フライング タイガー マスク。 ペーパーナプキン

佐山聡

フライング タイガー マスク

その他のタイガーマスク(日本) その他のタイガーマスク 日本・韓国 タイガーマスク(韓国版) /ザ・タイガー(台湾版) 一番最初に「 タイガーマスク」を名乗ったプロレスラーは、実は佐山サトルではない。 71年、日本プロレスの韓国遠征の際、 轡田友継(のちサムソン・クツワダ=引退)がタイガーに変身していたという事実がある。 試合では大人気で、上田やエディ・サリバンらに連日快勝、最後に大木に敗れたのだという。 詳細は轡田の甥・甲斐靖丸氏の「」を参照されたい。 これは、現地でアニメのタイガーマスクに人気があったためで、その後も踏襲された。 例えば83年、全日本プロレスが遠征したときにも 菅原伸義(現・アポロ菅原=フリー)が虎のマスクを被ったらしい。 ( 99年5月8日追記)70年代には、全日から遠征した サンダー杉山や 高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)らも「タイガーマスク」を名乗ったという( からの情報提供)。 同様のケースとして85年、新日本プロレスが初めて台湾に遠征したときには、 ザ・タイガー(老虎、写真左)というマス クマンが出現した。 これは現地で「ワールドプロレスリング」が放送され、の人気が高かったためで、正体は ブラック・キャットだった。 マスクはいかにも安っぽく、耳はあるが白毛がない。 現地ではヒールとしてファイトし、それなりの人気だったという。 ちなみに翌年、全日が遠征したときもが「虎面人」として人気を集めたという。 ( 98年9月5日追記)98年7月28日、新韓国プロレス(大木金太郎会長)のソウル特別市オリンピック体育館大会でも「タイガーマスク」が出現したという (写真右)。 この日はテレビ生中継があり、夏休みの子供向けに登場させたとのことだ。 現在も同団体の興行には、「タイガーマスク」が出現している模様である。 83年6月、いわゆる梶原一騎事件が発生。 初代タイガーのイメージダウンを恐れた新日は改名を計画した。 いったんはファンの反対やCM契約の問題などで難航 し、タイガーはIWGP後のメキシコ遠征からコスチュームを赤のマーシャルアーツ・パンタロンとジャンパーに一新。 マスクも額に「III」の文字が入ったニューデザインのものに改めた。 これまでのタイガーは梶原原作のアニメ「タイガーマスク2世」を再現していたのに対し、新生タイガーをアピールしたものだった。 ファイトスタイルも空中殺法に比して、キックの占める比重が高くなった。 しかしこれだけでは不十分と考えたか、「タイガーマスク」の名前も返上することになった。 8月4日、蔵前国技館での発表では、タイガーは次のブラディファイト・シリーズ終了後海外遠征に発ち、84年に帰国。 新マスクマンに再変身するというもので、ファンに新リングネームを当てさせるという企画も始まった。 このプランで、新しい名前として予定されたのが フライング・タイガー( 写真はイメージイラスト、『 スペース・タイガー』説もあり)である。 初代タイガーはこの直後に新日を離脱し、F・タイガーが実現することはなかったが、要するにたとえ 引退していなくても、タイガーマスクは消える予定だったのである。 タイガーはリング上でのプラン発表のとき、落ち着きがなく、不満げにみえた。 ファンからも「エェ〜?」という溜め息まじりの声(当時はブーイングなどというお洒落なモノはなかった)が漏れ、拍手はまばらだった。 「マスクを脱ぐのは引退するとき」と常々言明していたタイガーだけに、この改名問題が引退の一因となった可能性もある。 / 初代タイガーは新日離脱後の84年2月、新間寿氏の手によるカムバックを決意し、 ザ・タイガー( 写真左)に再変身した。 計画では同年3月のニューヨーク・MSG定期戦がその舞台となる予定であり、リングネームはほかに「タイガー」「タイガーマン」が候補に上っていたという。 新間氏との対立からMSG出場は実現しなかったが、マスクとコスチュームをつけて4次元殺法を「独演」するビデオなども制作、開かれたばかりのタイガージムの経営を支えた。 ザ・タイガーの復帰は7月23、24日、第1次UWFの後楽園ホール2連戦 「無限大記念日」でようやく実現。 初日は高田伸彦(現・延彦)と組み、藤原喜明、前田日明組に敗れたものの、翌日はマッハ隼人(初代・肥後繁久=引退)との初対決で快勝。 約1年ぶりのカムバックを飾った。 8月1日、ザ・タイガーは正式にUWF入団を発表。 ただし名前の権利はマネジャーだったショウジ・コンチャ氏が持っていたようで、彼との関係を断った佐山は改名する必要があった。 更に全日で2代目タイガーのデビューが決まっており、類似商品とのクレームがつくことを強く恐れた。 「ギャラクシー・タイガー」「スペース・タイガー」などが検討され、最終的に選ばれたのが「 スーパー・タイガー」。 マスクは当初、紫地に銀デザインのものだったが、すぐに銀地に改められている( 写真右)。 後頭部と臀部に大きく「SUPER TIGER」の文字を入れ、白毛の生え際の位置も当初は変えるなど念を入れ、著作権に強く配慮していた。 S・タイガーは8月29日、リチャード・チャーランド(ザ・テンペスト)戦で再デビュー。 9月には藤原、前田を連破し、「 UWF実力No. 1」の称号を獲得。 マスクは翌年2月に脱いだが、リングネームは最後までスーパー・タイガーのままだった。 1995年暮れ、A・猪木主催興行でプロレス正式復帰を果たした佐山はその後、力道山OB会やみちのくプロレス、UWFインターナショナル、東京プロレス、WARなどに出場。 さらには冴夢来プロジェクトやチーム・ウルフなど、極小インディペンデントのリングでも「初代タイガーマスク」のリングネームで活動を続けていた。 しかし97年に入り、プロ格闘家に転身した小川 直のトレーニングに従事したことを契機に、新日マット復帰の機運が生じた。 同年4月12日の東京ドーム大会での猪木との初のシングルマッチである。 そしてこの試合の直前、佐山は「 タイガーキング」( 写真=左はオーバーマスク)への改名を発表した。 タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパー・タイガー、初代タイガーマスクに続き、5度目の虎であった。 この改名の理由は著作権の問題と、みちのくで活躍するへのマイナスを考慮した、と説明された。 しかしタイガーキングの名は新日で6試合、力道山OB会の興行で1試合しか使われず、翌年新日マットを離れ、みちのくやUFOに転進した際には再び、初代タイガーマスク名義に戻った。 推測ではあるが、新日(あるいはテレビ朝日)では、タイガーマスクの名を使うことに問題があったのかもしれない。 恐らく故・梶原一騎氏サイドと、みちのくとの契約の関係ではなかろうか。 もし仮に佐山の新日再復帰が実現したならば、そのときはまた、タイガーキングが「復活」するかも知れない。 なおザ・タイガー、スーパー・タイガー、タイガーキングの、です。 ブラック・タイガー(新日版) /ブラック・タイガー(新日版) いずれも、初代及びのライバル用として、新日がつくった外国人マスクマンである。 初代ブラック・タイガー( 写真左)は82年4月21日、蔵前国技館でデビュー。 正体は国際プロレスに来日経験のある、英国の元世界ヘビー・ミドル級王者 ローラーボール・マーク・ロコ(ジム・ハジー・ジュニア)だった。 この試合で初代タイガーのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦、両者リングアウトで引き分けた。 そしてタイガー負傷による王座返上後の5月6日、福岡での決定戦でグラン浜田を下し、第6代王者となった。 初代タイガーとのシングル通算対戦成績は4敗1引き分け。 独特のツームストンドライバー(通称・暗闇脳天)を得意とし、スタミナとスピードの固まりのようなレスラーだった。 タイガー引退後も新日ジュニア戦線を支え、84年暮れにはMSG進出を果たし、ザ・コブラと対戦(別人説もあり)。 87年に1度だけ素顔で来日したが、すぐにマスクマンに戻った。 また一時期、英国マットでB・タイガー1号・2号のタッグチームを組むとの報道もあったが、実現しなかったようだ。 89年に若手レスラーを試合中に死なせたことなどが元で引退し、死亡説も流れたが、現在はカナリア諸島で移動遊園地を経営しているという。 2代目ブラック・タイガー( 写真右)は93年8月8日、両国国技館に突如乱入し、9月20日、名古屋でエル・サムライを破ってデビューを果たした。 正体はゲレロ一家の末弟、 エディ・ゲレロ(元初代マスカラ・マヒカ)で、これ以前は素顔で来日していた。 同月23日、横浜での唯一のシングル対決で3代目タイガーを一蹴し、以後は獣神サンダー・ライガーらと抗争。 スイング式DDTとBTボムに加え、思い切りのいい空中殺法を売り物に活躍を続けた。 タイトルには無縁だったが、96年にはライガーを破って「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」を初制覇した。 その後は素顔でWCWマットで活躍、更にはWWFに移籍して脚光を浴びている。 なお 3代目についてはを参照されたい。 84年8月、2代目タイガーマスクをデビューさせた全日は、引き続いて タイガーマスク2号も作り出し、タッグチームとして 「タイガーマスク兄弟」を結成させる計画だった。 正体を予定されたのは、当初は添野義三率いる士道館の若手空手家、続いてメキシカンも検討されたらしいが、最終的には 川田利明の名が挙がった。 川田は高校時代から三沢の後輩に当たり、スパーリングパートナーも務めた一方、いまのファンには考えられないだろうが、若手時代は「和製青い翼」の異名があったほど空中殺法を志向していたのである。 しかしこのプランはなぜか、実現には至らなかった。 ちなみにこれよりやや遅れて、新日も当時活躍中だったザ・コブラの2号(高野俊二を予定)を計画したが実現せず、最終的にストロング・マシーンを「増殖マスクマン」化させて決着した。 ( 99年2月19日追記)「週刊ゴング」誌に連載され、日本スポーツ出版社刊「劇画バカ一代・梶原一騎読本」にも再録された故・梶原一騎氏の回想録「我が眼中の裸の男たち」によれば、 士道館の黒帯だったY選手をタイガーマスク2号にする計画はかなり具体的な段階まで進み、本人が全日道場に入門、巡業にも同行したという。 しかし、持病の内臓疾患が悪化し、御破算になったとのことだ。 怪物団体SWSもまた、タイガーマスクの登場を計画していた。 91年秋、ユニバーサル・プロレスから移籍してきた 浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン=闘龍門)が変身する予定だった。 浅井自身が持ち込んだ企画といわれ、そもそも本人はメキシコEMLLでもタイガーを名乗る予定だったが「など同様のキャラクターが多いので」と却下されたという。 結局メキシコではU・ドラゴン、日本ではタイガーを使い分けるつもりで、コスチュームも製作するなど相当乗り気だったというが、著作権の問題などから実現には至らなかった。 SWSの某幹部レスラーの反対もあったとかで、浅井は12月から日本でもドラゴンを名乗った。 これが実現していれば、3代目タイガーは金本ではなかったということになる。 なお 写真は初代の「ヤギリ」タイプのマスクを着用した浅井だが、このマスクは「ゴング」誌の清水勉記者が佐山から譲り受け、特写の際に被らせたもの。 同じものを2代目タイガーもデビュー当時、同記者から借りて着用していたといい、実に由緒正しいマスクということになる(参照)。 ジャガー・ナンバーワン/ザ・ジャガー(新日版) 82年秋、メキシコ〜ロサンゼルス遠征中だった小林邦昭の帰国時にも、マスクマンへの変身が計画された。 予定リングネームは ジャガー・ナンバーワンとも ザ・ジャガーとも伝えられており、初代ブラック・タイガーと同様、初代タイガーのライバルとして企画されたもの。 マスクの出来具合がいまひとつだったといい、小林本人も難色を示したとかで、実現には至らなかった。 ザ・タイガー(新日版) /ザ・ジャガー(新日版) 88年秋、新日が開いた「ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦」で、スーパー・ストロング・マシーンのパートナーとして ザ・タイガー、ザ・ジャガーの2人が「来日」した。 正体はそれぞれ若手の 笹崎伸嗣(引退)と 大矢健一(現・剛功)。 合同記者会見のときはタイガーマスク風のマスク( 写真左上がザ・ジャガー、左下がザ・タイガー)を被っていたが、試合時は耳も白毛も消え、マシーン・スタイルのワンショルダー・タイツになってしまった( 同右=上がザ・タイガー、下がザ・ジャガー)。 開幕戦こそコンビでH・斉藤、佐々木組と対戦、まだ若手だった佐々木からフォールを奪ったものの、公式戦では振るわず、ほとんど話題に上らずじまいで終わった。 これは推測であるが、あるいはこのシリーズの途中にメキシコ遠征から帰国した佐野直喜(現・巧真=ノア)、畑浩和(引退)の2人を売り出すためのプランが、何かの事情で変更になったのかも知れない。 スペル・ティグリート/レオパルド・ネグロ/獅龍 いずれもユニバーサル・プロレスに出現したマスクマン。 スペル・ティグリート(写真左)は92年6月12日の後楽園ホール大会に出現し、前座の第1試合で巌鉄魁(現・ディック東郷=大阪プロレス)に敗れた。 若手がこのスタイルでデビューしたわけだが、すぐに消えてしまった。 マスクはパンテーラに似た黒地のもので、ヒョウ柄のタイツを穿いていた。 ( 99年2月19日追記)「プロレス・ファン」誌No. 38によれば、S・ティグリートの正体は 島津克彦なる若手選手だったという。 現在は引退したとのことだ。 ( 99年5月8日追記)99年4月27日、みちのくプロレス東京・大田区体育館大会での「覆面時間差バトルロイヤル」には、「2代目」として スペル・ティグリートII (セグンド)なる選手が出現している。 その後もたまに同団体のリングに上がっている。 レオパルド・ネグロ( 写真右= より提供)のマスクとコスチューム、及びファイトスタイルは明らかに初代タイガーを意識したものだった。 正体は言うまでもなく 中島一学、後の中島半蔵である。 リングネームは「黒い豹」の意。 なおみちのく時代、中島は「サスケが4代目タイガーを潰さなかったのに立腹し、海援隊入りした」と語っていたが、本音はやはり自分がタイガーをやりたかったのではないだろうか。 マスカラ・コントラ・マスカラを強要され?サスケにマスクを剥がされたことを思えば、その感情は理解できる。 また、かつての 獅龍(現 カズ・ハヤシ=全日本)のマスクも少なからずタイガーの影響を受けていたため、ここに名前を挙げておく。 その後 獅龍2号なるレスラーも出現しており、こちらの正体は不明ながらも ファンタスティック説などがある。 もともとはみちのくプロレスに、のライバルとして出現したマスクマン。 通称「偽タイガー」。 マスクド・タイガー( 写真左= より提供)は97年4月29日、新潟大会でデビュー。 黒地のマスクを着け、サスケ・ザ・グレートのパートナーとして活動していた。 しかし同年9月23日、酒田大会での敗者覆面剥ぎタッグマッチでタイガーマスク、ザ・グレート・サスケ組に敗れ、正体がバトラーツの 小野武志であることを明かした。 マスクド・タイガー二世( 写真中)はその2代目として、S・T・グレートが連れて来たマスクマン。 99年9月11日の岩手・大迫町大会でデビューしたが、やがて姿を消した。 マスクは基本的に「初代」と同じデザインで、カラーリングのみ異なる。 コスチュームも初代と同じであり、正体はやはり 小野武志である可能性が濃厚だ。 その後、02年2月3日の後楽園大会で一夜限りの復活を果たしている。 3代目に当たるのが マスクド・タイガー三世( 写真右)だ。 03年5月18日、メビウスの歌舞伎町大会に出現した。 こちらも体型やファイトスタイルから見て、 小野武志に間違いない。 写真では分かりにくいがマスクもこれまでと同じデザインで、黒と青を基調にしたものを被っていた。 」の開幕戦第1試合でデビューした「覆面格闘家」( 写真左)。 試合では金色のレガースを着けて、蹴りを連発、相手のザ・モンゴルマンなるマスクマンからダウンを連取して快勝した。 だがいまひとつ反響を呼べなかった上、負傷したと称して以後は欠場、そのまま姿を消してしまった。 わずか1試合のみで終わった、文字どおり幻のマスクマンである。 正体についてはいまだに明らかにされていないが、一説にはベニー・ユキーデ主宰のジム、「ジェット・センター」に所属する ジェット市川という格闘家だったという。 ちなみにモンゴルマン(本名:斉藤俊一)もその後1試合に出場しただけで消滅したが、後にインディペンデントのリングで復活。 素顔で試合をしている。 当時と同一人物かどうかは明らかにされなかったが、マスクはほぼ同様。 コスチュームはキックのトランクスに変わっていた。

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その他のタイガーマスク(日本) その他のタイガーマスク 日本・韓国 タイガーマスク(韓国版) /ザ・タイガー(台湾版) 一番最初に「 タイガーマスク」を名乗ったプロレスラーは、実は佐山サトルではない。 71年、日本プロレスの韓国遠征の際、 轡田友継(のちサムソン・クツワダ=引退)がタイガーに変身していたという事実がある。 試合では大人気で、上田やエディ・サリバンらに連日快勝、最後に大木に敗れたのだという。 詳細は轡田の甥・甲斐靖丸氏の「」を参照されたい。 これは、現地でアニメのタイガーマスクに人気があったためで、その後も踏襲された。 例えば83年、全日本プロレスが遠征したときにも 菅原伸義(現・アポロ菅原=フリー)が虎のマスクを被ったらしい。 ( 99年5月8日追記)70年代には、全日から遠征した サンダー杉山や 高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)らも「タイガーマスク」を名乗ったという( からの情報提供)。 同様のケースとして85年、新日本プロレスが初めて台湾に遠征したときには、 ザ・タイガー(老虎、写真左)というマス クマンが出現した。 これは現地で「ワールドプロレスリング」が放送され、の人気が高かったためで、正体は ブラック・キャットだった。 マスクはいかにも安っぽく、耳はあるが白毛がない。 現地ではヒールとしてファイトし、それなりの人気だったという。 ちなみに翌年、全日が遠征したときもが「虎面人」として人気を集めたという。 ( 98年9月5日追記)98年7月28日、新韓国プロレス(大木金太郎会長)のソウル特別市オリンピック体育館大会でも「タイガーマスク」が出現したという (写真右)。 この日はテレビ生中継があり、夏休みの子供向けに登場させたとのことだ。 現在も同団体の興行には、「タイガーマスク」が出現している模様である。 83年6月、いわゆる梶原一騎事件が発生。 初代タイガーのイメージダウンを恐れた新日は改名を計画した。 いったんはファンの反対やCM契約の問題などで難航 し、タイガーはIWGP後のメキシコ遠征からコスチュームを赤のマーシャルアーツ・パンタロンとジャンパーに一新。 マスクも額に「III」の文字が入ったニューデザインのものに改めた。 これまでのタイガーは梶原原作のアニメ「タイガーマスク2世」を再現していたのに対し、新生タイガーをアピールしたものだった。 ファイトスタイルも空中殺法に比して、キックの占める比重が高くなった。 しかしこれだけでは不十分と考えたか、「タイガーマスク」の名前も返上することになった。 8月4日、蔵前国技館での発表では、タイガーは次のブラディファイト・シリーズ終了後海外遠征に発ち、84年に帰国。 新マスクマンに再変身するというもので、ファンに新リングネームを当てさせるという企画も始まった。 このプランで、新しい名前として予定されたのが フライング・タイガー( 写真はイメージイラスト、『 スペース・タイガー』説もあり)である。 初代タイガーはこの直後に新日を離脱し、F・タイガーが実現することはなかったが、要するにたとえ 引退していなくても、タイガーマスクは消える予定だったのである。 タイガーはリング上でのプラン発表のとき、落ち着きがなく、不満げにみえた。 ファンからも「エェ〜?」という溜め息まじりの声(当時はブーイングなどというお洒落なモノはなかった)が漏れ、拍手はまばらだった。 「マスクを脱ぐのは引退するとき」と常々言明していたタイガーだけに、この改名問題が引退の一因となった可能性もある。 / 初代タイガーは新日離脱後の84年2月、新間寿氏の手によるカムバックを決意し、 ザ・タイガー( 写真左)に再変身した。 計画では同年3月のニューヨーク・MSG定期戦がその舞台となる予定であり、リングネームはほかに「タイガー」「タイガーマン」が候補に上っていたという。 新間氏との対立からMSG出場は実現しなかったが、マスクとコスチュームをつけて4次元殺法を「独演」するビデオなども制作、開かれたばかりのタイガージムの経営を支えた。 ザ・タイガーの復帰は7月23、24日、第1次UWFの後楽園ホール2連戦 「無限大記念日」でようやく実現。 初日は高田伸彦(現・延彦)と組み、藤原喜明、前田日明組に敗れたものの、翌日はマッハ隼人(初代・肥後繁久=引退)との初対決で快勝。 約1年ぶりのカムバックを飾った。 8月1日、ザ・タイガーは正式にUWF入団を発表。 ただし名前の権利はマネジャーだったショウジ・コンチャ氏が持っていたようで、彼との関係を断った佐山は改名する必要があった。 更に全日で2代目タイガーのデビューが決まっており、類似商品とのクレームがつくことを強く恐れた。 「ギャラクシー・タイガー」「スペース・タイガー」などが検討され、最終的に選ばれたのが「 スーパー・タイガー」。 マスクは当初、紫地に銀デザインのものだったが、すぐに銀地に改められている( 写真右)。 後頭部と臀部に大きく「SUPER TIGER」の文字を入れ、白毛の生え際の位置も当初は変えるなど念を入れ、著作権に強く配慮していた。 S・タイガーは8月29日、リチャード・チャーランド(ザ・テンペスト)戦で再デビュー。 9月には藤原、前田を連破し、「 UWF実力No. 1」の称号を獲得。 マスクは翌年2月に脱いだが、リングネームは最後までスーパー・タイガーのままだった。 1995年暮れ、A・猪木主催興行でプロレス正式復帰を果たした佐山はその後、力道山OB会やみちのくプロレス、UWFインターナショナル、東京プロレス、WARなどに出場。 さらには冴夢来プロジェクトやチーム・ウルフなど、極小インディペンデントのリングでも「初代タイガーマスク」のリングネームで活動を続けていた。 しかし97年に入り、プロ格闘家に転身した小川 直のトレーニングに従事したことを契機に、新日マット復帰の機運が生じた。 同年4月12日の東京ドーム大会での猪木との初のシングルマッチである。 そしてこの試合の直前、佐山は「 タイガーキング」( 写真=左はオーバーマスク)への改名を発表した。 タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパー・タイガー、初代タイガーマスクに続き、5度目の虎であった。 この改名の理由は著作権の問題と、みちのくで活躍するへのマイナスを考慮した、と説明された。 しかしタイガーキングの名は新日で6試合、力道山OB会の興行で1試合しか使われず、翌年新日マットを離れ、みちのくやUFOに転進した際には再び、初代タイガーマスク名義に戻った。 推測ではあるが、新日(あるいはテレビ朝日)では、タイガーマスクの名を使うことに問題があったのかもしれない。 恐らく故・梶原一騎氏サイドと、みちのくとの契約の関係ではなかろうか。 もし仮に佐山の新日再復帰が実現したならば、そのときはまた、タイガーキングが「復活」するかも知れない。 なおザ・タイガー、スーパー・タイガー、タイガーキングの、です。 ブラック・タイガー(新日版) /ブラック・タイガー(新日版) いずれも、初代及びのライバル用として、新日がつくった外国人マスクマンである。 初代ブラック・タイガー( 写真左)は82年4月21日、蔵前国技館でデビュー。 正体は国際プロレスに来日経験のある、英国の元世界ヘビー・ミドル級王者 ローラーボール・マーク・ロコ(ジム・ハジー・ジュニア)だった。 この試合で初代タイガーのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦、両者リングアウトで引き分けた。 そしてタイガー負傷による王座返上後の5月6日、福岡での決定戦でグラン浜田を下し、第6代王者となった。 初代タイガーとのシングル通算対戦成績は4敗1引き分け。 独特のツームストンドライバー(通称・暗闇脳天)を得意とし、スタミナとスピードの固まりのようなレスラーだった。 タイガー引退後も新日ジュニア戦線を支え、84年暮れにはMSG進出を果たし、ザ・コブラと対戦(別人説もあり)。 87年に1度だけ素顔で来日したが、すぐにマスクマンに戻った。 また一時期、英国マットでB・タイガー1号・2号のタッグチームを組むとの報道もあったが、実現しなかったようだ。 89年に若手レスラーを試合中に死なせたことなどが元で引退し、死亡説も流れたが、現在はカナリア諸島で移動遊園地を経営しているという。 2代目ブラック・タイガー( 写真右)は93年8月8日、両国国技館に突如乱入し、9月20日、名古屋でエル・サムライを破ってデビューを果たした。 正体はゲレロ一家の末弟、 エディ・ゲレロ(元初代マスカラ・マヒカ)で、これ以前は素顔で来日していた。 同月23日、横浜での唯一のシングル対決で3代目タイガーを一蹴し、以後は獣神サンダー・ライガーらと抗争。 スイング式DDTとBTボムに加え、思い切りのいい空中殺法を売り物に活躍を続けた。 タイトルには無縁だったが、96年にはライガーを破って「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」を初制覇した。 その後は素顔でWCWマットで活躍、更にはWWFに移籍して脚光を浴びている。 なお 3代目についてはを参照されたい。 84年8月、2代目タイガーマスクをデビューさせた全日は、引き続いて タイガーマスク2号も作り出し、タッグチームとして 「タイガーマスク兄弟」を結成させる計画だった。 正体を予定されたのは、当初は添野義三率いる士道館の若手空手家、続いてメキシカンも検討されたらしいが、最終的には 川田利明の名が挙がった。 川田は高校時代から三沢の後輩に当たり、スパーリングパートナーも務めた一方、いまのファンには考えられないだろうが、若手時代は「和製青い翼」の異名があったほど空中殺法を志向していたのである。 しかしこのプランはなぜか、実現には至らなかった。 ちなみにこれよりやや遅れて、新日も当時活躍中だったザ・コブラの2号(高野俊二を予定)を計画したが実現せず、最終的にストロング・マシーンを「増殖マスクマン」化させて決着した。 ( 99年2月19日追記)「週刊ゴング」誌に連載され、日本スポーツ出版社刊「劇画バカ一代・梶原一騎読本」にも再録された故・梶原一騎氏の回想録「我が眼中の裸の男たち」によれば、 士道館の黒帯だったY選手をタイガーマスク2号にする計画はかなり具体的な段階まで進み、本人が全日道場に入門、巡業にも同行したという。 しかし、持病の内臓疾患が悪化し、御破算になったとのことだ。 怪物団体SWSもまた、タイガーマスクの登場を計画していた。 91年秋、ユニバーサル・プロレスから移籍してきた 浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン=闘龍門)が変身する予定だった。 浅井自身が持ち込んだ企画といわれ、そもそも本人はメキシコEMLLでもタイガーを名乗る予定だったが「など同様のキャラクターが多いので」と却下されたという。 結局メキシコではU・ドラゴン、日本ではタイガーを使い分けるつもりで、コスチュームも製作するなど相当乗り気だったというが、著作権の問題などから実現には至らなかった。 SWSの某幹部レスラーの反対もあったとかで、浅井は12月から日本でもドラゴンを名乗った。 これが実現していれば、3代目タイガーは金本ではなかったということになる。 なお 写真は初代の「ヤギリ」タイプのマスクを着用した浅井だが、このマスクは「ゴング」誌の清水勉記者が佐山から譲り受け、特写の際に被らせたもの。 同じものを2代目タイガーもデビュー当時、同記者から借りて着用していたといい、実に由緒正しいマスクということになる(参照)。 ジャガー・ナンバーワン/ザ・ジャガー(新日版) 82年秋、メキシコ〜ロサンゼルス遠征中だった小林邦昭の帰国時にも、マスクマンへの変身が計画された。 予定リングネームは ジャガー・ナンバーワンとも ザ・ジャガーとも伝えられており、初代ブラック・タイガーと同様、初代タイガーのライバルとして企画されたもの。 マスクの出来具合がいまひとつだったといい、小林本人も難色を示したとかで、実現には至らなかった。 ザ・タイガー(新日版) /ザ・ジャガー(新日版) 88年秋、新日が開いた「ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦」で、スーパー・ストロング・マシーンのパートナーとして ザ・タイガー、ザ・ジャガーの2人が「来日」した。 正体はそれぞれ若手の 笹崎伸嗣(引退)と 大矢健一(現・剛功)。 合同記者会見のときはタイガーマスク風のマスク( 写真左上がザ・ジャガー、左下がザ・タイガー)を被っていたが、試合時は耳も白毛も消え、マシーン・スタイルのワンショルダー・タイツになってしまった( 同右=上がザ・タイガー、下がザ・ジャガー)。 開幕戦こそコンビでH・斉藤、佐々木組と対戦、まだ若手だった佐々木からフォールを奪ったものの、公式戦では振るわず、ほとんど話題に上らずじまいで終わった。 これは推測であるが、あるいはこのシリーズの途中にメキシコ遠征から帰国した佐野直喜(現・巧真=ノア)、畑浩和(引退)の2人を売り出すためのプランが、何かの事情で変更になったのかも知れない。 スペル・ティグリート/レオパルド・ネグロ/獅龍 いずれもユニバーサル・プロレスに出現したマスクマン。 スペル・ティグリート(写真左)は92年6月12日の後楽園ホール大会に出現し、前座の第1試合で巌鉄魁(現・ディック東郷=大阪プロレス)に敗れた。 若手がこのスタイルでデビューしたわけだが、すぐに消えてしまった。 マスクはパンテーラに似た黒地のもので、ヒョウ柄のタイツを穿いていた。 ( 99年2月19日追記)「プロレス・ファン」誌No. 38によれば、S・ティグリートの正体は 島津克彦なる若手選手だったという。 現在は引退したとのことだ。 ( 99年5月8日追記)99年4月27日、みちのくプロレス東京・大田区体育館大会での「覆面時間差バトルロイヤル」には、「2代目」として スペル・ティグリートII (セグンド)なる選手が出現している。 その後もたまに同団体のリングに上がっている。 レオパルド・ネグロ( 写真右= より提供)のマスクとコスチューム、及びファイトスタイルは明らかに初代タイガーを意識したものだった。 正体は言うまでもなく 中島一学、後の中島半蔵である。 リングネームは「黒い豹」の意。 なおみちのく時代、中島は「サスケが4代目タイガーを潰さなかったのに立腹し、海援隊入りした」と語っていたが、本音はやはり自分がタイガーをやりたかったのではないだろうか。 マスカラ・コントラ・マスカラを強要され?サスケにマスクを剥がされたことを思えば、その感情は理解できる。 また、かつての 獅龍(現 カズ・ハヤシ=全日本)のマスクも少なからずタイガーの影響を受けていたため、ここに名前を挙げておく。 その後 獅龍2号なるレスラーも出現しており、こちらの正体は不明ながらも ファンタスティック説などがある。 もともとはみちのくプロレスに、のライバルとして出現したマスクマン。 通称「偽タイガー」。 マスクド・タイガー( 写真左= より提供)は97年4月29日、新潟大会でデビュー。 黒地のマスクを着け、サスケ・ザ・グレートのパートナーとして活動していた。 しかし同年9月23日、酒田大会での敗者覆面剥ぎタッグマッチでタイガーマスク、ザ・グレート・サスケ組に敗れ、正体がバトラーツの 小野武志であることを明かした。 マスクド・タイガー二世( 写真中)はその2代目として、S・T・グレートが連れて来たマスクマン。 99年9月11日の岩手・大迫町大会でデビューしたが、やがて姿を消した。 マスクは基本的に「初代」と同じデザインで、カラーリングのみ異なる。 コスチュームも初代と同じであり、正体はやはり 小野武志である可能性が濃厚だ。 その後、02年2月3日の後楽園大会で一夜限りの復活を果たしている。 3代目に当たるのが マスクド・タイガー三世( 写真右)だ。 03年5月18日、メビウスの歌舞伎町大会に出現した。 こちらも体型やファイトスタイルから見て、 小野武志に間違いない。 写真では分かりにくいがマスクもこれまでと同じデザインで、黒と青を基調にしたものを被っていた。 」の開幕戦第1試合でデビューした「覆面格闘家」( 写真左)。 試合では金色のレガースを着けて、蹴りを連発、相手のザ・モンゴルマンなるマスクマンからダウンを連取して快勝した。 だがいまひとつ反響を呼べなかった上、負傷したと称して以後は欠場、そのまま姿を消してしまった。 わずか1試合のみで終わった、文字どおり幻のマスクマンである。 正体についてはいまだに明らかにされていないが、一説にはベニー・ユキーデ主宰のジム、「ジェット・センター」に所属する ジェット市川という格闘家だったという。 ちなみにモンゴルマン(本名:斉藤俊一)もその後1試合に出場しただけで消滅したが、後にインディペンデントのリングで復活。 素顔で試合をしている。 当時と同一人物かどうかは明らかにされなかったが、マスクはほぼ同様。 コスチュームはキックのトランクスに変わっていた。

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佐山 聡 プロフィール リングネーム 佐山 聡 (初代) スーパータイガー(初代) ザ・タイガー(初代) タイガーキング ザ・マスク・オブ・タイガー サミー・リー サトル・サヤマ 佐山 サトル 本名 佐山 聡 ニックネーム 四次元殺法 伝説の虎 10年先を行く男 天才 身長 173cm 体重 90kg(全盛時)- 115kg 誕生日 1957-11-27 (62歳) 出身地 所属 スポーツ歴 トレーナー デビュー 佐山 聡(さやま さとる、 - )は、の現役の。 の元祖とされる団体・シューティング(現:)の創設者としても知られ、設立当時としても活動していた。 2012年現在、本人の設立である団体・興義館総監を務め、、としても活動している。 血液型B型、出身。 この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年11月) 豊浦小学校時代にの影響で格闘技を志し、乃木道場(山口県下関市長府)でを始める。 その後にも手を広げる。 に入学するが、1年で。 広島電通大付属高校3年生時に三重国体に75KG級の広島代表で出場。 3回戦で福岡県代表の三井選手(後に福岡大学主将)に判定負け。 三井選手は準々決勝で兵庫県代表の矢野伸一郎選手(関西学院高等部。 後に関西学院大学主将)に敗れた。 7月にに入門。 入門の前に一度新日本を訪れているが、その時はから、身長が170cmを超えて体重が70kgになったら連絡するように促され、実際に身長が172cm、体重が72kgになってから再訪、そこでで行われた試合に連れて行ってもらった。 新間が新日本の弟子を独断で採用したのは佐山の時が初めてであり、アントニオ猪木からは最初「あんなちっこいの」呼ばわりされたが、その練習熱心さから次第に猪木も佐山を認めるようになった。 5月28日に戦でデビュー。 デビューしてからしばらくは連敗を重ねていたが、試合内容は良かったと言われている。 入門2年目からは猪木の付き人になった。 11月14日に行われた主催の「」で、全米プロ第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下で対戦した。 で打撃トレーニングを積んで試合に挑んだ佐山だったが、リーチの差と寝技無しのルールに苦戦し、1Rこそ果敢にや反り投げなどの投げ技を繰り出す が(ただし反則)、着用のため技が決まらない。 2R以降はパンチ・キック・膝蹴りと一方的に攻めまくられ、毎ラウンド「ダウンしては立ち上がる」の繰り返しとなった。 プロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの、6R終了まで良いところなく屈辱的な判定負けを喫した。 リング下では、、らが観戦し、セコンドではが鼓舞激励するというプロレスの威信をかけた試合だった。 なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた(そんなところからこの試合に抜擢された)。 にはを主催するの救援要請を受けたロスのプロモーター、から新日本プロレスに要請が届き、抜擢を受けキャリア2年で・に派遣され、「 サトル・サヤマ」のリングネームで活動。 慣れない環境や食生活で、体重が20kg近く減るなどの苦労をしつつも、同団体ではを獲得し、一時期所属したではとのタッグでも活躍した。 の道場を経由してにはへ渡りの従弟こと「 サミー・リー」ので東洋武術を彷彿とさせるスタイルのプロレスラーとして大活躍、立場は完全なで決め技は日本とは違い風車式のバックブリーカーを多用した。 後にイギリスへ渡ったは、「サミー・リー」の弟というで「クイックキック・リー」ので活躍したことからも明らかであるように、この「サミー・リー」の当地における人気は日本における「タイガーマスク」の人気に匹敵するものであった。 なお、漫画『』にて描かれていた、メキシコ遠征時に名乗ったとされる、覆面レスラー「ティグレ・エン・マスカラド」や、目の回りに隈取りを施したペイントレスラー「ミスター・カンフー」はフィクションであり、実際はこれらのリングネームは使われておらず、一貫して素顔で試合を行っている。 タイガーマスク誕生前夜 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年11月) 新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受ける。 当時のイギリスでの佐山はサミー・リーとして大変な人気で 、(後のライバル、初代)とのタイトルマッチを目前に控えていたこともあり帰国を断るが、「1試合だけでいいから、の顔を潰さないで欲しい」と説得され帰国。 後の新間寿の証言によると、佐山は新間の説得を受けて帰国に踏み切ったがイギリスの税金の未払いがあったため、新間は元であったに掛け合ってロンドンの日本大使館とイギリス政府と外交交渉の末帰国させたという 。 こうして、タイガーマスクとしてリングに上がるが、渡されたマスクやコスチュームの出来の悪さに泣きそうになったと、後に回想している(これはデビュー戦の相手を務めたも同様のコメントを残している)。 新間によると、マスクの発注を忘れてしまい、直前にスタッフが既製品を改造して短時間で作り上げたものであるという。 タイガーマスク [ ] 海外修行から帰国後、原作の漫画『』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。 また、この時期系でアニメ『』の放送が開始され、展開も行っている。 初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、4月23日、における戦。 タイガーとキッドにとって、両者は互いに良きライバルと言え、今なお語られる数多くの激戦を繰り広げた。 デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。 佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。 新日本プロレス伝統のをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培った(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。 そのファイトスタイルは、実況のによって「 四次元プロレス」「 四次元殺法」と形容された。 タイガーマスクの試合を中継した『』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。 子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。 は、1月1日に王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りを獲得。 5月25日にはからを奪取し 、とのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。 この時期の代表的な好敵手としては、デビュー戦の相手でもあったダイナマイト・キッドをはじめ、、、、、などが挙げられる。 また、やと組んでの6人タッグマッチにも出場し、、、、、、、、、などヘビー級の外国人選手とも対戦した。 12月8日の蔵前国技館大会では、とのシングルマッチも行われた。 ジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、のやのにおいて、ダイナマイト・キッド、、らを相手に防衛戦を行ったこともある。 1982年11月から12月にかけてのWWFサーキットでは、12月4日ににて、当時ののトップコンテンダーだったを下し 、12月7日にはにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことからも勝利を収めている。 サーキット中は、斎藤のパートナーだったや若手時代のとも対戦した。 人気絶頂の最中、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。 5月に漫画『タイガーマスク』の原作者であるが編集者への暴行容疑で逮捕され、社会的影響度から改名問題が浮上する。 8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。 しかし、8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。 契約解除の通告書では、タイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業「アントン・ハイセル」へ流用されていることを糾弾した(8月末に社内クーデター騒動が勃発し、猪木が社長を一時辞任)。 佐山個人は結婚式を海外で極秘に挙げるようフロントから強要されたことに憤りを感じており 、タイガーブームの仕掛け人であると佐山の個人マネージャーだったが対立していたという事情もあった。 9月21日付のに素顔の写真が掲載され、タイガーマスクの正体が佐山であることが公開される。 テレビ朝日系のバラエティ番組『』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。 新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はダイナマイト・キッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない(メキシコでは1982年12月12日、WWFジュニアヘビー級王座の防衛戦でから1フォールを奪われたことがあるが、スコアの上では勝利を収めた )。 マスク剥ぎ [ ] 初代タイガーマスク時代、1982年10月26日のでの対戦を初めとし、に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。 それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的には覆面レスラーのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手をかける行為はそれまでなかったものであった。 それ以後、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、、等の試合でも、マスク剥ぎが「お約束」として必ず入っている。 後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎのことに触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。 ザ・タイガー [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年11月) 人気絶頂期での引退発表を行った頃、自身のジム「タイガージム」を設立。 ザ・タイガーとして、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団したを兼パートナーに迎え、 新格闘技と称して新しいスポーツを模索する中、7月23日、24日にの「」興行に約1年振りの現役復帰。 と組んで、、とのタッグマッチを行った。 ザ・タイガーのマスクデザインは額の赤いマークが廃され、新格闘技ではアップライトスタイルからのキックが重要になってくるため、スポーツとして蹴られた相手を必要以上に傷つけない様、脛当て()が佐山により考案された。 この時期にも、バラエティ番組では自らマスクを脱ぎ勝負を行なったりしていた。 スーパータイガー [ ] UWF正式入団時に スーパータイガーと改名(タイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使用できないため)。 藤原との試合でがぶられて(上からホールドされること。 レスリングでよく使われる言葉)スタミナを失い、アームロックから逃れられずに腕を脱臼したことから、スーパー・タイガー名義のままで素顔にて試合をするようになる。 自身のジムは一旦閉鎖し、「」として後に再スタートする。 リング上では前田、藤原、高田、、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合を行ない、「UWFはプロレスではなく シューティング」自分達を「 シューター」と称した。 公式ルールの制定にも着手するが、スポーツライクな、競技としてのシューティングを確立しようとする佐山と他の選手との間には徐々に溝ができていた。 そして9月2日。 で行われた試合で、特に不信を抱えていた前田からを仕掛けられる。 張り手や膝蹴りを多用し、グラウンドの佐山にローキックをする等、前田の尋常ならざるファイト、精神状態を懸念した佐山が、腹部に入った右膝を金的アピールしてレフェリーに試合を止めさせた(結果は18分57秒スーパー・タイガーの反則勝ち)。 これがきっかけとなって、佐山は10月11日にUWF脱退を表明。 看板選手を失った団体は活動休止に追い込まれ、佐山以外の選手は新日本プロレスと業務提携することになる。 前田との関係はまだ完全ではないもの、2006年にの仲介で行われた『』での前田との対談で一定の修復はなされ、その後は電話で話すなど仲直りしている。 修斗設立 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年11月) 1985年12月、佐山はと共にの大会に出席し、翌年からのアマチュア格闘技大会開催を予告。 スーパータイガージムでの指導をベースとした競技としての格闘技「シューティング(現・)」の普及活動に励み、協会設立やプロ化を実現。 1996年には修斗の運営から身を引いた。 UWF離脱直後にはプロレス界の実情を暴露した『』を出版し、プロレス活動から距離を置いた(の興行で挨拶をしたことは何度かある)。 その後は界とプロレス界では異なる立場を取りながらも、双方に関わる活動となる。 現役復帰 [ ] 5月1日、当時の取締役だったに要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となるとのエキシビションマッチに参加した。 試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。 これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったかららしい。 翌年、 初代タイガーマスクに名を戻して本格的にプロレスに復帰し、、、、SAプロレス等に参戦した。 には タイガーキングに改名し、新日本大会でと対戦する。 、アントニオ猪木が創設したに猪木事務所取締役の肩書きで参加する。 を指導し、岡田孝(現・)からの推薦によりの参戦を認めた。 1月4日、伝説となる小川直也対のシュートマッチ、いわゆる「1. 4事変」の仕掛け人の一人となる。 余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前に戦で負傷したからである。 その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。 その年の5月に設立、再びプロレスから離れる。 もう復帰は無いと思われたが、9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、 ザ・マスク・オブ・タイガーの名でまたも復帰(対戦相手は)。 その後、再び 初代タイガーマスクに名を戻し、等に参戦。 では初めてと対戦した。 6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「」を旗揚げした。 3月13日にはリアルジャパンマットで、との初対決がタッグマッチで実現。 チョップと蹴りも打ち合う名勝負となる。 リアルジャパンプロレスでは他にも、鈴木みのる、飯伏幸太、高山善廣、大仁田厚とも対戦が実現。 また昭和プロレス興行にて藤原喜明が胃がん手術後の復帰戦の対戦相手になる。 藤原の復帰戦とは思えないほどの、壮絶な蹴り見舞う試合になった。 12月には、これまで試合での接点が全くなかった(4月2日、で行われた「格闘技の祭典」で、当時シューティングのエキシビションを行った佐山を激励する形で一緒のリングに上がったことはあったが)二代目タイガーこととの初対決がやはりタッグマッチで行われた。 10月20日、、と共に新イベント「」を1月10日にで旗揚げすることを発表した。 3月20日の後楽園ホール大会での戦後に心臓の痛みを訴えていたが、しばらく安静に努めていたものの改善しなかったため、5月22日に手術を行った。 精密検査の際、医者から「いつしてもおかしくない状態」と言われたほど深刻な状況だったが、4時間に及んだ手術は無事に成功。 最終的には原因不明の「」と診断された が、先天的に血管が細く、小学校低学年の時に心臓を患って入院した経験があったという。 2016年6月23日のリアルジャパンプロレス後楽園ホール大会にてを相手に、新たに佐山自身が立ち上げた武道「須麻比(すまひ)」のデモンストレーションマッチとして復帰戦を行うが、瞬間の瞬発力は感じさせたものの、完調とは言える動きではなかったため、完全な形での復帰は明言しなかった。 2020年2月19日、新間寿はリアルジャパンプロレス会長として東京都内の会見で「パーキンソン病に近い状態」と佐山が歩行困難であることなどを説明した。 初代タイガーマスク基金の設立 [ ] 「健全な子供たちが育つよりよき社会作り」を目指して2011年11月に設立され、理事長に就任。 孤児やめぐまれない子供たちへの支援活動をはじめ、社会教育事業の推進や慈善イベントの開催などを行っている。 2014年11月には一般財団法人化。 獲得王座 [ ]• 世界ミドル級王座…第41代(防衛10回)• …第6代(防衛6回)、第8代(防衛16回)、第9代(防衛1回)• …第34代(防衛4回)、第35代(防衛2回)• 1981年度 大衆賞• 1982年度 最優秀選手賞(MVP)• 1982年度 技能賞• 1984年度 技能賞 得意技 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年11月) 格闘技的な蹴り技をプロレスに持ち込んだパイオニアであり、さらに見栄えを良くするため、プロレス流にアレンジもなされた。 また、ルチャをベースに当時としては画期的な空中殺法に加え、ルチャ的な、現在では格闘技色の強い関節技、さらに投げ技、丸め込み技まで難なくこなし、ラフにも強い正に万能型の選手で、他団体を含む後のジュニア選手のファイトスタイルに大きな影響を与えた。 各種 ローキック、ミドルキック、ハイキックの格闘技的な三種。 当時、プロレスのキックといえばトーキック、もしくは胸板へのが主流で、連発で行うものは珍しかった。 今ではキック・ボクシング風のキックを使う選手は多いが、佐山は若手時代から多用 闘いは打撃から始まるという考えがあった しており、キック・ボクシング風のキックをプロレスに取り入れた先駆者でもある。 両足踏み切り型で旋回式。 通常の選手は右回転か左回転のどちらか一方だが、佐山は左右どちらにも旋回できた。 格闘技の蹴り技をプロレス流にアレンジした(プロレスでは)この技の元祖。 飛んで旋回する後ろ蹴りをプロレスでは同名の表現をするきっかけとなった(転じて、旋回しても飛ばないものは ソバットと表現する)。 サルト・モルタルをアレンジしたこの技の元祖。 メキシコ修行 サトル・サヤマ 時代に開発し、使用。 セカンドロープに片足を乗せるスタイルで、俗に タイガーマスク式と表現される。 スクリュー・ハイキック 別名: 回転延髄斬り。 一回転して跳び上がりつつ放つハイキック。 この技から水面蹴りで足を払うコンビネーションも時折、見せていた。 バック宙キック 別名: 回転地獄蹴り。 しながら膝ないし、膝下を叩きつける蹴り技。 ザ・マスク・オブ・タイガー時代に MOABとして復活させている。 フライング・クロスチョップ が得意とした飛び上ってクロスさせた両腕を胸板に打ち込むチョップ。 ただし、マスカラスのクロスチョップは相手と距離が離れてる状態で飛ぶが、タイガーマスクのクロスチョップは相手に当たる寸前に飛ぶ違いがある。 仰向けでダウンしている相手の頭側で背を向けて後方宙返りを行い、打ち込むニードロップ。 愛弟子であるへ受け継がれた。 ホールド 和名: 原爆固め。 デビュー戦のフィニッシュ技。 反り投げるのではなく、持ち上げて後方に突き刺すようなフォームから 高角度で決めた。 ホールド 和名: 猛虎原爆固め。 代表的なの一つ。 自身の手をクラッチせずに相手の背中に添えるスタイルで、俗に 佐山式と表現される。 別名: タイガー・ネックチャンスリー(ドロップ)。 2代目タイガーマスク()の同名技とは別技。 片足を振り子のように蹴り上げ、反動を利用してハーフハッチの要領でマットに相手の脳天を突き刺す。 に受け継がれた。 和名: 墓石式脳天杭打ち。 ダイナマイト・キッドとの抗争で会得。 主に飛び技への繋ぎ技として用いられた。 ライバル関係にあったのものとは、胴をクラッチし反転させて仕掛ける違いがある。 和名: 風車式背骨折り(風車式バックブリーカー)。 国内でのパイオニアの一人。 を始め、多くのジュニア選手に受け継がれた。 持ち上げて自身の身体を捻りつつ、相手に浴びせ倒すように叩きつける変形も使用。 PS用ソフトでは、上記、変形のフォームを再現したダブルアーム・プランチャが収録されている。 ブロックバスター のクラッチで横抱き状態のまま反り投げ、ブリッジをきかせてフォールに固める。 に勝利を上げたさい、唯一フィニッシュとして用いている。 そのままテコの応用で片脚を極めるレッグロックに派生する一連の流れ全体を指して同名で表現もされる。 スピニング・レッグロック 両膝をつきつつ、高速で行う単発型の。 3代目タイガーマスク()に受け継がれた。 たびたび、フィニッシュとしても用いられ、UWF時代にも使用された。 尻餅状態の相手へ仕掛けるタイプのものを使用。 和名: 月面水爆。 別名: 旋回式ボディプレス。 代表的なフィニッシュ・ホールドの一つでこの技の元祖。 名称については様々な説、憶測が飛んでいるため詳しくはを参照。 この技が生まれるきっかけとなったのはの映画 『』を見て思いついたため。 上記、ラウンディングボディプレスと混同されるが、縦回転式であり別技。 この縦回転式はが元祖を主張し、ムーンサルトプレスの名称が定着したが、実際にリングで初めに披露したのはジョージ高野である。 のフェニックス・スプラッシュに似た、振り返りざまの前方回転プレス。 ひねりを加えながら斜めに回転する点がやや違う。 実戦では未公開。 スペース・フライング・タイガードロップ 和名: 宇宙飛行虎爆弾。 ロンダートからノータッチでを仕掛ける。 時折、リング内でも同技を見せていたが、 フライング・ボディアタックの名称で実況された。 全盛期には、走り込んでノータッチで見舞う跳躍力を見せた。 時折、場外の鉄柵を超える勢いを見せて、あわや反則負け(当時のルールで)になりかけたことがある。 フィンタ・デ・レギレテ 別名: タイガー・フェイントキック。 飛ぶと見せかけてトップ・セカンドロープの間を回転してくぐり抜けるフェイント。 ここからプランチャ・スイシーダに派生するか、回転時に場外の相手を蹴り飛ばすこともあった。 タイガーステップ ルチャリブレのステップをベースとした、両腕を回しながらステップを刻みリングを旋回する佐山独特の構え。 タイガーマスクになる以前、サミー・リー時代から使用している。 修斗 [ ] 離脱後、(現・修斗)の創始者として日本の総合格闘技界をスタートさせた。 当時、などのはプロレスにおける裏技的なものであり、プロでも「技は教えてもらうものではなく盗むもの」という風潮があり、やられることによって逃げ方を覚え、後輩にかけて覚えるという感じで、技術体系が確立されていなかった。 しかし、佐山はそのプロの技を一つ一つ言葉で説明して体で実践して生徒(素人)に教えた。 これが現在の総合格闘技の源となっている。 しかし、1996年にフロントとのトラブルのため離脱した。 掣圏真陰流 [ ] とは、佐山が従来から提唱してきた、 市街地型実戦格闘技という名目で5月に創設された武道。 旧名・掣圏道。 10月29日、新たな武道である『武道 掣圏』の旗揚げ興行がで行われた。 これはやなどの格闘スポーツではなく、あくまで武道であるという定義を佐山はしている。 試合は三本勝負となっており、試合時にはとを着用する。 ロープのない八角形ので行われる。 ルールは・一本による決着のほか、対戦相手の場外への押し出しと制圧(3秒以上の抑え込み)にポイントが与えられ、これを2ポイント先取することでも勝利となる。 入場時にはを携えることが全選手の義務となっている。 また、礼儀を重んじると言う佐山の思想から、ガッツポーズや相手を見下す行為は即失格とし、金髪やを入れた選手は出場が認められない。 「義」を構築し、礼儀作法を備えた人間を育て上げ、ひいては日本を復活させると言う目標を持つ佐山の世界観がふんだんに現れたものとなっている。 それは日本の国体を崩す不良の輩やマナーとはかけ離れたものを子供たちに見せてしまう輩を輩出する大会ではありません。 (中略)これで日本が救われます」と語っており、この武道の究極的な目標は、堕落し、国体が崩れている(と佐山が考えている)現在の日本を救うこととしている。 思想活動 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年11月) 歴史や政治思想に精通し、「武士道追求」として独自に活動を展開している。 以前から「天覧試合をやりたい」(当時の「天覧試合をやりたい」という発言は、修斗を、プロ野球や大相撲のように天皇に見に来てもらえるような立派なプロ競技にしたいという純粋な気持ちであって、近年の右翼的な発言とは画する。 )「試合前はにおられる英霊に敬礼」「今の日本人にする精神はない。 こんな国では戦争には勝てない」等々の言動を繰り返し、戦前のを悪く言われると烈火のごとく怒ることは有名。 佐山が20年前から使用していた八角形のリング(オクタゴン)は、の玉座をイメージしたものであるという。 についても「警察力を強化して泥棒を減らしたり、良いこともたくさんした」等と評価しているため、部分的に肯定しているとも言われるが、佐山本人はこのことを否定している。 掣圏道設立後から佐山の思想活動が本格化し、のにから公認で出馬。 33,762票を獲得したが、落選した。 その選挙演説の際「暴走族を撃ち殺せ!! 」と発言し、市民の度肝を抜いた。 この参院選ではかねてから親交の深かった(元『』編集長・『』編集長)も出馬するが、1,596票の得票に止まり落選している。 こうした右翼的言動から、親しい人間は畏敬の念をこめて、 「・佐山皇帝」と呼ぶ。 本人は「俺をで騒いでいるような連中と一緒にするな」と言って、右翼と呼ばれることを嫌がっているが、系右翼団体であるとの交流を公言している。 子供の教育における体罰の必要性を主張するシンポジウム(主催は)に、や、、などと共に参加したことがある。 人物 [ ]• 時代は華麗な空中戦を披露し、でもその高い身体能力を生かした闘いは他を寄せ付けなかった。 軽中量級の格闘技が発展した現代の総合格闘技ムーブメントには、佐山の果たした功績も大きい [ ]。 「を刺激すると、人間は達観できる」という持論を持つ。 を自由に操り、ダイエットも自由自在であると称しているが、自らのダイエットには幾度となく失敗している。 ただこれは、俗流の「精神分析」なため、専門家から全く科学的根拠がなくイカサマだと酷評されている。 かなりの甘党。 「をのように食べる」、「のスパーリング中、コーナーに小銭を置いておき、ラウンドが終わる度に自動販売機に向かう」、「山篭りで10kg減量したが、下山してしばらくすると元に戻ってしまった」、「と喫茶店に行き、甘いものばかり注文して1万円近く払った」等、甘い物に関するエピソードは多数存在する。 このため、新日本から退いた後に体重が急増し、今日でもジュニアヘビー級の体重に戻らないままである。 戦での記者会見で「95まで絞る」と言っていたが、結局絞りきれなかった。 しかし、小林邦昭戦では相手から減量の注文があったようで、116kgあった体重を100kg前後まで減量させることに成功している。 2012年8月28日に行った記者会見で、佐山は「今107kgだが97kgに減量する」と宣言した。 しかし、佐山が会場でを頬張っていたことが報道陣に目撃されており、そのことについて言及された佐山は「試合前には炭水化物が必要。 試合への責任を持って食べる使命があった。 4個しか食べていません。 赤福餅はおいしい」と弁解した。 丸藤からは「それを2個にしていけば、おのずと減量できる」とつっこみを入れられた。 普段は物腰柔らかで非常に言葉遣いが優しく、笑顔を絶やさない人柄であるが、キレると鬼の如く豹変する。 礼儀の知らない若者は勿論のこと、自分より体格が大きい黒人が相手であってもその姿勢を決して崩さない。 その様な場合でも、佐山は天才的な喧嘩の腕でほとんど負けたことがなかったという [ ]。 新日本時代、道場に時折現れるの相手をするのは主に佐山の担当であったが、そのことごとくを退けた。 同様のでは「前田も強かったが、笑顔で人間の腕をへし折れるのは猪木以外では佐山だけだった」とは語っている。 創設期、91年の夏合宿の様子がテレビ番組で放送されたことがある。 プロレスを芝居と称して(後述)真剣勝負を謳っていた同団体のイメージに違わず、佐山が弟子を「本気で蹴っていない」という理由でで滅多打ちにし、流血する弟子が出るなど、峻厳な練習風景が撮られている。 途中、カメラマンが「こんなところを撮るな!! 」と極めて強い口調で恫喝されており、真剣味のある映像となっていた。 しかしその一方で、強く打たなくても大きな音が出るよう中結を外した竹刀を使う(これは折れやすかったため、後に木刀になった)、恫喝されたカメラの映像が派手な効果音と共に途切れる、随所に佐山の音声解説が入る、等々、若干ヤラセ色も感じられるものとなっている。 これについて、後に佐山は「テレビ演出のためいつもより厳しく叱咤し折檻した」と語っている [ ]。 格闘技界に幅広い人脈を持ち、特にのは新日本時代からの親友。 藤原主宰興行ではも行っている。 退団時、と共に著書『』を出版、プロレスの試合において必殺技として使用されている、といった技は、対戦相手の協力なくしては半永久的に成立しないことを暴露した。 また、月刊誌『フルコンタクトKARATE』やミニコミ誌『格闘技探検隊』のインタビューに答える形で、らが創設した第2次UWFについても既存のプロレスの範疇を越えるものではなく、本物の格闘技でありスポーツでもあるシューティングとは根本的に異なるものと明言した。 これらが原因となり、一時期プロレス界とは絶縁状態にあった。 また、の主宰者時代、その試合場で新日本プロレスでの獣神サンダー・ライガー戦(実質的なプロレスマット復帰戦)を指し「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせたことがある(エキシビションマッチだったのだから、その通りという解釈もあり得る)。 とタッグを組んで奪取した、の「3億円ベルト」の行方に関しても、「知らぬフリ」を決め込むという金銭疑惑も浮上している。 UWF特有のシューティングという格闘技スタイルが猪木の門下レスラーでカール・ゴッチに感化された佐山、藤原、前田の三名によって創始されたことは否定しようのない事実であるが、佐山がその技術的な中軸であった。 「大根役者だから」と本人はあまり語りたがらないが、何本か映画に出演している。 原作の『六本木ソルジャー』では主演を務め、『真説・タイガーマスク』ではと共演した。 また、『』のオーディションに合格していたが、「拘束時間が長いから」という理由で辞退している。 新日退団後、全日本からオファーを受けたが(馬場が提示した金額は1億とも2億とも言われている。 この時代でさえ1億円プレーヤーはまだ出ていなかった)、たとえ新日を辞めたとはいえ、猪木に恩を仇で返すことはできないという理由で、オファーを断った [ ]。 2006年ので行われたとの対談によると、既婚者で息子がいるとのこと。 現役時代の身体能力に関しては、背筋力は296kg、100m走は11秒5、太ももの負荷測定は370Nm、反応力は0. 3秒を記録した。 全盛期は体重も軽くパワーもそれほど高くないタイプであったが、1975年12月の新日本の忘年会で腕相撲を行うと並み居る選手達に対して圧倒的な強さを見せつけた。 ミスター高橋は、瞬発力や運動神経に優れ、腕相撲の「コツ」を掴んでいたことが佐山の腕相撲で強さを発揮した要因なのだろうと考察しており、さらに「最強かもしれない」と腕相撲の実力を評価した。 「佐山さんが朝日昇という名前を付けたのに普段は『あさのぼり君』と呼ぶ。 滅茶苦茶で酷い。 真面目に生きた人は耐えられない。 久々に会ったら『あさのぼり君、時代は催眠術だよ』と言われて、次元が違う。 天才」• 朝日昇、川口健二「スーパータイガージムには生徒が沢山いたため佐山さんは会員の名前が覚えられず、風貌のイメージで仇名で呼んでいた。 何とか苗字を覚えられても下の名前が覚えられない。 佐山は大会開催時に伊藤という選手の下の名前が分からないため本人に知らせずに「伊藤四郎」にしてしまい、パンフレット載せてしまった。 伊藤は試合場の控室でパンフレットを見てショックを受けたが他選手は大爆笑した。 佐山の弟子 [ ] プロレスラー• - 初代ウェルター級チャンピオン。 - 出身、スーパータイガージムのインストラクターも務めた。 (4代目) - 出身、現所属。 - 歴代の弟子の中でもかなりの強烈な趣味を持つ。 や武道 掣圏などに出場している。 斉藤彰文 - 間下同様に、武道 掣圏に出場している。 その他にリアルジャパンプロレスで活動している、、など。 格闘家• 渡部優一 - の存在。 ウェルター級初代王者。 朝日昇 - 修斗時代の側近• - の最高指導者。 時代の佐山の指導を受けていた。 - 日本国内のの最高指導者。 修斗時代の佐山の指導を受けていた。 田中健一 - 修斗ライト級初代王者。 スーパータイガージム田中塾代表。 - 10月現在、日本のメジャー興行の参戦経験はないが、総合格闘技やキックボクシングの興行でも多数試合をしており、マルチに活動している。 ファッションスタイルはである。 - 無き以降は、総合格闘技の興行を中心に試合をしている。 - 佐山の数少ない女弟子。 桜木裕司、瓜田幸造。 この2人の共通の特徴は、選手コール時にをすることである。 これは「試合前にはの英霊に敬礼せよ」という佐山の教えに基づくものである。 現在の直系の弟子はその他にも大数といるが、マスコミの前で露出的に第一線で活躍している弟子は上記に記した人物のみである。 入場テーマ曲 [ ]• 「バーニング・タイガー」(ブレイン・ウォッシュ・バンド) - タイガーマスクのデビュー戦で使用。 ただし生演奏。 「タイガーマスク二世」(、)- 1981年夏頃までと1982年前半に使用。 「おまえは虎になれ」(村松とおる)- 1981年9月の田園コロシアム大会から年末まで使用。 現在は弟子のが使用。 「燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク」()- 1982年後半から1983年の引退まで使用。 「バーニングタイガー」(佐山聡) - 本人歌唱(入場曲の予定も、実際は本人が恥ずかしがって使用されず)。 「アイ・オブ・ザ・タイガー」() - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時に使用。 「虎覇王(ヴィクトリーロード)」() - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時のイメージ曲であり、入場時には使われていない。 「行け!タイガーマスク」() - アニメ「タイガーマスク」のオープニング曲であり、現在の入場テーマ曲。 著書 [ ] 単著 [ ]• 『佐山聡のシューティング入門』(1986年8月、)• 『ケーフェイ』(1995年7月、ナユタ出版会)• 『これがサンボだ! 』(1998年3月、、監修:)• 『佐山聡の掣圏道』(2000年12月1日、ぴいぷる社)• 『佐山原理 新生武道真陰』(2010年10月、)• 『「リアル不動心」メンタルトレーニング』(2014年12月23日、講談社) 共著 [ ]• 、、ほか『新日本プロレス10大事件の真相』(2015年4月17日、) 関連書籍 [ ]• 『初代タイガーマスク Ultimate Guide』(2015年2月25日、ダイアプレス)• 『KAMINOGE vol. 44 不死身の虎! 佐山サトル』(2015年7月18日、東邦出版、編集:編集部)• 『KAMINOGE vol. 52』(2016年3月22日、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)• 『KAMINOGE vol. 64』(2017年3月21日、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)• 『初代タイガーマスク G SPIRITS ARCHIVES vol. 1 』(2018年2月21日、)• 田崎健太『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』 (2018年7月26日、) 脚注 [ ]• レジェンド・ザ・プロレスリング公式サイト• 新間寿の我、未だ戦場に在り! <獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p62• 新間寿の我、未だ戦場に在り! <獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p63• 40』P16(2016年、、)• 東邦出版『KAMINOGE』vol. 64 p100-101• 東邦出版『KAMINOGE』vol. 64 p104• NHKドキュメンタリー「アナザーストーリーズ 運命の分岐点『 タイガーマスク伝説~覆面に秘めた葛藤~』」. 2016年10月5日(水 放送。 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り! <獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p68• Wrestling-Titles. com. 2011年10月2日閲覧。 Wrestling-Titles. com. 2011年10月2日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2014年9月11日閲覧。 Cagematch. net. 2017年11月23日閲覧。 Wrestlingdata. com. 2014年9月11日閲覧。 The History of WWE. 2013年1月5日閲覧。 塩沢幸登『U. F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、河出書房出版、2008年、50-51・69頁• 塩沢幸登『U. F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、64頁• 塩沢幸登『U. F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、80頁• 『Gスピリッツ Vol. 15』P49(2010年、辰巳出版、)• デイリースポーツ. 2010年10月21日. 2011年1月20日閲覧。 2015年5月28日• 日刊スポーツ 2020年2月19日17時55分(2020年3月2日閲覧)• 闘魂Vスペシャル vol. 36の「金本浩二VS高岩竜一」戦の田中ケロの解説より。 柳澤健『1984年のUWF』、文芸春秋、2017年、pp. 395-396• スポーツナビ. 2010年10月29日. 2011年1月20日閲覧。 格闘技ウェブマガジンGBR. 2010年5月7日. 2010年5月8日閲覧。 格闘技ウェブマガジンGBR. 2010年10月8日. 2010年10月10日閲覧。 公式サイト. 2010年5月13日閲覧。 初代タイガー減量宣言も「赤福うまい」 デイリースポーツ 2012年8月29日 2012年9月5日閲覧。 マッハチャンネル 2019年1月19日公開• 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り! <獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p64• ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。 116-117• 日本語. 週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]. 2018年8月16日. 2018年9月10日閲覧。 関連項目 [ ]• - 若手時代に数回モブ役で出演• 外部リンク [ ]•

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