米西戦争。 建前と本音の米西戦争 : 塩はうまくてまずいです

日本近代史の歴史認識をまとめています

米西戦争

4月、島をめぐって起こったアメリカ合衆国との戦争。 の典型的な政策と言える。 キューバの独立宣言 キューバはコロンブスの西インド到達直後にスペイン領となって以来、スペインの植民地支配を受け、クリオーリョによるが続いていた。 19世紀に入り、イギリスを始めとして世界的な奴隷貿易禁止、奴隷制廃止が進む中、スペイン領キューバでは黒人奴隷制による砂糖プランテーションによる砂糖生産は急増していた。 アメリカ向けの1868年に独立運動(第一次独立戦争)が起こった。 この独立戦争は鎮圧されたが、90年代に ホセ=マルティを指導者とした独立運動が再び活発となり、に第二次戦争が始まり、7月に共和国として独立を宣言した。 アメリカの介入 しかしスペインの弾圧はなおも続いていたため、アメリカ国内ではキューバの砂糖資源に投資していたので、それを失うことを恐れて介入の世論が高まり、2月にハバナ港でアメリカの軍艦メイン号が爆沈して多数のアメリカ兵が犠牲となった(アメリカの謀略という説もある)が起きると、が4月、スペインに宣戦した。 アメリカ海軍はラテンアメリカの各地、太平洋のとなどスペイン植民地のスペイン基地を攻撃、スペイン軍と戦闘の結果、4ヶ月でアメリカの勝利となった。 スペイン政府は戦争を回避するために譲歩してきたが、開戦を要求するアメリカ国内の世論を抑えきれずに戦争勃発となった。 米西戦争はそうした世論を作りだしたメディアによって引き起こされたとさえいわれている。 そんな中、ハバナに停泊中のアメリカ軍艦メイン号の爆発事件は一気に国民の開戦を要求する声を高めた。 イエロー・ジャーナリズムは「メイン号を忘れるな」というスローガンを掲げ好戦気分を煽り、国民の間に復讐の感情を燃え上がらせた。 こうして大統領は「人類の名において、文明の名において、危険にさらされたアメリカの利益のために」宣戦布告を議会に要請し、それは採択された。 <有賀夏紀『アメリカの20世紀(上)』2002 中公新書 p. 55-56> Episode 「私が戦争を提供する」 現在のようなメディアによる世論形成が始まったのがまさに1890年代であり、ピュリッツァーの『ワールド』、ハーストの『ジャーナル』に代表される大衆紙(イエロー・ジャーナリズムといわれた)が発行部数を競い合い、そうした新聞にとってスペインによるキューバの弾圧は大衆の感情に訴える願ってもないニュース材料だった。 両紙は記者や挿絵画家をキューバに派遣し、スペインによる残虐行為をできるだけ生々しく伝えるように指示した。 ハースト(新聞王と称された)は、現地に派遣した画家のフレデリック・レミントンに対し、「君は絵を提供しろ。 私が戦争を提供するから」と話したという。 アメリカの植民地獲得 12月に講和が成立し、でキューバの独立は承認され、アメリカは・・を領有した。 これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に殖民地をもつ国家として一躍世界の強国となった。 なお、米西戦争の時、アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。 キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、として使用し続けている。 フィリピン植民地化 また米西戦争ではアメリカに協力して戦ったフィリピンの独立派のに対してはその独立を認めず、で植民地支配を開始し、それを足場に、中国への進出をはかることとなる。 偽りのマニラ総攻撃 1898年5月1日、デューイ提督指揮のアメリカ海軍はマニラ湾のスペイン艦隊を全滅させた。 しかし陸上では拠点を持たなかったので、急遽香港に亡命していたフィリピン独立運動の指導者をアメリカの艦船で送り届けて上陸させ、その指導によってフィリピン軍の協力態勢をとった。 7月までに陸上部隊が到着、最高司令官メリットはアギナルドに戦争後の独立を口頭で約束した上でマニラ総攻撃に協力を求めた。 その一方、デューイはベルギー公使を通じてスペインのマニラ総督と秘密交渉を行っていた。 スペイン総督は「スペインの名誉を守るため、見せかけの戦闘を行い、その後スペイン軍は降伏する」と約束し、その場合はフィリピン軍のマニラ進入は許されないという条件を付けた。 デューイは条件を守ることをやくそくした。 1898年8月13日、雨期の最中で土砂降りの雨の中、マニラ総攻撃が行われた。 フィリピン軍は積極的に攻撃したが、いたるところでアメリカ軍に進路を妨害された。 午前11時に戦闘は終わり、城郭都市の一角に兼ねての約束通りスペイン軍の白旗が上がった。 早速市内に入ろうとしたフィリピン軍は、米軍の屈強な警備兵に阻まれた。 スペイン総督からの降伏を受け入れたのはアメリカ軍最高司令官メリットだった。 「こうしてアギナルド軍は、マニラ解放の歴史的な日に、米軍の脇役に押しやられた。 」 <鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p. 129> アメリカの「すばらしい小さな戦争」 引用)開戦から数日後、米西戦争最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起こった。 ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。 アメリカ側の死者は1名であった。 このニュースを、多くのアメリカ人は、驚きをもって受け止めることになる。 彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったのである。 しかし、この戦略は、マッキンレー政権の下で、時間をかけて練り上げられていたものであった。 ・・・・何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいという考えた(海軍次官らを中枢とする共和党の)マッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。 「素晴らしい小さい戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか三ヶ月で終了した。 アメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。 義勇兵を率いて戦闘に参加したセオドア=ローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。 また、戦争の果実も申し分なかった。 1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。 戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。 <西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p. 60> スペインの「98年世代」 米西戦争に敗れたでは、かつてのスペイン帝国の栄華が無残に否定されたことに大きな衝撃をうけた知識人の中に、自己改革運動が起こった。 彼らは 「98年世代」と言われ、復古王制下のスペインの没落を自覚し、精神的な再生をめざした。 哲学者で文学者であったウナムーノなどに代表される彼らの出現は、後のスペイン文学などに大きな影響を与えたが、その運動は精神的、文学的なものに留まり、スペイン社会の改革には結びつかず、1905年頃から衰退した。

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アメリカ、ウソではじめた6つの戦争(ロシア・テレビツェントルが暴露)

米西戦争

時代範囲が指定されていないので、極論2010年代の政策まで記述できる問題ですが、問題の意図は帝国主義アメリカのとった対中国政策と捉え、書き進めていきましょう。 --- 📚--- 中国進出に出遅れたアメリカ 1898年、米西戦争終了後のアメリカはフィリピン・グアムを獲得し、同年ハワイも併合しました。 太平洋・アジア地域に向けてアメリカ勢力圏を拡大することに成功したアメリカが次に狙ったのは中国でした。 しかし物事はそう簡単にはいきませんでした。 米西戦争中、フィリピンは当初スペインの占領から開放され、やっと自分たちの独立国家を持つことができると思ってアメリカを支援していたのですが、アメリカが占領を始めるとスペイン植民地時代と何も変わらない社会になったので、改めてアメリカへの独立戦争を仕掛けました。 この戦争にアメリカは苦戦を強いられ、中国進出に乗り遅れてしまったのですね。 そうこうしているうちに中国はイギリス・ドイツ・フランスといった列強諸国によって分割統治され、アメリカが占領できる領土はほぼ皆無な状態になっていました。 その内容は「門戸開放・機会均等・領土保全」の3つです。 これらを呪文のように唱え暗記するのもよいのですが、暗記は忘れる速度が早く復習コストが高い上に、本質をつかめないので大学生になった後にその知識を活用できません。 なので、少し恣意的ですが、受験生は以下のように覚えるとよいのではないかと思います。 ・門戸開放(おれたちにも中国侵略させてくれ) ・機会均等(先に取ったもん勝ちはずるいぞ) ・領土保全(ここまで領土を奪う必要なくない? ) --- 📚--- アメリカのアジア進出の目的 これはアメリカの帝国主義政策の根幹にもあたるので、中国に限った話ではないのですが、そもそもなぜアメリカが海外進出を始めたかというと、自国で作った製品を売りつける市場を確保したかったからです。 中国に関しては植民地化することに遅れを取ってしまい、思った成果をつくることはできませんでしたが、それでもアメリカの狙いは変わっていません。 門戸開放宣言後も、ポーツマス条約やワシントン条約を結ぶ際にはアメリカの影響力を見せつけ、アメリカ製品を売り込む機会を狙っていました。 なので、アメリカの対中国政策の目的は経済進出(中国市場への参入)ということも忘れてはいけません。 (81).

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米比戦争とは

米西戦争

米西戦争の原因 スペインはもともと様々な植民地を有する大帝国でした。 しかしその地位は19世紀後半までに低下してしまい、植民地もほとんど残らなかったのです。 さらにその時点でスペインが有していた植民地も独立運動を繰り広げている状態でした。 そしてその頃、アメリカはマニフェストデスティニーをモットーとして西へ西へと領土を広げ、その次は海外に目を向けようとしていたのです。 アメリカはもともとキューバに目をつけていました。 マニフェストデスティニーという考え方はフロリダの沖合に存在するキューバという国に対して、そこは自分たちの国だという認識を作り上げたのです。 そして当時、キューバ経済はアメリカの手中範囲であったため、ここにアメリカは米西戦争を踏み切ったのです。 これこそ、米西戦争が起こった原因であり、簡単にいうとアメリカはキューバを手に入れようとしていた、ということになります。 大統領の同意 米西戦争が起こった時は、ウィリアムマッキンリーが大統領でした。 そしてマッキンリーはなかなか米西戦争に同意しなかったのです。 しかし、1898年2月15日、ハバナ湾でアメリカ海軍戦艦のメインが爆発し、266人の乗員が命を落としました。 これにショックを受けたマッキンリーは米西戦争を支援する世論に持ちこたえきれなくなっていきました。 スペインの首相はキューバに住んでいる職員を撤廃させ、戦争を防ぐために様々な尽力をしましたが、いきなりキューバが完全に独立できるようになるわけでもなく、最終的に4月11日、マッキンリーが内戦の終了を目的とし、キューバに米軍を派遣する権限を要求したのです。 これが米西戦争が始まる直接的な原因です。 米西戦争の結果 そんな米西戦争ですが、簡単にいうと、アメリカが勝利したことによりアメリカはキューバを占領し、フィリピンとプエルトリコ、グアムを併合したのです。 これはアメリカの海外進出にもつながることとなり、歴史的にも非常に重要です。 また、同じ年にはハワイが事実上アメリカに併合され、アメリカは飛び地にも領土を持つようになったのです。 これが米西戦争の結果になります。 米西戦争の大切なポイントは簡単に言えばキューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアムを手に入れたということになります。 まとめ いかがでしょうか。 米西戦争はスペインのみならずキューバなど他の地域が絡む複雑な戦争になりますから、そもそも簡単に理解するのはなかなか困難です。 しかし、米西戦争のポイントは海外に領土を手に入れたこと、と覚えておきましょう。 それこそが米西戦争の結果であり、今後のアメリカの歴史に大きな影響与えるのです。

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