が増えすぎて区別がつかなくなってしまったため、京都の邸宅のある通りの名前や地名からとった「家名」としたのが名字の始まりとされていて、公家(貴族)にとって「名字」とは「家名」だったのです。 では、 その貴族の「家名」と「自分の名字」を並べてみて一致するのであれば、自分の先祖が公家(貴族)だった可能性がある!ということにもなります。 それでは江戸時代の貴族であった公家・堂上家(どうじょうけ)の家名を見ていくことにします。 堂上家(どうじょうけ・とうしょうけ) 堂上家というのは、公家の家格の一つで、天皇が生活をしていた場所であった清涼殿にのぼる事(昇殿)を許され、「公卿(くぎょう)」になることのできる家柄の事をいいます。 つまり、公家・貴族の中でも上級の人達のことを堂上家といい、公卿になれず昇殿を許されない家柄を地下家(じげけ)と呼びます。 雲上明覧によると、江戸末期の堂上家は137家存在していました。 雲上明覧(うんじょうめいらん) 雲上明覧とは江戸時代に作られた、皇族や公家の名鑑です。 天保8年に発刊され、その後数回改訂されています。 実は国立国会図書館のデジタルライブラリーでも閲覧することができます。 この雲上明覧大全に載っている公家(堂上家)の名字をご紹介していきます。 公家たちに存在した「家格」とは 公家と呼ばれるような貴族や、堂上家のような上級官人だった人達などは、以下の家格に分けられていました。 摂家(せっけ)• 清華家(せいがけ)• 大臣家(だいじんけ)• 羽林家(うりんけ)• 名家(めいけ・めいか)• 半家(はんけ) このように6つの段階的な階級によって分けられ固定化され、家柄によってなれる役職も決められていました。 生まれた家柄でほとんど将来が決まってしまうということですから、今の日本人の感覚からすると、とても窮屈な制度だったに違いありません。 公家の役職(公卿) 役職の名前 役 割 1.関白 事実上の朝廷の最高位の役職で、天皇を補佐する役割 2.摂政 天皇が幼少のときに、代わって政務を行う役職 3.太政大臣 太政官の最高位の役職で、具体的な職務がない名誉職 4.左大臣 太政大臣に次ぐ役職で、事実上の太政官の最高長官 5.右大臣 左大臣に次ぐ役職で、左大臣と同じ太政官の最高長官 6.内大臣 左右大臣に次ぐ役職で、左右大臣が欠員の場合等に代理として政務を行う 7.大納言 太政官の次官とされ、大臣と政務を審議し天皇に奏上・勅命を伝達する 8.中納言 大納言を補佐し、政務を審議し天皇に奏上・勅命を伝達する役職 9.参議 大中納言に次ぐ役職として任命され、政務に参加する この中の関白や摂政の役職は、日常的に聞いたこともあるのではないでしょうか。 公家の役職はピラミッド式の階層になっていて、どの家柄に生まれかによってなれる職業が決まっていたのです。 貴族にとって生まれた家格はとても重要なものでした。 次に、6つの家格と名字を順番に紹介していきます。 公家の6つの家格 摂家(せっけ) 摂関家は公家の中でもトップクラスの身分で、たった5つの家だったことから五摂家(ごせっけ)とも呼ばれます。 五摂家の方たちは、出世の仕方によって公家の最上位の職である摂政・関白・太政大臣などになれる人たちです。 全て藤原家の嫡流であり、いわば公家(貴族)のエリート一族の家柄といえます。 摂家の名字(5家) ・近衛(このえ) ・鷹司(たかつかさ) ・九条(くじょう) ・二条(にじょう) ・一条(いちじょう) この五摂家と同じ名字である場合、元公家(貴族)であった可能性が非常に高いです。 明治維新の際に庶民は名字を自由に届出ることができましたが、この五摂家の名字はとても恐れ多く、庶民では届出ることはできなかったと考えられるからです。 もっとも、今でもこの5つの名字を持つ方は存在していて、自分たちの家柄に誇りを持っています。 近衛家の子孫で、昭和の時代に内閣総理大臣を務めたことのある近衞文麿(このえふみまろ)氏は有名です。 きっと元摂家の家柄の方達は、家族の言い伝えの中で我が家の歴史を教えられていることでしょうから、今になって自分の家が元公家だった!と気づくことは、現実ではほとんどないでしょう。 清華家(せいがけ) 清華家は摂家の次ぐ家格で、太政大臣などになれる人たちです。 実際は江戸時代の太政大臣は五摂家が独占していたため、左大臣が事実上の最上位の官職でした。 摂家に次ぐといっても上級貴族であることは疑いなく、9つの家が存在していました。 上のような清華家の名字を持つ方も、摂家と同様に元公家である可能性は高いですが、中には公家の家名ではなく地名になっていたり、別のルーツを持つ名字(久我・醍醐)も含まれているため、名字だけで元公家だと断定することは難しいといえます。 大臣家(だいじんけ) 大臣家は、摂家・清華家に次ぐ家格で、3つの家が存在します。 内大臣から太政大臣になれる資格はある家柄ですが、現実は清華家の昇進に準じて大臣に欠員が出たときに大臣になることができた位の家柄でした。 大臣家の名字(3家) ・正親町三条[(おおぎまちさんじょう)嵯峨(さが)] ・三条西[(さんじょうにし)西三条(にしさんじょう)] ・中院(なかのいん) 大臣家の名字は珍しいものが多いのが特徴です。 嵯峨(さが)については地名になっていることもあり、名字としては一番多く使われています。 嵯峨以外の名字については非常に珍しいこともあって、今でも存在しているのかハッキリしません。 もし、正親町三条、三条西、西三条、中院の名字を名乗っているのなら、元公家である可能性は高いといえます。 羽林家(うりんけ) 羽林家は、大臣家に次ぎ、後で紹介する名家と同列の家格で、武官職を経て参議から大納言まで昇進ができる家柄です。 羽林とは中国で元々宮中を守る役職の意味があり、66家と数が多いのも特徴です。 羽林家の名字(66家・順不同・読み省略) 難波・飛鳥井・今城(中山冷泉)・松木(中御門)・園家・石野家・高野家・壬生(葉川)・石山・六角家・東園・冷泉(上冷泉)・冷泉(下冷泉)・藤谷家・中山・入江・持明院・水無瀬・町尻・桜井・山井・七条・滋野井・河鰭・阿野・橋本・野宮・梅園・清水谷(一条)・正親町・小倉・室町(四辻)・園池・花園・押小路家・武者小路・高松(西郊)・姉小路・風早・大宮・裏辻・藪(高倉)・中園・堀河・樋口・西四辻・四条・鷲尾・西大路・油小路・山科・山本・櫛笥・八条・岩倉・六条・梅溪・久世・東久世・高丘・千種・植松・愛宕・庭田・綾小路・大原 羽林家は堂上家の中で最も多い66家存在しました。 中に知人の名字や聞いたことのある名字も多かったと思います。 この名字の中に自分の名字が含まれていた方は、家族に名字のルーツについて聞いてみることをお勧めします。 それでもわからなかった場合は、家系図作りから始めて、自分の名字のルーツを辿ってみましょう。 実は元貴族だった!なんてことがわかるかもしれません。 名家(めいけ・めいか) 名家は羽林家と同列のため、大納言まで昇進ができる家柄です。 羽林家と異なるのは侍従や弁官等の今でいう宮内庁のような文官職を経て昇進する点です。 28家存在しました。 「名家」といっても、今の意味でいう名家とは異なり、公卿の家格の1つを表す呼称です。 名家の名字(28家・順不同・読み省略) 澤・竹内・高倉・五辻・白川・倉橋・慈光寺・西洞院・石井・高辻・東坊城・唐橋・桑原・北小路・清岡・舟橋・伏原・藤波・富小路・吉田・萩原・五条・錦織・藤井・土御門・錦小路 半家の名字も聞いたことのある名字が含まれていたのではないでしょうか。 半家も堂上家の中で一番低い家格といっても、国全体からみたら一握りの上級貴族であることに変わりありません。 自分の名字が含まれていたら、是非調べてみて下さい。 明治維新以降の貴族 江戸時代の公家は、明治維新の後は 「華族(かぞく)」という新しい制度に置き換わり、引き続き様々な特権を持つことになりました。 明治8年の平民苗字必称義務令によって、名字は全国民が名乗るようになりました。 上で紹介した公家の名字は明治以降も「名字」として受け継がれることになります。 明治維新で活躍した公家としては岩倉具視(いわくらともみ)氏が有名です。 華族の中でも、臣籍降下した元皇族を「皇親華族」、公家の堂上家出身の華族を「堂上華族」、武家(大名)に由来する華族を「大名華族」、国家への勲功を挙げた者は「新華族」と区別されました。 公家が貴族の象徴だった江戸時代に比べて、明治維新後には新しい貴族が生まれることになり、日本の貴族の定義は大きく変化したといえます。 華族の中でも、経済的な基盤が弱かった旧公家は生活に困窮するケースも発生し、一部の貴族にとっては受難の時代を迎えることになります。 しかし、戦前まで華族制度は続いていたのです。 終戦・華族(貴族)の廃止 第二次世界大戦で日本は敗戦。 その後社会制度は大きな変革を迎え、新しい憲法が制定されます。 日本国憲法第14条【法の下の平等、貴族の禁止、栄典】 第1項 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 第2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。 第3項 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。 栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。 これによって日本から貴族制度は消滅することになり、制度の上での華族はなくなりました。 霞会館(旧華族会館)等、 同族のコミュニティや繋がりは残りましたが、激動の時代を通して、日本社会で様々なものが変化していきました。 その中で残ったものの一つが、日本人の「名字」だったのです。 現代日本の名家とは 今でも、「名家(めいけ)」「旧家(きゅうか)」「良家(りょうけ)」という言葉を聞くことはあります。 どのような家が名家なのか、昔は家格・名字で簡単に判断できるものだったかもしれませんが、現代では様々な「名家」が生まれています。 今では学術で社会に貢献した人、ビジネスで成功した人、政治家として貢献した人、ノーベル賞を受賞した人、そんな方の「家」が名家と呼ばれるようになり、出自で身分や将来が決まる時代は終わったのです。 つまり、名家はこれから作ることができるようになり、さらには名家を維持する努力というものも求められる時代になったのです。 名字から自分のルーツはわかるのか? これまで「名字で昔の身分はわかるのか?」というテーマで公家と貴族の名字について解説させていただきましたが、いかがだったでしょうか。 名字が一つの判断材料になる一方で、名字だけでは判断しづらいものだということもご理解いただけたと思います。 名字だけではなく、家紋や墓石も一緒に調べてみることをお勧めします。 さらに家族の言い伝えも非常に貴重な情報になりますので、是非身近な祖先である両親や祖父母にも色々な話を聞いて下さい。 もしかしたら自分も!?貴族診断! 現代の日本社会では貴族制度は廃止されていますが、実は大昔の自分の先祖が貴族だった可能性はあります。 高度な文献調査をすることで貴族であった確証が得られる可能性があります。 高度な文献調査をすることをオススメします。 戸籍調査を行った後、基本的な文献調査を行うとさらに情報が得られるはずです。 まず戸籍調査を行ってみて下さい。 35未満 残念ながら情報が少ないため判断が困難です。 まず家の言い伝えを整理してから戸籍調査を行ってみて下さい。 いかがだったでしょうか。 基本的なご先祖調査を行っていないと答えづらい質問も多かったと思います。 今回は簡単な診断ですが、ご先祖が貴族であるかを本格的に調べるためには、戸籍調査や文献調査を行う必要があります。 ご自身で調査を進めることもできますが、困難な場合は弊社の専門的な調査サービスの活用もご検討下さい。 自分の祖先が貴族じゃなさそうな人へ もし今回、自分の名字が堂上家の家名に含まれていなかったとしても、 江戸時代より前の時代まで目を向けると先祖が貴族であった可能性は高まります。 日本の古代からの長い歴史の中では、貴族でなかった人が貴族になったり、貴族だった人が貴族でなくなったことも多くあったからです。 そう考えると、自分の祖先・ルーツが貴族である可能性は実はとても高いといえます。 さらに 戸籍を辿って家系図を作ると、今自分が名乗っている名字だけではなく、母方も含めたたくさんの名字にゆかりがあることが判明します。 自分のゆかりのある名字が増えれば、自分が公家や貴族の子孫であったことが判明する可能性も高まります。 先祖が武士や貴族じゃなかったとしても、今の自分まで命のバトンを渡してくれた大切なご先祖様に変わりはありません。 自分のことをよく知り、自分の引出しを増やすためにも、家系図を作ったり自分の名字のルーツを一度調べてみることをお勧めします! ご先祖が武士だった可能性も探ってみたい方は… 自分の先祖は公家ではなく武士かもしれない!という方は、以下の記事もご覧になってみて下さい。

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