竹内 まりや もう一度。 竹内まりや『もう一度』

竹内まりやの「駅」の「私」は、最後のLalalaでもう一度電車に乗る|高井浩章|note

竹内 まりや もう一度

Mariya Takeuchi 竹内 まりや(たけうち まりや、〈30年〉 - )は、ので、・、、でもある。 出生名も同じ。 結婚後の本名は 山下 まりや(やました - )。 杵築南(現・大社町杵築南 )出身。 父親は(旅館経営者。 のちには大社町も務めた)。 現在所属するは。 略歴 [ ] 1950年代 [ ] まりやの父は老舗旅館「竹野屋旅館」の4代目であったである。 母は出身で、を目指す大学生であったが、若い頃の父と恋に落ちて学生結婚し、やがて竹野屋旅館のになった。 まりやはそのような夫婦の娘として、2男4女の6人兄弟の三女・第4子として、(昭和30年)に生まれた。 「」節も参照のこと。 まりや以外の兄弟の名前は全員日本的で、3人の姉妹はみな「〇〇子」という名前である。 まりやがただ一人例外になっているのは、1人くらいは自分の好みで名付けたいと思った父が、ならば世界中どこへ行っても呼びやすい名前にしようと考え、「 」から採って「 まりや」と命名した とのことである。 「」節も参照のこと。 父は歌が、母はが上手いという。 1960年代 [ ] (昭和36年)4月1日、のまりやは6歳に成りたてで、地元の大社町立大社小学校(現・出雲市立大社小学校 )に入学する。 (昭和42年)4月(12歳時)、大社町立大社中学校(現・ )へ進学。 1970年代前半 [ ] (昭和45年)4月(15歳時)、 へ進学する。 (昭和46年)、高校2年生の年、父がの町長に就任した。 父はこれより15年に亘って町長を務めることになる。 まりやはと言えば、高校2年生の9月からを控える3年生の8月まで、すなわち1971年(昭和46年)9月から(昭和47年)の8月まで、交換制度を利用して、の () にある四年制公立高校「ロックフォールズ高等学校( ()、) 」で1年間の留学生活を送ることになった。 同校でのは Mako。 活動は部に入った。 初めて本気で男性を好きになったのもこの時期で、告白するも大に終わった。 この時の経験はをテーマにした曲作りに活かされており、失恋の曲などでは同じコーラス部で音楽センスが良く歌の上手かった年下のその男の子の面影を追って書いている、ようなことを言っている。 その後、将来の夫であるに出逢うまでに2人の男性を好きになったことも、この話題のなかでほのめかしている。 帰国してからは大学受験に向けて勉強の日々が始まったが、アメリカでは女子はみな、男子はみなで車を乗り回したりで、一方の日本では黒いに髪という、向こうとこっちで物凄い落差があり、それがまた楽しくもあったという。 (昭和48年)4月(18歳時)、へ進学し、をする。 慶應には、日吉キャンパス を本拠として(昭和37年)に結成された同校公認のオールジャンル・サークル(音楽バンド)「Real McCOYs(リアル・マッコイズ、通称:マッコイ、慶應リアルマッコイズ、:KRM) 」があり、ジャンルを問わずに音楽とライブ等の演奏を楽しむこのサークルに まりやも籍を置いた。 3年生のがリーダーを務めるこのバンドサークルで、竹内はのらとともにバックを担当している。 また、杉の活動をバンド形式でサポートする「PEOPLE(ピープル)」にも参加してとバックコーラスを担当した。 なお、のちに結婚することとなるがと共に結成した「」はこの年の4月から活動しており、大学時代のまりやの一番好きなバンドであった。 当時のまりやはプロのを目指していたわけではなく、将来はのになりたいと思っていた。 しかし、音楽活動に日々入れ込みすぎたため、大学のほうは1年目でのを落としてしまい、早々にしてしまう。 そのようなとき、PEOPLEで活動していてプロの業界人と繋がりができ、歌手にならないかと誘われた。 (昭和49年)9月7日、杉の率いる PEOPLEは第8回関東・甲信越大会()に「踊りに行こう」という曲で出場している。 この大会には、別グループのメンバーとして、(バックレイン元春セクションを率いる)、、桐ヶ谷仁(フェードインを率いる。 のちにが経営するの講師を務める)も出場していた。 このバンドは短い活動期間の後、杉が急病で倒れたために事実上の解散状態になったものの、結成したバンドは解散しないという杉のポリシーの下で一応はその後も存続しており、したがって、杉が活動を続ける限りは竹内まりやもバンドメンバーであり続けている。 このバンドは(平成20年)発表の杉の新作アルバム『魔法の領域』に収録の1曲「僕らの日々」でされた。 (昭和53年)、竹内はより発売された『ロフト・セッションズ 1 』に参加し、「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。 この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」は・オンリーのでされた。 この時、22歳であった。 不在の時期と重なったため、当初はそのルックスも相まってアイドル歌手のような役割を担った。 (昭和54年)8月21日、3枚目のシングル「」を発売する。 この曲はトップ100圏内に半年近くチャートインし続け、同年12月31日に開催されたで新人賞を獲得するに到った。 1980年代前半 [ ] (昭和55年)には、の化粧品のとなったシングル曲「」などがヒットする。 当初は・夫妻やなどが提供する曲を歌っていた竹内であったが、これに飽き足らず、自らも作詞・作曲を手がけるようになった。 ところが、アイドル的活動には大きな不満を持っていた。 心ならずもやのやなどにも引く手数多のアイドル活動をやらされることになった竹内は、歌わせてさえもらえない仕事も数多くこなさざるを得なかった。 この辺りの出来事については「」節で詳説する。 与えられた仕事を懸命にこなしながらも根本的疑問を抱えていたこの時期の竹内の前にアレンジャー()として現れたのが、のちに公私に亘ってパートナーとなるであった。 山下とが率いるや山下のライブをアマチュア時代から見に行っていた竹内は、特に自らのデビューライブの直前に見た山下のライブに大きな衝撃を受けていた。 竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用された山下は、その後、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際して双方がコーラスに起用されるなど、関わりを密にしていった。 アイドル的活動に深く思い悩んで行き詰まった自分に山下は親身になって相談に乗ってくれて、それが結婚に到るきっかけになったと竹内は語る。 二人は次第に懇意になり、やがて山下のマンションでするようになった。 『』の同年放送回に出演した竹内は司会者に問われて山下との交際を認めている(参照)。 なお、竹内の結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、、、()、、、、、、といった作家が提供している。 (昭和56年)、先述したアイドル歌手としてオファーと自身の希望する活動とのギャップに原因するストレスと過酷なスケジュールが祟って竹内は喉を傷めて入院し、音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言した。 (昭和57年)4月、27歳で 山下達郎と結婚する。 これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、に提供した「」「」などヒットを放つ。 しかし同1982年、山下の担当ディレクターがから独立し、を設立すると、山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍する。 竹内は、「記念に一枚」のつもりで、(昭和59年)にシングル「」、そして全曲を竹内自身が作詞・作曲したアルバム『』をリリース。 このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に竹内が書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下が驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。 同作品は最終的に30万枚以上のヒットを記録することになる。 同年、娘が誕生する。 結果としてこの子が山下達郎・まりや夫婦のただ一人の子供となった。 1980年代後半 [ ] (昭和56年)の休養宣言と(昭和57年)4月の結婚をターニングポイントとして、それ以降は家庭を最優先にする生活になったため、ライブ活動からは遠のいた。 しかし、とを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動は続けた。 なお、「元気を出して」は(昭和62年)に竹内がしているほか、カバー(とのいずれか)がとあるいは両地域で2005年までに4度発売されている。 日本におけるセルフ以外のカバーは早くも初年(1984年)に曲を出したや、(平成15年)にカバーしてヒットさせたばかりでなく、多くのカバー曲が生み出されてきた。 この件については当該記事を参照のこと。 1980年代半ばには歌唱力で売るアイドル歌手・のアルバム『』のためにテーマに副った楽曲群を提供し、アルバムは(昭和61年)に発売された。 男女の道ならぬ恋を竹内が題材にし始めたのには、この作品群を手掛けたことが大きかったという。 これ以降、竹内はの何気ない日常に焦点を当てた歌や、道ならぬ恋を題材にした曲を数多く世に送り出していった。 これらは高評価を得、竹内の音楽世界のパブリックイメージの一つとして定着する。 『REQUEST』は3年間のロングセールスを記録する。 (平成元年)9月、『』の8代目主題歌であった「」が発売され、ロング・ヒット曲となった。 1990年代 [ ] (平成2年)9月、『火曜サスペンス劇場』の9代目主題歌「」が発売され、これもヒットする。 (平成4年)5月、「」がヒット。 同年10月に発売されたアルバム『』は、発売と同時にミリオン・セラーとなった。 (平成6年)5月、「」を発売。 竹内まりや最大のヒット曲(シングル売上ランキング第1位曲)となった。 同年7月に発売されたベスト・アルバム『』は売上枚数300万を超えるヒットを記録する。 (平成7年)11月発売のシングル曲でのキャンペーン用CMソングとして使用された「」では、当時たまたま観ていた系ドラマ『』に触発され、歌詞に「キムタク」のフレーズを入れたことから、・の起用をへ打診したところ、駄目元のチャレンジであったにもかかわらず快諾を得、コーラスと冒頭、間奏の台詞に木村が参加している。 (平成9年)には、人気アイドルが歌手としてデビューするに当たってシングル曲「」を提供し、これもヒットした。 眩いほどの希望に溢れた少女の心情を爽やかに謳った曲で、先述した大人の道ならぬ恋の歌を生み出す竹内の振り幅の大きさを改めて示す作品になった。 全体的には、1990年代の竹内は、縁故のあるミュージシャンのライブにサプライズゲストとして登場し、洋楽カバーを数曲ばかり歌うことはあっても 、表立ってライブ活動を再開したりはしなかった。 2000年代 [ ] (平成12年)7月、約18年ぶりの本格的なライブを東京(11日、12日)と大阪(31日)で行う。 (平成16年)には山下のシングル「忘れないで」の作詞を担当など、音楽活動を着実に増やし続けていた。 (平成18年)になると、子育てが一段落したことにより、新譜リリースを精力的に行うようになる。 この頃(50歳ごろ)からは、歌手として曲を提供されて歌っていた当時のことも思い出して、他人の作った曲も積極的に歌ってゆこう考えるようになった。 (平成19年)には、6年ぶりの『』を発表した。 この作品でもオリコンチャート第1位を獲得し、健在ぶりを証明してみせた。 同年8月に発売したシングル「」には、のがゲストボーカルとして参加している。 続く(平成20年)5月のシングル「」では 、この曲が主題歌となった系ドラマ『』の主演女優・が竹内たっての希望でコーラスに参加し、にも出演した。 デビュー30年を迎えるこの年の9月には、竹内の曲のみで構成された『』が主演で初演された。 同には、今までの発表曲を集大成したCD3枚組(初回のみボーナスディスク入りの4枚組)のベストアルバム『』が発売された。 このベストアルバムの選曲にあたり、公式サイトで楽曲のファン投票を行い、NHK『』1周年記念特別番組にて発表している。 には、東京国際フォーラムで開かれた作・編曲家 の活動35周年記念のコンサートにサプライズゲストとして登場し、林が手がけた「September」「象牙海岸」の2曲を生披露した。 、で開かれた夫・山下達郎のフェスティバルホール最後の公演に、「私もフェスティバルホールにさよならをさせて欲しい」との意向でアンコールのサプライズゲストとして出演し、「人生の扉」「September」を披露したのに加えて、ダブルアンコールでは山下とのデュエットで「」を披露した。 (平成21年)、山下のコンサートツアー東京最終公演(追加公演を除く)にあたる中野サンプラザホールの公演にも、アンコールのサプライズゲストとして出演し、「September」を披露したうえで残り2曲のコーラス隊にも参加した。 2010年代前半 [ ] (平成22年)に北海道で行われた野外フェス『 2010 in EZO』に山下が出演した際、バックコーラスの一人として全曲に参加。 同年、10年ぶりの本格的なライブである『souvenir again』()の初日にピアノ弾き語りで「」を披露した。 (平成24年)、結婚30周年()を迎えた。 同年9月2日、『』に山下が出演した際、スペシャルゲストとして登場し、「家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)」「元気を出して」を披露した。 (平成25年)には出身地のからの依頼を受け、の60年に一度のが斎行されるこの年に、故郷への想いを歌った楽曲『愛しきわが出雲』を書き下ろし、同年8月に提供した。 出雲の市民コーラス隊と共に、地元でレコーディングしたには、デビュー35周年の記念企画として「リンダ」、「」、「」など他のアーティストへの提供楽曲を集めた2枚組『』を発売。 自ら監修・選曲を手がけ、楽曲解説も自ら執筆。 初回限定盤には自身が歌った提供楽曲のデモバージョンなどのレア音源も収録された。 (平成26年)、7月デビュー35周年アニバーサリイヤーを飾るシングル「静かな伝説(レジェンド)」リリース。 竹内自身の発案で桑田佳祐、原由子をコーラスに迎え、山下達郎も加えた4人での楽曲制作が「蒼氓」以来26年ぶりに実現した。 同年9月、7年ぶりのアルバム『』をリリース。 オリコンチャート2週連続で1位獲得。 第56回日本レコード大賞「最優秀アルバム賞」を受賞した。 また、同年11月から12月にかけて1981年以来33年ぶりに6都市9公演の全国ツアーも行う。 同年11月19日、ムーン移籍後最初のアルバムである『』の30周年記念盤をリリース。 2010年代後半 [ ] (平成27年)3月、出雲市から特別功労者として表彰を受ける。 市に楽曲『愛しきわが出雲』を提供するなどしたことで地域への愛着醸成に貢献した功績による受賞であった。 同年5月、第6回を受賞。 (平成27年)2月、嵐のニューシングル「復活LOVE」の作詞を手掛ける。 作曲・編曲は山下達郎。 同年4月、テレビ東京系列経済ニュース番組「ワールドビジネスサテライト」のエンディングテーマを書き下ろす。 2017年3月までの1年間放送。 また、この年には実家の「竹野屋旅館」の経営が寸前にまで悪化し、地元で親族会議が毎週のように開かれる事態になり、達郎・まりや夫婦も参加していた。 旅館は親族一同からの経済支援を受けて存続する運びとなり、同年8月、大掛かりな改装が始まった。 改装費用のほとんどをまりやが買って出ることでそれは実現した。 そして、この時点でまりや(実名:山下まりや)が事実上のオーナーになった。 この件については参照。 (平成28年)7月15日には第三者の手でにの曲「」(プラスティック・ラブ)がされ、作品リリースの無い海外でも視聴され始める。 同年11月22日には『REQUEST』の30周年記念盤をリリースしている。 (平成29年)、デビュー40周年を迎える。 この年、上述した「PLASTIC LOVE」の動画再生回数が2400万回以上という驚異的な伸びを見せ、大きな話題となった。 それがこのブームの本流の動きであった。 往時の竹内まりやはシティーポップの第一人者というわけではなかったが、2017年発のブームの下では係る音楽ジャンルを代表する楽曲および人物と捉えられるまでになった。 火付け役となったYouTubeには数多くのシティーポップ集がアップロードされるが、「PLASTIC LOVE」と竹内まりやはその種のでは定番中の定番となった。 詳細は「」を参照 同年には、デビュー40周年を記念してシングル「小さな願い/今を生きよう」をリリースし、には初のファンミーティングを開催している。 からはデビューアルバム『BEGINNING』の40周年記念リマスター盤が発売されたことを皮切りに、RCA/RVC時代のカタログが最新リマスターとボーナストラック付きで順次発売された。 (平成31年)3月、(大衆芸能部門)を受賞。 39年ぶりにNHKスタジオにて歌唱。 映画『』(監督)にて日本版エンディングソング『ベイビー・マイン』を歌唱。 同年5月、「関ジャム完全燃SHOW(テレビ朝日系列)にて竹内まりや特集がオンエア。 同2019年(令和元年)9月、40周年記念アルバム『Turntable』をリリース。 オリコンチャート1位を記録し、これにより「昭和・平成・令和3時代で1位を獲得した初の女性アーティスト」となると同時に、「女性最年長1位獲得アーティスト」(64歳6ヶ月)となった。 10月、映画「最高の人生の見つけ方」(犬童一心監督・吉永小百合・天海祐希共演)主題歌「旅のつづき」を書き下ろし、シングル・リリースする。 11月、『第61回輝く! 日本レコード大賞』にて「特別賞」を受賞。 2020年代 [ ] (令和2年)1月1日発売の「いのちの歌」(スペシャル・エディション)が13日付オリコン週間シングルランキングで第1位獲得。 64歳10か月での1位獲得は歴代最年長記録となった。 これにより、「カムフラージュ」以来21年1か月ぶりの1位インターバル記録を樹立した。 公演は3番目のとして出演。 約1時間半の公演時間で14曲を歌唱した。 山下達郎もバックメンバーとして参加し 、最後には二人のデュエット曲「」も披露している。 この模様は『Souvenir〜Mariya Takeuchi Live』としてアルバム化された。 これ以降も、(平成19年)10月13日に開催された、などが出演した野外ライブ『風に吹かれて』で、シークレットゲストとしてサプライズ登場し、「」を、などの出演者とともに披露し 、また、長年の音楽仲間であるセンチメンタル・シティ・ロマンスのコンサートのサプライズゲストで持ち歌を披露するなど、必ずしもライブに否定的ではなく、竹内本人も(平成21年)以降のライブ活動に対して意欲を見せていた。 また、同2008年12月5日に厚木市民文化会館で行われた夫・山下達郎のコンサートで、「まりやのコンサートもこのメンバーでやる」との山下の発言があり、ライブへの本格復帰が期待されていたが、その年に実現することは無かった。 その後、(平成22年)8月29日にゲスト出演したラジオ番組『』と公式サイトにおいて、12月3日・4日の日本武道館と12月21日・22日の大阪城ホールで、10年ぶりの本格的ライブである『souvenir again』を行うと発表した。 このコンサートのライブ音源の一部は前述した番組の(平成23年)2月27日放送回で「夫婦放談番外編」として披露されている。 (平成26年)には、11月22日から12月21日にかけて、33年ぶりとなる全国ツアー『souvenir 2014』を全国6都市で9公演を行った。 (平成30年)には、デビュー40周年を記念して過去3度に亘って開催されたコンサートの模様を『souvenir the movie~Mariya Takeuchi Theater Live~』と題し、の配給で映画館上映された。 2018年11月23日公開。 上映時間 94分。 好評を博したことにより、(平成31年)5月17日から2週間、全国8都市・8劇場でアンコール上映された。 加えて、同作品は内容などが評価され、平成30年度(第69回)芸術選奨 (大衆芸能部門)を受賞した。 また、アンコール上映の際は、2012年に公開されて話題を呼んだ山下達郎の『山下達郎シアター・ライヴ PERFORMANCE 1984-2012』も同時アンコール上映された。 (共演:)、(共演:松たか子、コブクロ、、)を披露した。 ゲスト出演 作曲家35周年記念 スペシャルサンクスコンサート ~Hit Song File 1か所、1公演 林哲司の記念コンサートに、シークレットゲストとして出演。 林が作曲した、を披露した。 2008年 - ゲスト出演 山下達郎 PERFORMANCE 2008-2009 2か所、2公演 2008年 2009年 山下達郎のフェスティバルホール解体前の最終公演に「私も、フェスティバルホールに、さよならを言わせて欲しい」との意向で、アンコールにゲスト出演。 、、ダブルアンコールでは、山下と共にを披露した。 またツアー最終公演となる中野公演では、アンコールにを披露した。 ジョイントライブ 1か所、2公演 ・ 日本武道館 10月31日に出演することが発表され、「元気を出して」、「人生の扉」を披露。 30日は山下達郎とサプライズ出演し、「レット・イット・ビー・ミー」を披露した。 ゲスト出演 山下達郎 PERFORMANCE 2013 1か所、1公演 中野サンプラザ 山下達郎のライブアンコールに、サプライズ出演。 山下と共に「レット・イット・ビー・ミー」を披露した。 ゲスト出演 SPACE SHOWER TV 25TH ANNIVERSARY SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2014 1か所、1公演 山中湖交流プラザきらら 山下達郎が出演した夏フェス「SWEET LOVE SHOWER 2014」に、サプライズ出演し、「PLASTIC LOVE」を披露した。 ファンミーティング MARIYA TAKEUCHI ファンミーティング(プレミアム・ミニライブ&トーク) 2か所、3公演 竹内まりやデビュー40周年を記念し、シングル「」と、シアターライブ「souvenir the movie 〜 MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜」のムビチケカードの両方を購入した応募者の中から、抽選で2,500人を招待した初のファンミーティング。 人物 [ ] 名義 [ ] 出生名は 竹内 まりや。 プロのとしての名義は、ごく一部の例外を除き、出生名と同じである。 結婚後の本名は 山下 まりや - であるが、公言されることはほとんど無い。 公言した例として挙げられるのは、『』の2013年(平成25年)7月10日放送回にゲスト出演した際のやり取りで、家庭での様子を尋ねられる場面で、から「食事は、竹内まりやさんから?」と話を持ち掛けられ、「(家族といるときは)山下まりやです」と答えている。 アマチュア時代の名義は 竹内 マリヤ であった? 当時のは(昭和53年)に作品化されており、そこでは当時の名義が用いられている。 しらさやえみ()のセカンドシングル「君のそばに~song for Lucky」(〈平成9年〉11月21日発売)では MAKO 名義で作詞している。 この曲は別の歌手に提供するために作曲を担当したと共作したもので、しかし使われることなくお蔵入りしていたのを、白鞘が気に入ってシングル化したという経緯がある。 Mako という名前は留学していたアメリカの公立高校でのニックネームと同じである( cf. 『』の「」(〈平成20年〉9月29日放映開始)は、放映開始時点で無かった歌詞が途中回から付くようになった。 その作詞はこの番組の主題歌とを担当していた竹内まりやが Miyabi 名義で書いたものであった。 この事実は(平成22年)12月4日のライブで明かされている cf. まりや [ ] まりやが子供の頃、当時としては極めて珍しい名前であった。 芸能界に入った時も同じで、変な名前だと言われた。 しかし、竹内まりやが人気のある著名人になったことで「まりや」と名付けられる子供が増え、それほど珍しくない名前になっていったといわれている。 下の世代での「まりや」の例として、竹内まりやは「」「」「」の3名を挙げている。 なかでも山田まりやは、父親だったか母親だったかが私・竹内まりやのファンであったことから名付けられたのだと述べている。 曲作り [ ] (平成26年)におけるの「竹内まりや スペシャルサイト」では、の際はまたはを使う と言っている。 しかし、実際のところ、ピアノはめったに使わない らしい。 夫・は自宅の地下に専用の音楽室を持っていて、そこで曲作りをするが、まりやにそういったものは無く、大抵はダイニングテーブルの上でミニキーボードを使って作る。 シングル曲「」を書いたときは、まだ娘がだったので、寝かしつけた後で起こさないよう辺りへ移動しては小さな音で作っていたが、すぐに目を醒ましてしまうため、行ったり来たりを繰り返していたという。 しかし、曲が書けなくなるとや業に逃げ、子育てや主婦業で煮詰まると曲作りに逃げることができたため、上手くバランスが取れていて楽しかったと振り返る。 ファンがもどかしく感じるくらい新作アルバムの発表が遅いのは、アルバムのと()を全て達郎が担当しているため、コンサートツアーやアルバム製作など自身の活動で忙しい彼の体が空いたタイミングを見計らって「そろそろこれやりたいんですけど」と言ってを渡し、1曲ずつレコーディングする都合上(しかも、途中でツアーなどが始まって中断することもある)、アルバム分の曲数が溜まるのに何年もかかるからだという。 シンガーソング専業主婦 [ ] 「シンガーソング」とも呼ばれる ようになったのは、夫の山下達郎がそのように名付けたからで、業をこなしつつ在宅のまま音楽活動を続けていたことによる。 竹内は在宅のままでの主婦と音楽活動の兼業によって「作家的視点が養われた」と語っている。 影響を受けた音楽 [ ] 音楽的な原点は、のやなどのの作品を、や、など歌手が訳詞して歌っていたである。 しかし、何と言っても人生で最も大きな影響を受けたのはであった。 (昭和59年)発売のアルバム『』( のちの別表記:ヴァラエティ)の収録曲でもされた「」は、彼らへの想いを表したソングになっており、少女だったあの頃は話している言葉も分からないのに夢中で追いかけていたと謳っている。 また、大学時代には、などのシンガーソングライター、、、などを好んで聴いていた。 ライブをやらない理由 [ ] をやらない理由については、基本的に「子育てや家庭を優先するため」と語っており、夫・山下達郎から制限を受けていたり、遠慮・気遣いがあってのことではないと明言している。 実際、子育てが落ち着いた(平成12年)以降には、「souvenir」(2000年、 東京・大阪)、「souvenir again」(、 東京・大阪)、「souvenir 2014」(、 東京・大阪・札幌・仙台・広島・福岡)と銘打ったライブを行っている。 とは言え、(平成25年)のインタビューでは、で歌うよりもで緻密に音楽作りをするほうが好きだと述べている。 アイドル的活動 [ ] (昭和55年)、山下達郎とまだ出逢っていない頃(あるいは、まだ密に逢うようにはなっていない頃)の竹内は、不本意な的活動を強いられてを募らせる日々を送っていた。 が引退し、とはデビューしたばかりという、この頃はわずかに生まれた隙間のようにアイドルが不在の時期で、竹内は自分と同じような境遇に置かれた歌手としてと越美晴(のちの)を挙げている。 なお、歌手としての竹内まりやを高く評価し、彼女がアイドル扱いされているのを批判的に見ているファンも、当時から既にいるにはいた。 (昭和54年)放送の(スポーツ)『第16回 』に RCAレーベルの代表の一人 として駆り出された時は、出るからには精いっぱい頑張ってで第2位になったものの 、帰宅して冷静になってからで振り返っていると、「一日何も歌わせてもらえずに私は何をしていたんだろう」と酷く悲しい気持ちになった。 また、1980年7月21日に発売される5作目のシングル曲「」を歌う予定でのバラエティ番組『』に出演した竹内は、大口コンテストというコーナーで天突き棒を使って一般人男性の口の中に大量のを押し出す役を急遽させられる。 男の子の口の中にところてんを押し込みながら、「私、何してるんだろう。 」「私の人生、こんなことでいいのだろうか。 」と疑問が湧き上がってきたという。 そのようなことを何度も経験していた。 やや冗談めかしてではあるが、この頃の思いがになっていて、何十年経ってもバラエティ番組には出演できないと語る。 「とで、をする私」の撮影とか、「お部屋でトーストをかじる私」のとか、そういった仕事にも戸惑いばかりを抱いていた。 後述してもいるが、音楽界の頼れるであった達郎にもこの件でよく相談に乗ってもらっていた。 達郎もその先に君が望むような未来は無いと言っていた。 そのようなこともあって、まりやはへの出演を段階的に減らしていったが、踏ん切りを付けることはできないで活動し続けていたところ、いつものように出掛けようとしたある日の朝、急に涙が溢れてきて、そして声が出なくなってしまった。 を傷めたとも言っており 、とにかく入院する事態に陥ったことから、これを機に考えを切り替え、まりやは一旦芸能活動をリセットした。 そうして、結婚相手と決めた達郎を支える伴侶としての自分を第一とし 、楽曲は提供する側に回って自分に合ったペースで手掛けてゆくことにした。 つまり、ここから「」へと道を切り拓いていった。 楽曲を提供する側になったまりやにとっては、アイドル的活動を通して経験した悲喜こもごもは大きな財産になった。 作曲者およびとしての竹内まりやには、アイドルへの深いシンパシーとリスペクトがあり、それが数々のヒット曲をアイドル歌手に提供できる素地になっている。 達郎とのこと [ ] 第一印象は互いに良くなかったという。 達郎はまりやのことを、何だかちゃらちゃらした軽薄な女子大生みたいだと思ったらしい。 まりやはまりやで、達郎の無愛想な態度を冷たく感じたという。 その出逢いというのは、よく言われている(昭和55年)ではなく、もっと前かも知れない。 それと言うのも、結婚したのは「出逢ってから7、8年後」だと竹内本人が言っている からで、出逢いが1980年では結婚まで2年しか時間が無いのである。 それはともかくとして、仕事上の密な付き合いはRCAレーベルに所属するという関係で 、(昭和54年)の下半期か、遅くとも1980年の前期前半に始まっている。 互いに話してみると第一印象とは違って、考え方がよく理解でき、フィーリングがよく合うと気付いた二人であった。 当初、まりやにとっての達郎は、音楽を音楽としてやっていきたいのにやらせてもらえない自分がこれからどうしたらいいのか相談したい、そのような頼り甲斐のある先輩であった。 また、仕事と音楽に対する誠実さを知ることで、特別な存在へと変わっていった。 具体的には、(『』のレコーディングの少し後の仕事として、)に提供するシングル曲「リンダ」(4月発売)を製作している時、仕事が立て込んでいたにもかかわらず、合間を縫ってひとり徹夜でに取り組んでくれていたのを目にした時が、気持ちの切り替わった瞬間であったという。 の『』の1980年放送回にシングル曲「」で出演した竹内は、歌唱後に司会のとに詰め寄られた。 既に双方の親に報告していたし、隠す必要も無かったので、「(噂どおり、山下達郎さんと)お付き合いしています」と答え、交際宣言をした。 結婚に際して達郎からのの言葉は「結婚しようか」の一言くらいで、特別なことは無かったという。 まりやは夫のことを表立っては「 達郎」と呼んでいる。 ほかに、砕けた場面では「 たっつぁん(達っつぁん)」と呼ぶことも多い。 これは、上述したアン・ルイスが「リンダ」を製作していた時に呼び始めたもので、それを気に入ってまりやも使いだしたのが始まりであった。 『』「納涼夫婦放談 Part2」(SSB 1401。 2019年〈令和元年〉8月25日放送)で夫婦共演した際、達郎は「周りに人が多いと『たっつぁん』になる」と分析してみせたが、まりやは特に法則は無いと答えた。 もっとも、家での呼び名は全然違っていて、それは秘密だと言う。 少なくとも「たっちー」ではない とのこと。 まりやの楽曲で達郎が一番好きなのは「」だという。 二人とも話すのが大好きな性格なので、二人で家にいる時は音楽のことや雑多な日々の事柄などを一日中しゃべっている。 達郎がを飲まない人なので、山下家では大体を飲んでいる。 家族 [ ] (平成25年)ので語ったところによれば、夫・山下達郎と娘と、ずっと3人で暮らしている。 それと、を1匹飼っている(2013年頃は)。 娘は、中学・高校ではに入って音楽活動をしていたが、社会人になってからはあくまで趣味として楽しんでいて、それに、音楽よりのほうが好きだという。 娘が小学生・中学生の頃は活動も普通にやっており、山下達郎・竹内まりや夫妻と・夫妻が出揃う場面もあったという。 竹野屋 [ ] 「竹野屋(たけのや)」はで、旅館の名前は「竹野屋旅館」という。 (明治10年)の創業時からずっと現在の場所にある。 「」は竹野屋の当主が代々してきたで、まりやの父親は「四代目当主」として「四代目竹内繁蔵」を名乗った。 まりやが高校2年生になった年から、を15年に亘って務めた人物でもある。 (昭和26年)からはまりやの兄である長男・が後を継いだが 、接客業に全く向かないこの五代目の下で旅館の質も評判も低下し、経営は傾いていった。 (平成29年)2月には 、まりやの長姉の娘婿・が 新社長に就任している。 ただし、前年に廃業案と売却案が取り沙汰される事態となり、親族の経済支援で何とか持ち堪えたというのが実際で 、特にまりやは施設改装費用のほとんどを請け負った。 それによって事実上のになったまりやは、しばらくは経営に直接関わらざるを得ず、忙殺されて音楽活動に全く携われなくなっていた。 さらには同年10月、旅館は総・ と宿泊支配人を外部から迎え 、入れ替わる形で前社長は辞任・退社した。 新体制が整うのを見届けて、まりやはようやく仕事に復帰することができた。 当該記事「竹内繁蔵」の「」以降では、まりやがそこまでして実家を支援した理由や、山下達郎と所属事務所社長・の反応なども含め、詳しく解説している。 (平成26年)発売のアルバム『』のの写真は、竹野屋旅館の階段で撮影したものであり、今では現場に案内版が設置されている。 館内には、「」の曲名と歌詞および「愛しきわが出雲」の歌詞を表した(作品)が展示されているが、これらは母親の手になる達筆で本格的な作品である。 1~フィーチャーリング・フィメール・ヴォーカリスツ」 3月 8分音符の詩(作詞:/作曲:/編曲:) Various Artists「ロフト・セッションズ VOL. 『グランデーヌ ルクサージュ』CMソング たそがれダイアリー テレビ朝日系ドラマ『』主題歌 Dear Angie〜あなたは負けない TBS系『』エンディングテーマ(2013年度 - ) Your Eyes TBS系ドラマ『』主題歌 静かな伝説(レジェンド) フジテレビ系『』エンディングテーマ アロハ式恋愛指南 映画『』主題歌 PLASTIC LOVE 開局15周年記念特別ドラマ『』主題歌 Let It Be Me フジテレビ系ドラマ『』劇中歌 今日の想い 系『(WBS)』エンディングテーマ 小さな願い 映画『』主題歌 今を生きよう Seize the Day NHK『』主題歌 旅のつづき 映画『』主題歌 受賞歴 [ ]• 1998年(平成10年) - 第19回 主題歌賞(『カムフラージュ』、ドラマ『』主題歌)• 2015年(平成27年)• 第7回CDショップ大賞「マエストロ賞」• 特別功労者として出雲市より表彰• 第6回岩谷時子賞• 第69回芸術選奨 文部科学大臣賞(大衆芸能部門• 「みんなのハッピーバースデイ」• 「」(作詞のみ)• アンジュネッツ「LOVE GAME」• 「パジャマ・パーティ」• ・・「うわさのSUPER GIRL」(作詞のみ)• 「恋人たち」• 愛しきわが出雲市民合唱団、岩谷ホタル『愛しきわが出雲』• 「My Darling」(作曲のみ)• KINYA「涙のデイト」「夏の記憶」• 「Sweet Rain」「Heart Beat」• 「イブの告白」(作詞のみ)• 「目抜き通りの6月」(作詞のみ)• JIVE「Smile Again」(作曲のみ)• 「僕達の日々」(作詞のみ)• 「Guilty」(作詞のみ)「Misty Mauve」(作詞のみ)• 「」(日本語詞)• 「今夜だけナルシスト」(作詞のみ)• 「You&I」(作詞のみ)• 「浮気なルナ」• 「」「新しい朝」• 「」「公園通りの日曜日」「遥か1000マイルの彼方」(作詞のみ)• 「らせん階段」「55ページの悲しみ」• 「Subject: さようなら」• 「5月生まれ」「AFTER SCHOOL」• 「Whisky Boy」(作詞のみ)「想いは風に」(補作詞)「幻影(イリュージョン)」(作詞のみ)「ニコニコ・ワイン」(作詞のみ)「SEE YOU AGAIN」(作詞のみ)• 「月夜のタンゴ」(作詞のみ)「残り香」(作詞のみ)• 「寒い夏」(作詞のみ)「Mighty Smile(魔法の微笑み)」(作詞のみ)「忘れないで」(作詞のみ) メディア出演 [ ] デビュー直後は数多くのやその他様々なジャンルの番組に出演していたが、(昭和56年)に活動を一時休止した後はメディア露出が非常に少なくなった。 ただ、夫・と異なり、やでは顔を見せている。 ラジオ [ ]• 『Pom Pop White Pop』(文化放送• 『竹内まりやのおしゃれフロック』(文化放送:1981年まで約1年間)平日深夜24時代に帯番組で放送。 『』(系列):毎年8月・12月の後半に2週連続で出演。 「夫婦放談」と称し、夫婦ならではの喋りを披露している。 現時点で唯一のレギュラー出演番組といえる。 テレビ [ ]• 『』(1978年12月11日、1979年9月3日、1980年1月28日・3月3日・ ・9月1日・12月8日、)• 『』(1979年1月22日、)• 『』(1979年2月22日、1979年9月6日・11月29日、1980年3月27日、)• 『』(1979年6月17日・11月11日、1980年3月9日、NHK総合)• 『』(1979年9月3日、)• 『』(1979年9月25日、)• 『』(1979年10月8日)• 『』(1979年10月11日)• 『』(1979年10月24日)• 『第10回』(1979年11月23日、)• 『』(1979年11月29日、フジテレビ)• 『第8回』(1979年12月18日、フジテレビ)• 『』(1979年12月26日、NHK総合)• 『』(1979年12月31日、TBS)• 『スーパージャム'79-'80』(1979年12月31日、フジテレビ)• 『』(1980年3月20日 - 5月15日、1989年9月28日〈電話の声のみ出演〉、TBS)• 『なつかしのヒットポップス』(1980年6月7日、NHK総合)• 『』(1980年10月4日 - 1981年3月27日、フジテレビ) - と司会を担当。 『』(1980年6月17日・9月16日、1981年2月17日・10月15日、2019年8月17日、フジテレビ) - ・・・・と共演。 『』(1981年4月2日、NHK総合)• 『』(1993年12月31日(電話の声のみ出演。 同時にアルバム『』がこの年のベストアルバム賞を受賞し、この日のために制作された「」の歌唱シーンをフルサイズで収録したビデオクリップが放送された。 このビデオクリップがフルサイズで放送されたのは、この時ただ一度だけである。 『』第1回 ・第42回(2007年4月11日・2008年4月2日、NHK総合)• 『』(2008年6月20日、TBS) - 最終回ゲスト• 『』(2008年9月29日 - 2009年3月28日、NHK総合) - ナレーション• (2019年5月12日、テレビ朝日) - スチール写真のみ出演。 (番組独占インタビューを行い、インタビュー時のスチール写真に合わせて、テレビ朝日アナウンサーのがインタビュー内容を話すという形で出演した。 (2019年12月31日、NHK総合) - 特別企画で初出場 自著 [ ]• 竹内まりや『』、1980年5月1日、192頁。 :、:。 竹内まりや『インプレッションズ』、1994年10月1日、173頁。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 公式ウェブサイトの「ロビー」の項にも「実家」であることが明記されている• グループ化しただけであるため、現存する。 東京都港区元赤坂に所在するミュージック・ハーヴェスト(法人番号:401040106312)とは別の企業。 有限会社ミュージック・ハーヴェストも、山下側の企業「株式会社テンダベリーミュージック Tenderberry Music Inc. 」も、楽曲の管理を主目的とする。 検索キーワード[安住紳一郎の日曜天国 2013. 07特別編「竹内まりあさん」])。 姉が2人、兄が1人(5代目当主の信夫)、弟が1人、末っ子の妹が1人。 まりやは第4子。 竹内まりやの本項におけるは、 保護者がいる年齢では「まりや」を、 親族の話題でも「まりや」を用いることとする。 それ以外は「竹内」を用いる。 同期留学生には、のちに国際となるがいた。 専攻は異なるも同じ文学部の同期生にはでの(歌手・の長男)がいる。 豊和は一時期歌手活動も行っており、竹内とも共演している。 のちにまりやの夫となるは三波春夫のファンで、洋楽の傍ら「」もよく歌っているという。 最終的に大学をするが、その時期については情報未確認である。 『』での「」の曲解説によれば、「本人はあくまでもアンチ派」であるとのこと。 ライブ・アルバム『』に収録されている。 投票結果は『』を参照のこと。 東京都にあるCT102スタジオからの歌唱。 山下はライブ会場としては日本武道館を否定的に捉えているため、自身のライブで使用することはない。 竹内の野外ライブへの出演は27年ぶりのことで、このライブの模様は(平成20年)4月9日の『』にてフルサイズで放送された。 2008年11月27日のNHK『』でのインタビュー。 『』2013年7月10日放送回( cf. 動画検索キーワード[安住紳一郎の日曜天国 2013. 07特別編「竹内まりあさん」])• ニッポン放送『』( cf. 動画検索キーワード[竹内まりや&吉田拓郎、「夫婦円満」は語りすぎて喉がかれる!])• 1999年6月2日再発。 6枚目のアルバム『』からので、した2曲を収録した12インチ・シングル仕様。 1989年(平成元年)9月10日シングルとしての「夢の続き」は再発売であるが、ミックスとカップリングを変更している。 再発盤のタイトルは「夢の続き '89 Remix 」。 この回の歌い終えた直後に、噂されていたとの交際を自ら認めた(参照)。 Googleマップ• 竹内まりや 公式ウェブサイト. 2020年7月8日閲覧。 2020年7月8日閲覧。 公式ウェブサイト. 竹野屋旅館. 2020年7月8日閲覧。 西日本のすてきな宿「高枕」. オフィスガンボ. 2020年7月8日閲覧。 奥には、歌手・竹内まりやの実家のため、グッズコーナーを設けております。 2020年7月10日閲覧。 竹野屋旅館. 2020年7月8日閲覧。 Mapion電話帳. 2020年7月8日閲覧。 Zink Media, Inc.. 2020年7月8日閲覧。 [ ]• on the WEB. 2020年7月10日閲覧。 2020年7月10日閲覧。 公式ウェブサイト. miyearnZZ Labo. 2020年7月14日閲覧。 Smart FLASH. 2019年9月11日. 2020年7月14日閲覧。 Reddit Inc.. 2020年1月21日閲覧。 三波豊和の『こんな話あんな話』 2011年3月2日. 2013年12月24日閲覧。 公式ウェブサイト. (慶應義塾大学)塾生情報局 2019年3月23日. 2020年7月17日閲覧。 131, アーティスト 1 :慶應で才能を開花させた竹内まりやら女性アーティストたち• 2020年7月17日閲覧。 vingt et un. 株式会社ヴァンテアンコーポレーション 2019年8月30日. 2020年7月17日閲覧。 MASAMICHI SUGI OFFICIAL SITE. 杉真理. 2020年7月16日閲覧。 Zink Media, Inc.. 2020年7月16日閲覧。 , pp. 103, 108, 「竹内まりやインタビュー」内. 動画検索キーワード[竹内まりや&吉田拓郎、「夫婦円満」は語りすぎて喉がかれる!])• [ ]• 村松崇継 2010年12月5日. 公式ブログ. 作曲家 ピアニスト 村松崇継の独り言. 2020年7月8日閲覧。 実は この、いのちの歌 僕、村松崇継が作曲。 2010年12月23日. 公式ブログ. 三倉茉奈の マイペースで行こう!. 2020年7月8日閲覧。 公式ウェブサイト. 出雲市. 2020年7月8日閲覧。 出雲観光ガイド. 出雲観光協会 2013年8月1日. 2020年7月8日閲覧。 スポーツ報知 報知新聞社. 2013年9月24日. 2013年10月6日閲覧。 [ ]• 「」『ORICON NEWS』株式会社、2015年5月27日。 2015年5月27日閲覧。 天野龍太郎 2019年1月24日. 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もう一度 歌詞「竹内まりや」ふりがな付|歌詞検索サイト【UtaTen】

竹内 まりや もう一度

「くれない族の反乱」です。 1984年4月から、TBS系列で金曜日に放送されています。 大原麗子主演の、当時流行語となった「くれない族」という主婦をテーマにしたドラマでした。 ドラマ最終回のタイトルも、「もう一度」であり、ドラマのために作られた曲という印象がありますね。 物悲しい、切ない歌詞が多い曲ですが、それでも前向きに「もう一度」と思える名曲です。 南果歩主演、定年を向けた女性のセカンドライフを描いたドラマです。 再スタートを切る女性、という点で「くれない族の反乱」と共通点がありますね。 竹内まりや「もう一度」の販売実績は? この「もう一度」は、 結婚・出産で歌手としての活動を休止していた竹内まりやにとって復帰作となります。 作詞作曲活動はしていましたが、自らが歌うシングルとしては、実に2年半ぶりの作品になりました。 セールスとしては、オリコン20位と、決して大ヒットしたという曲ではありません。 1980年に大ヒットを飛ばした「不思議なピーチパイ」と比べると、知名度も低いでしょう。 しかし、竹内まりやの曲のすごいところは、年月が経ってから再評価されることが多いところ。

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竹内 まりや もう一度

こんにちは、きゅーです。 今回は 竹内まりやさんのドラマ主題歌をみていこうと思います。 2014年に発売されたアルバム『 TRAD』がオリコン1位を獲得し、4年代に渡り、アルバム1位を獲得しました。 1980年代が「LOVE SONGS」と「Variety」、1990年代が「Quiet Life」、2000年代が「Bon Appetit!」と「Denin」、そして2010年代、『TRAD』。 世代問わず支持され続けている竹内まりやさん。 長きにわたりシンガーソング専業主婦を自称してきた彼女の楽曲を、 ドラマ主題歌の方面から改めてお楽しみください。 笑 さて、 竹内まりやのドラマ主題歌は何曲あると思いますか? 始めます。 1978年11月25日にデビューシングル「 戻っておいで・私の時間」、 1stアルバム『 BEGINNING』が発売。 他、ベストアルバム等あり。 2019年8月には40周年記念アルバム『 Turntable』が発売! まとめ いかがでしたか。 竹内まりやさんの連続ドラマ主題歌を紹介してきました。 視聴率ランキングと主題歌リスト合計すると 2019年6月時点で 19曲でした。 『もう一度』は2度使われているので、 一応20作品19曲という形にしておきました。 この曲は最初にドラマ主題歌として使われた時から 約33年後に再び同様に使用されています。 そして2019年、橋本環奈さん主演のAbemaTVのドラマ。 主題歌に使われた曲は1991年に牧瀬里穂さんに提供したものです。 むかしの曲の評価が最近になり再び上がってきているのがわかります。 というより、元々 時代を感じさせない音楽なのかもしれません。 世代問わず人気がある理由が少しわかった気がしました。 これは眠っている名曲がたくさんありそう。 終わりに 竹内まりやさんのドラマ主題歌を紹介してきましたが、 あくまで竹内まりやさんの曲を聴くきっかけとして考えています。 「この曲覚えてる!」「このドラマ面白かった!もう一回見たい!」 「懐かしい」と思い出に浸る、など。 それもいいです。 でも、 ドラマ主題歌だけに留まっているのは絶対にもったいないです。 今回の記事ではたった 19曲を紹介しただけです。 ぜひ一曲ではなくアルバム単位で購入して聴いてほしいと思います。 ライブですが、全然やらないイメージもありませんか? ところが、2014年に9公演を周るツアーを行っていました。 5年前に大規模なツアーをやっているんです。 今後は今のところライブ情報はないようですが ホームページなどはマメにチェックしましょう。 まずは8月発売の「Turntable」を予約する! あ、もう発売済なら買う! 笑 最後までお読みいただきありがとうございました。

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