宇崎 ちゃん ポスター。 騒動に火をつけた米国人男性に聞いてみた

【悲報】「宇崎ちゃんは遊びたい」の献血ポスター、セクハラだとして批判されてしまう

宇崎 ちゃん ポスター

日本赤十字社のを呼びかけるポスターがネット上で大炎上した「宇崎ちゃん」問題。 ウェブ漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とのコラボ企画で、献血に行くと同作品のクリアファイルが貰えるというキャンペーンを呼びかけるポスターである。 「ジーザス・クライスト……(しばし、無言に)。 見たままだと思うよ。 どこから始めていいのかわからないけど、これは間違ってる。 どう見てもセクシュアライズしているし、日本人の女性に対しての意識が現れてるよ」 と、すでに心が折れている様子。 性的な部分が過度に強調されているというのは日本でも言われていることだが、他にはどういった点が問題だと感じたのだろうか? 「子どもの目に触れる公共の場に貼られているのもおかしいと思う。 あと、単純にこれを見て献血に行きたがる人がどれぐらいいるのかも疑問だね。 アメリカでもビールとかハンバーガーのコマーシャルで、セクシーな女のコが体にこぼしながら飲み食いするようなのがあるけど、ハッキリ言って気持ち悪いよ。 そういう広告は前時代的なものになってるし、視聴者の見る目も厳しくなってる。 しかし、今回のポスターについては、一部のコアなファンが擁護するような漫画とのコラボという部分ではなく、イラストの内容が問題になっていることを再認識するべきだろう。 ノルウェー人女性(34歳)は、その点について指摘する。 「最悪ですね……。 海外でもチャリティなどで有名人が出てくるのは普通です。 むしろ、日本より多いぐらいじゃないでしょうか。 でも、露出が激しかったり、ボディラインを強調した服で呼びかけることはしませんし、すれば必ず非難されると思います。 アニメとか漫画だからというのは関係ない」 彼女からは、ポスターに使われたイラストが献血と関係なさすぎるという意見も出た。 「そもそも、このキャラクターや作品がどう献血と関係あるのか知りたいです。 ポスターを見ても献血を呼びかけるものには見えません。 単に胸を強調してカワイイから使ったというのであれば、性的に利用しているのと何が違うんですか?」 また、取材中に自ら「俺、日本のアニメとか漫画ならわかるよ」と声をかけてきたトルコ人男性(24歳)からも、呆れ気味のコメントが。

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【悲報】「宇崎ちゃんは遊びたい」の献血ポスター、セクハラだとして批判されてしまう

宇崎 ちゃん ポスター

「宇崎ちゃん」のクリアファイル 日本赤十字社が人気漫画「宇崎ちゃんは遊びたい!」とコラボした献血PRキャンペーンがネット上で大きな話題になっている。 萌えキャラ・宇崎ちゃんが「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか~?」と呼びかけるポスターを掲示。 献血参加者に特製クリアファイルなどをプレゼントするキャンペーン第1弾は東京・神奈川・千葉・埼玉・群馬・栃木・茨城の1都6県で実施している。 きっかけは外国人ユーザーのツイート。 コラボポスターの写真を掲載し、キャンペーンを非難。 「なんであえてこういうイラストなのか、もう麻痺してるんでしょうけど公共空間で環境型セクハラしてるようなものですよ」と指摘した。 続けて「とりあえず、日本赤十字社のお問い合わせ に意見を送りました、、、」とつぶやいたのだ。 問題視されたポスターは、宇崎ちゃんの大きな胸が目立つが、谷間を強調したり水着姿でもない。 太田氏が「環境型セクハラ」と指摘したことに賛同の声だけでなく、「人気キャラを使っただけ」「露出しているわけではない」と反論が出ている。 また「環境型セクハラ」という語句を使ったことで「巨乳はだめなのか」「グラドルはどうすればいいのか」といった困惑の声も出た。 さらに太田氏が国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」を支持する意向であることから「表現の自由論争」にまで発展。

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【コミケ97】「宇崎ちゃん献血ポスター」炎上は勘違いが発端? その問題点を弁護士と運営に聞いた

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あいちトリエンナーレ冷めやらぬ中、またも表現の自由を騒がせるような案件でtwitterどったんばったんしてる。 宇崎ちゃん献血ポスターを赤十字が使い、それを太田弁護士が「環境型セクハラみたいなもの」と非難したところに端を発している。 さて、この件に関して、まずは僕の立ち位置。 「これは広告考査の問題である」 ポスターは取り立てて作るの自由である。 作るまでは内面の自由。 で、それがその場所にふさわしいかどうかは、「その掲示場所の責任者」が決める。 例えばTVCMだってあんまエロいのとかグロいのとか、射幸心を煽るが来たら謝絶もするし「これは青少年にはふさわしくない内容」との判断があれば「青少年に見てほしい番組」からは外す判断もある。 局によればド深夜しか流さないCMとかもある。 同じようにポスター掲示場所が(掲示責任者により)配慮されていれば、取り立てて文句言う筋合いなどない。 太田弁護士が(アメリカ人になんか言われて)騒ぎ立てる前にはこのポスターについて誰も気にしていなかったということは、基本的には問題なかったと思われる。 (ちなみに太田弁護士の「環境型セクハラ」発言については、弁護士として法的な概念を持ち出しした以上、法的な論拠に立ってきちんと論争すべきであったと思う。 彼女は「スジが通っていない」のだ。 ) でも、当然ながら、僕のTLにも賛成反対両方いて、お互い言うことは「完全にかみ合っていない」ことは気付いてはいた。 これ、なんというか、マルクス経済学者とケインズ経済学者が同じ事象見て、違う言葉で語り合って「何言ってるんだこいつ????」ってなるのに似ている。 分かりにくい例えだけど、でも「世界をどう見るか」自体がそのくらいそもそも異なっている。 ということはお互いに相互理解のための補助線が必要である。 ということで、今日の僕は、どうにかこうにか相互理解のための補助線を引いてみようという試みをしてみる。 まずは、今回の対立軸を ・フェミ ・オタク と設定する。 かなり乱暴だし、当然属性かぶっている人もいるし100人いたら100通り考えはあるけど、今回は「分かりやすい補助線」なので、見逃してほしい。 ・まずはフェミニストについて考えていく。 まず言い訳。 フェミニストはよく「一人一派」を名乗ってて扱いづらいので、あくまでこういう傾向だと思って。 といってフェミニストのことについて、ぼちぼちお勉強して体系的に書こうとしたけど、なんかすでにきれいにまとまっていた。 よく調べてあるなぁ。 対立を引き起こしがちなのは、 リベラル・フェミニズムと、 ラディカル・フェミニズムである。 リベラル・フェミニズムは単純に分かりやすい。 性根はロールズの僕もここに分類される。 要は「同じ人間なんだから、性差によりやりたいことができないとか、社会での役割に偏りがあるとか、そういうの良くないよね?男女は平等であるべきなんだから。 なので、法律とか意識変革とか進めていこうね」という一派である。 戦前生まれの頭の固いおじいちゃんとか、ま~んとか女性のことを呼んでる阿呆とかでもない限り、かなりは現代人には受け入れられやすい理論である。 もちろんロールズなので、反転可能性テストは可能。 つまり男女ひっくり返してそれがおかしくないかを検証できる。 (簡易版無知のヴェールだ。 ) ラディカル・フェミニズムはここより一歩進む。 社会全体がそもそも家父長制をベースに男性優位になっており、そこに形式的な平等を導入しても、真の平等にはならないと考える。 そこにおいて女性の自己決定は無意味である。 社会がそれをきれいに搾取していくから。 (上野千鶴子が選挙に行かないとか公言するのも、おそらくこれである。 要は、いまのルールがすでに既得権益側に有利になっているのに、なぜその同じ土俵に登って勝負しなければならないのかってことだ。 ) その解決のため、男女間の「闘争」を起こす一派である。 ラディカルフェミニズムのポルノ廃絶運動するというのもここから生じている。 女性が望んでポルノ業界で働いていても、その自己決定は社会の歪なルールにより、女性は身体的肉体的な被害を被る。 またポルノ自体を容認することは、女性蔑視を再生産することになる。 (つまり、二次元三次元を問わないのである) また反転可能性テストは不可能である。 男性はそもそも抑圧されていないので。 今回、宇崎ちゃんポスターを問題視するのは「ラディカル・フェミニスト」の思想側面を持つ人である。 リベラル側は、男女性差フラットを目指すので、例えば「まぁ…私もいうても献血で堀川国広ポスター貰ったしなぁ。 あれエロいよね」と流す傾向にある。 さてオタク側。 フェミニストの言う「エロ表現の自由戦士」である。 いまtwitterみたらエロ表現の自由の精子とかも言われてた。 ひでぇw 女性蔑視と戦ってきたフェミニストと同じような側面として、オタクも蔑視されてきた歴史を持っている。 何か事件があれば「加害者は〇〇いう暴力ゲームに夢中で」とか「なんか同じように犯罪起こしそうな見た目してる」とか、特に悪いことしていないのに雑なクラスタ分けで迫害されてきていた。 まぁキモいサイドにいるのは自覚的でもあるがそれで直るものでもない。 それゆえ自らの好むものが社会的に「封殺される懸念」というのは、常に怯えてきていた。 (実際いろいろギリギリだった) そして、だからこそ「表現の自由」の恩恵に自覚的であった。 特にエロとかグロは、国家権力が表現の自由へ介入する際の入り口だったため、その規制入り口に、権利の恩恵に自覚的だった者が立っていることは実は意義深いことだったのかもしれない。

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