古今著聞集 大江山。 十訓抄『大江山』問題(1)の解答

☆十訓抄「大江山(小式部内侍)」原文と現代語訳と解釈: 『大学受験古文』

古今著聞集 大江山

例えば「世の中をいとふ山辺の草木とやあなうの花の色に出でにけむ」など、 「卯の花」の「卯」に「憂」 形容詞「憂し」の語幹 が掛かります。 あるいは、「思ひ」の「ひ」に「火」が掛かるというのもあります。 言葉の一部に掛かるというのは特に珍しいことではありません。 「白波」には盗賊の意味がありますが、同時に「知らない」が掛かっています。 ちょっとタイプは違いますが不完全といえば不完全な、でも語感的に無理のない掛詞です。 昔のマンガは粋でした。 って、今も粋なマンガはあるのでしょうけど。 同じ例として「その手は桑名の焼き蛤」なんてのもありますね。 そーなんだ。 鼻で嗤われるかと思いきや、全否定ぢゃないわけだな。 だって「行く」しか掛かってなかったら「の」が余るぢゃんか。 音韻的にそれってどうなのよ? やっぱし余すところなく全て利用したからこそ名歌なのではないのか? いや別にどっかで専門家がこういう説を唱えてたとかいうんではなく、 最初にこの歌を耳にしたときの印象がこれ(行く野の道)だったんだよね。 それがいつの話かは忘れたが。 だって「交通の要所」っつったって何しろ千年前だからさ。 少なくとも舗装はされてなかった…と思うのだ。

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十訓抄『大江山』問題(1)の解答

古今著聞集 大江山

小式部内侍 小式部内侍(こしきぶ の ないし、元年()頃 - 2年()11月)はの女流。。 の一人。 父は、母は。 母の和泉式部と共にの中宮・に出仕した。 そのため、母式部と区別するために「小式部」というで呼ばれるようになった。 経歴 [ ] 母の和泉式部は小式部内侍を妊娠した時に郷里の湖山へと戻っていた。 和泉式部は安産祈願の為、現在の鹿野にある住吉神社へ17日間に亘って参詣し、内侍は鹿野町水谷で誕生したとされる。 住吉神社の西にはその際の産湯に使われたとされる井戸が残っている。 母同様恋多き女流歌人として、・・・など多くの高貴な男性との交際で知られる。 教通との間には、範永との間には娘をもうけている。 万寿2年、の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせた。 この際母の和泉式部が詠んだ歌 「教導立志基」より『小式部内侍』 筆 当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言()は歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。 使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。 意味としては「大江山()を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので(または、に向かって行く野の道・大江山の前の生野への道が遠くて、大江山の向こうの)、まだ母のいる遠いの地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」であり、「行く野・生野」「文・踏み」の巧みなを使用しつつ、当意即妙の受け答えが高く評価された。 四条中納言もまた小倉百人一首に選ばれているほどの歌人であったが、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻き、この一件以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。 脚注 [ ] [].

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かの有名な「大江山」の話しです。『十訓抄』と『古今著聞集』との二つ...

古今著聞集 大江山

内容 和泉式部は才能にあふれた歌人として知られていました。 この話が起こった当時、和泉式部は夫の転勤で丹後に引っ越しており、京都には娘の小式部内侍だけが残されていました。 ある日、小式部内侍は、歌詠みの大会(歌合)によばれました。 歌合とは即興で詠んだ和歌の優劣を競い合う文学的な遊びのことです。 有名な歌人を母にもつ小式部内侍には、周囲の期待がかかります。 そのような状況にあった小式部内侍は、定頼の中納言に「歌の名人であるお母さんに、代わりに歌を詠んでもらうために遣わした者は帰ってきましたか。 」とからかわれてしまいます。 からかわれた小式部内侍は、すばらしい歌でこれに応じます。 その時に詠まれた歌がこの「」です。 あまりのすばらしさに返す言葉もなくなった定の頼中納言は、その場から逃げてしまいました。 そんな、すかっとするようなお話です。

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