ジョンレノソ。 ジョン・レノソより

山下真治

ジョンレノソ

概説 [ ] ビートルズを立ち上げたであるほか、と「」としてソングライティングチームを組み、多くの楽曲を製作しメイン・ヴォーカルを務めた。 1970年のビートルズ解散後はアメリカをおもな活動拠点とし、ソロとして、またでのとともにとしても活動した。 1975年から約5年間音楽活動を休止したあと1980年に活動を再開するも、同年12月8日23時ごろ(米国東部時間)にの自宅「」前においてファンを名乗る男性に射殺された。 代表曲 [ ] 『』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。 ビートルズ時代には、「」「」「」、リード・ボーカルをとる「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」を発表した。 また、ソロ時代は「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「」などを発表した。 カバー曲の「スタンド・バイ・ミー」「ビーバップ・ア・ルーラ」も出している。 生涯 [ ] ジョン・レノンのサイン 生い立ち [ ] 幼年期 [ ] 18時30分、のによる空襲下に置かれたで誕生。 出生時、アイルランド系の父・アルフレッド・レノン(1912 - 1976)はの乗組員 として航海中で不在。 母・ジュリア(1914 - 1958)も他の男性と同棲していたため、母親の姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級のメアリー(1903〜91)夫婦に育てられる。 ミドルネーム(ウィンストン)は当時のの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ。 ジョン・レノンは、伯母夫妻が中流家庭であった。 ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。 1946年、父・アルフレッドが帰国し、父親に引き取られて数週間一緒に暮らしたが母・ジュリアがジョンを連れ戻す。 しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。 父は蒸発した。 ビートルズ・デビューまで [ ] 少年時代 [ ] 実の両親に育てられなかったためか、少年時代は反抗的でけんか騒ぎを起こすことが多かったという。 1952年9月、のクオリー・バンク校に入学した。 1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージ(1903 - 1955)が死去した。 ジョン・レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた。 さらにジョンは1956年、の「」を聴き、の洗礼を受け、初めてのギターとなるを新聞の通信販売で購入した。 このころ、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。 夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。 1957年、第1作にあたる「」 を作曲。 当時からギター・ヴォーカルを担当していた。 ポール、ジョージとの出会い [ ] 3月、クオリー・バンク校で、級友たちとバンド「」を結成した。 ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンの教会で行ったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにを紹介される。 10月18日にポールはクオリーメンに加入した。 、、などのに夢中になった。 1958年2月、ポールにを紹介される。 まもなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。 母の死 [ ] 1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった。 母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母をで亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。 1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで (Liverpool College of Art)に入学する。 そこで最初の妻となると出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになった。 ハンブルク時代 [ ] このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツののクラブなどでも演奏活動を始めている。 このころ、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターを購入。 1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、がメンバーに加わりヘフナーNo. 333ベースを演奏した。 なお、ボブ・ディランがビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた。 1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。 ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた。 またジョンはこのとき、の加入の希望を断っている。 なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳でのため死去した。 6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手のバック・バンドとして「」などの曲を録音した。 ブライアン・エプスタインとの出会い [ ] 1961年12月、ジョンたちは「」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のとマネージメント契約を結び 、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。 1962年元日に、のオーディションを受けるが不合格。 6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。 8月16日にピートを解雇した。 以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるが8月18日に加入した。 10月5日、「ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。 最初の結婚 [ ] 1962年8月23日にと結婚。 しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた。 1963年4月8日に長男・が誕生した。 しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいか分からなかった。 「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方が分からないんだ』とジョンに質問された」とポールは述べている。 ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。 僕らはいい友人だった。 そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。 ヒッピー文化の影響を受けたジョンとビートルズのメンバーは、ドノヴァン、マイク・ラヴ、ミア・ファーロウ、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている。 キリスト発言 [ ] 詳細は「」を参照 1966年3月4日、 ()紙の ()とのでジョンは次のような発言をした。 「は消えてなくなるよ。 そんなことを議論する必要はない。 僕は正しいし、その正しさは証明される。 僕らは今やよりも人気がある。 ロックン・ロールとキリスト教。 そのどちらが先になくなるかは分からない。 イエスは正しかったさ。 だけどたちがバカな凡人だった。 僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」 この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部の的団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。 局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのやグッズが燃やされた。 およびはジョンの言葉を非難し、はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。 最終的に、1966年8月11日にジョンはで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。 「僕がもし、"がイエスより人気がある" と言ったなら、何事もなかったかもしれない。 あの発言には後悔してるよ。 僕はに反対しないし、でもなければ反でもない。 僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。 僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。 僕はビートルズがイエスよりよくて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしてない。 僕は僕が話したことは間違ってたと話したし、話したことは悪く取られた。 そう言ったことが間違って解釈された。 」 ジョンとヨーコ:ベトナム反戦運動 [ ] 1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止したあと、ジョンは映画『』に出演した。 11月にはロンドンので、彼はのちに2人目の妻となる小野洋子に出会う。 美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたこともあり、ジョンは日本や東洋文化に興味を持ち、やの概念に強い好奇心を寄せていた。 これを色濃く反映させた小野洋子のアートに強い興味を示した。 小野洋子の個展に出かけたレノンが見た小野洋子の作品に、YESという言葉を虫眼鏡で見る仕掛けがあり、レノンがそれをいたく気に入った逸話は有名である。 2人は同年の『』の期間に小野洋子の個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。 ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、小野洋子と文通していた。 5月、小野洋子への思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。 シンシアとは7月に申請、11月8日に離婚が成立した。 「平和を我等に」を歌うジョン・レノン 1969年 1969年3月にジョンとヨーコはで挙式し、で訪れたとで「」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。 結婚後まもなく、ジョンは「ミドルネームのWinston をOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められなかった。 パスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。 彼らは多くのから奇妙なとして格好の餌食にされる一方、運動における重要人物ともみなされるようになった。 また、団体の ()と関係を持っていたことからの監視対象にもなっていた。 1969年以降は、ジョンはヨーコとともにとしての活動やに対する反対と平和を求める活動に参加した。 イギリスのベトナム戦争支持を受け、大英帝国勲章を返上。 「」や「ドングリ・イヴェント」 (ともに1969年) などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 「War Is Over If You Want it 」(1971年)の街頭広告を行った。 69年にジョンは、カリフォルニア州知事選挙出馬を発表したを支援する目的で「」を発表した。 ティモシー・リアリーは、共和党右派のロナルド・レーガンに対抗して出馬しようとしたが、結局出馬できなかった。 「カム・トゥゲザー」については、の曲の権利を所有するモーリス・レヴィがジョンを相手どって訴訟を起こしている。 レヴィの言い分は、「カム・トゥゲザー」がチャック・ベリーの「」の盗作であるというものだった。 裁判は結局、和解で終結。 ジョンがアルバムの中にチャック・ベリーとのカバー曲を収録することが条件となった。 なお、この件の後もジョンとチャック・ベリー本人の関係は途切れず、のちに共演もある。 ピーター・バラカンは2つの曲について「盗作というほど、ひどく似ているわけではない」とラジオ番組で論評した。 ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『』『』『』の3作のアルバムを発表した。 また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『』(1970年)、『』(1971年)、『』(1972年)、『』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。 2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『』(1972年)、『』(1980年)、『』(1984年)が発表された。 ソロ・キャリア [ ] ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。 1969年から1976年まで(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。 名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。 初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いである、ドラムはまたは、ピアノはが担当することが多かった。 1969年、シングル『』『』を、12月にはで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。 このライヴにはクラウス・フォアマン、、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像は『』に収録されている。 1970年代 [ ] ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのも参加した『』を発表、『』とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。 1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカの博士が提唱した精神療法であるを受けた。 約半年後、ビートルズのメンバーであった(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにを迎え、アルバム『』を制作し発表した(米6位、英8位)。 「」がシングルとして発表された。 1971年6月、アルバム『』の制作を開始した 発表は10月。 ここでは(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、(サキソフォーン)らが参加した。 米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。 9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、のアパートで暮らし始めた。 ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。 ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。 大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家の救済コンサートへの出演、の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)なども行った。 ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。 大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。 ニクソン時代のFBI長官とについては、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている。 このような理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた。 1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。 この様子は、動画サイトに残っている。 1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛すると共演した。 5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。 6月発表の次作「」は(ニューヨークのローカル・バンドのがバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、、のについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするとの合成写真が使われた。 1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークので行い、とは「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「」を披露した。 このコンサートのもようは「」として1986年に発表された。 9月にの患者のためのテレビ番組に出演した。 1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。 また、リンゴのソロ・アルバム『』に参加し、「」を提供。 ジョージ、リンゴと共演した。 11月、アルバム『』を発表した。 その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、個人秘書のメイ・パンとともにで生活を始め、いわゆる「」をリンゴや、のらと過ごした。 この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。 1974年3月からはハリー・ニルソンの「」をプロデュースした。 同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『』を発表した。 このアルバムは、誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。 また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「」でと共演した。 ハリー・ニルソンとも「」を共作した。 このアルバムからは11月に「」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。 同時期、ビートルズ時代の「」をエルトン・ジョンと共演した。 同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。 その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「」「真夜中を突っ走れ」で共演した。 コンサート後、ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には「失われた週末」を終えてヨーコのもとへ戻った。 この時期にはさらにの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。 長く未発表で、2007年発表の「」に収録された。 また、リンゴのアルバム『』にも参加し「」をプロデュースした(全米6位)。 1975年2月、カヴァー・アルバム『』を発表。 ここからは「」のヒットが生まれた。 と知り合い、ボウイの『』(3月発表)でビートルズ時代の「」を共演、さらにボウイ、と「」を共作し、コーラスとギターで参加した。 この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。 ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。 ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。 6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。 10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。 10月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。 1976年にリンゴのソロ・アルバム『』に「クッキン」を提供したあと、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。 7月27日にアメリカの永住権を取得した。 その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。 その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『』で発表されている。 1980年代 [ ] 1980年にはジョンは、友人のデヴィッド・ピールのアルバム『ジョン・レノン・フォー・プレジデント』に作曲で全面参加した。 80年6月にはで、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。 最後の年、ジョンは、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「」を気に入っていたという。 ショーンが、偶然友達の家で観た映画『』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタビューの中で否定している。 1980年11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『』(米1位・英1位・日1位)を発表した。 このアルバムからは「」(米1位・英1位)、「」(米1位・英1位)、「」(米9位)などの大ヒット曲が生まれた。 アルバムも全世界で500万枚以上セールス)。 没後、1982年の年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。 音楽性の発展 [ ] ビートルズ時代 [ ] 1960年代、はポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。 ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。 ジョンのこうした作風と、ポールの明るくポジティブな作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。 ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。 ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「」「」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。 ポール作曲の「」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、ポールの楽天的に聴こえるメロディーに、ジョンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした。 ビートルズ中期には、ドラッグとの影響から、幻想的で色の強い作品が増える。 「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。 1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。 全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。 後期は単独作が増え、「」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「」のような美しいメロディーを持つ曲や、「」「カム・トゥゲザー」「」のようなの曲を発表した。 ソロ時代 [ ] こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルなの進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「」のような曲を発表している。 そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも創作された。 また「」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」「」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「」へと発展した。 さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「」(1973)における本格的なの導入へと至った。 1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある。 「心の壁、愛の橋」の「」ではビートルズの「」の通作形式 を踏襲した楽曲構成を行った。 わずか15分で書かれたといわれる「」は、単純ながら、最終部で半音階上昇など(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。 曲の着想はビートルズ時代の「」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている。 編曲・プロデュース [ ] 「レット・イット・ビー」でのによるアレンジを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」とソロ前期の「ジョンの魂」「イマジン」でスペクターをプロデューサーに起用した。 スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた「」(Wall of Sound: 音の壁)とも形容される厚い音による編曲で知られている。 しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた。 ソロ後期の「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」、復帰後の「ダブル・ファンタジー」では、セルフ・プロデュース(「ロックンロール」では一部をフィル・スペクターが担当、「ダブル・ファンタジー」は、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった。 これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言(、など)がある。 「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、などによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し 、大人向けのロックを創造した。 ビートルズ以来の作曲語法となったベースの 、的なアプローチも取り入れている。 「心の壁、愛の橋」ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。 また、を効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、の効果を意識していたことが伺える。 ポール・マッカートニーとの関係 [ ] ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。 解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり 、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話して口論になったりするなど深い確執が存在したが、ビートルズのとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かうなか、1970年代も中ごろになると、マッカートニーが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。 また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「」や「」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。 現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカバーするなどしている。 ポールがジョンの家を訪れたある日、テレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。 2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。 これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。 実現はしなかったがポールは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と述べている。 またジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。 他の奴が言うのは許さない」と発言した。 ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。 またジョンが殺害された1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。 ポールとヨーコだ。 それはとてもよい選択だった」 と述べている。 同世代・次世代のミュージシャンへの影響 [ ] ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。 ジョンが影響を与えたミュージシャンとして、同僚のポールとジョージ、、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クィーンらが挙げられる。 ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。 反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。 ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。 ピストルズの方向性が決まった」と語っている。 同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。 クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。 僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。 はローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている。 U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はジョンの同名曲にインスパイアされたものである。 Nowhere誌の中で、元のは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。 は「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」ほど好きだと述べている。 1995年発売のジョン・レノンのトリビュート・アルバム『』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。 また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たの一種の開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。 日本との関わり [ ] としての初訪日以降も、と頻繁に訪日した。 アルバム『』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している。 また、2人でを観劇し、感涙したという。 その際にの楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している。 1977年から1979年には、ヨーコ、と毎年訪日し、東京や京都、小野家の別荘があるで夏を過ごした(合計約9か月)。 軽井沢ではの旧館2階にも宿泊し、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている。 の知己としては、ビートルズとして訪日時にともにインタビューを受けた(初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのジョン夫妻のもとで過ごした時期のある 、訪日時に食事をともにした・夫妻、(当時)のらが挙げられる。 また、のとジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、のラジオインタビューを受けている。 のは、アルバム『』『』のカバー写真を撮影している。 日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。 アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。 シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。 来日時には頻繁に妻のとを訪れ参拝していた。 ジョン・レノン殺害事件 [ ] レノンの自宅のあったダコタ・ハウス フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだあと、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「」へ出かけた。 一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。 この最期のインタビューで、ジョンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。 そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている。 22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったがアパートの前に到着した。 2人が車から降りたとき、その場に待ち構えていたが暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた!(I'm shot! )」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。 警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。 警官の到着時、ジョンはまだかすかにがあったが、一刻を争う危険な状態であった。 そのため、2人の警官が彼をの後部に乗せ、近くのに搬送した。 1人の警官が瀕死に陥っていたレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で「俺はジョン・レノンだ。 背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。 病院到着後、医師はとを行ったが、レノンは全身の8割のを失い、によりルーズヴェルト病院で23時すぎに死亡した。 満40歳没(41)。 レノンの死亡時に病院のから流れていた曲はビートルズの「」だったという。 事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた「ダブル・ファンタジー」を放り出し、警官が到着するまで『』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。 彼は時にも抵抗せず、"I just shot John Lennon. "(ええ、僕がレノンを撃ったんです)と自分の単独犯行であることを警官に伝えた。 被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かってるのか?」と聞いたときには、「悪かった。 君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。 病院でレノンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠っているということ?」と質問したという。 のちに病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。 レノンの殺害に関して、レノンの反戦運動やその影響力を嫌った「関与説」などのも推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。 ニューヨーク州法に基づいてチャップマンにがあり得るが下った。 チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2018年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、レノンの遺族が釈放に強く反対していること、もし釈放されたらレノンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2020年現在も服役中である。 ダコタ・ハウスからすぐのにあるレノンを偲ぶ「イマジンの碑」 この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。 に滞在中だったリンゴはのちに妻となる女優のとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。 ブライアン・フェリーとロキシー・ミュージックは「ジェラス・ガイ」を、ポール・マッカートニーは「」を、ジョージ・ハリスンは「」(ポール、妻、、がバック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。 また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。 ビートルズと人気を二分したのギタリスト、は「ジョンを殺した犯人に対して憎しみが薄れる事はなく、増すばかりだ」と述べた。 キースの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していた。 日本ではにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催である追悼集会がで行われ、「心の壁、愛の橋」のフォト・セッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。 その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。 ディスコグラフィ [ ] 音楽作品については を参照。 旧 東芝EMI リリース作品についてはも参照。 映像作品 [ ] フィクション [ ]• - LENNON LEGEND(2003年)[DVD] ライヴ演奏 [ ]• - (2008年) [DVD]• 『』(2000年) [テレビ映画]• ( (2010年) [テレビドラマ] 書籍 [ ] 自著 [ ]• 『絵本ジョン・レノンセンス』 、加藤直訳 1975年12月 のち筑摩書房(ちくま文庫)2011年 のち晶文社 新版 2013年11月 - (1964年)• 『らりるれレノン ジョン・レノン・ナンセンス作品集』 訳 2002年12月 - (1965年)• 『Ai ジョン・レノンが見た日本』(序:)筑摩書房()2001年12月 - Ai: Japan Through John Lennon's Eyes: A Personal Sketchbook (1992年)• 『リアル・ラヴ ショーンのために描いた絵』(序:オノ・ヨーコ) 2000年5月 - Real Love: The Drawings for Sean (1999年)• 『』ザ・ビートルズ・クラブ、訳 2000年9月 - The Beatles Anthology (2000年) インタビュー [ ]• ヤーン・ウェナー著 訳『ビートルズ革命』 1972年4月 のち改題『回想するジョン・レノン : ジョン・レノンの告白』新版 1974年6月 のち改題『レノン・リメンバーズ』(序:)同社 2001年7月 - Lennon Remembers: The Full Rolling Stone Interviews from 1970 (2000年)• アンディ・ピーブルズ著 訳『All that John Lennon』 1981年2月 のち改題文庫版『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』同社()2001年11月 - Lennon Tapes Paperback (1981年)• 『ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980』 編 2018年3月 Lennon on Lennon: Conversations with John Lennon (2016年) 第三者による伝記 [ ]• 著 江口大行、シャーロット・デューク共訳『素顔のジョン・レノン : 瓦解へのプレリュード』 1981年4月 - A Twist of Lennon (1980年)• レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 1986年8月 - John Winston Lennon Volume 1 1940-66 (1984年)• トニー・ブラッドマン著 坂本真理訳『ジョン・レノン : 愛こそはすべて』(解説:)佑学社 1987年11月• ケヴィン・ホウレット、マーク・ルイソン著 訳 『ジョン・レノン IN MY LIFE』 1991年11月• マイケル・ホワイト著 訳『ジョン・レノン 』 (伝記 世界の作曲家12)1999年4月• レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 2002年5月 - Lennon: The Definitive Biography : Anniversary Edition (2000年)• ジェフリー・ジュリアーノ著 遠藤梓訳『ジョン・レノン : アメリカでの日々』 2003年11月 - Lennon in America: 1971-1980, Based in Part on the Lost Lennon Diaries (2001年)• 著 吉野由樹訳『ジョン・レノンに恋して』 2007年3月 - JOHN (2005年)• メイ・パン著 山川真理訳『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド : Instamatic Karma』 2008年11月• ジョナサン・コット著 訳『忘れがたき日々 : ジョン・レノン、オノ・ヨーコと過ごして』 2015年12月 主な使用楽器 [ ] アコースティック・ギター [ ] アルバム『』の・セッションからメインに使われた。 ジョージも使用しており、ジョージが所有していたものを借りたという説があるが、ジョンとジョージがこのギターを同時に持っている写真が確認されている。 ・ 映画『』の「」演奏シーンにも登場したギター。 ・D-28(Martin D-28) 2台の所有が写真で確認され、1台目はポールと同時期のもので67年製、 もう1台は解散後に入手したものであろう1950年代中期から後期のものである。 エレクトリック・ギター [ ] ・クラブ40(Hofner Club40) ジョンが初めて入手したエレキギター。 1959年製。 ショートスケール。 1959年にジョンが伯母のミミと一緒にリバプールのフランク・ヘッシー楽器店に行き、分割払いで購入した。 2台目のリッケンバッカー・325を手に入れると、ジョンはクラブ40をしばらくポールに貸したあとに売却した。 (Rickenbacker 325)(1本目) ジョンが初めて入手したリッケンバッカー。 1958年製。 ショートスケール。 元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・ヴァイブローラがつけられていた(のちにビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。 をハンブルク巡業で見て影響されて購入した。 1962年後半にはブラックの塗装を施し、1964年までメインギターとして使用。 その後2本目のリッケンバッカー・325に移行してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、「」の収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。 しかし近年になり、ジョンが保管し続けていたことが判明。 1970年代初頭にブラックから、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。 ピックガードもオリジナルは1964年時点ですでに割れが生じていたためか、白い製のものに交換されていた。 この状態で、2000年10月9日から2010年9月30日まで、内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。 また、2002年にはリッケンバッカー社からジョンが購入当時の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。 当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器をおもに扱っているギター・ショップ「with」でリペアを担当する大金直樹に依頼。 大金がジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。 現在は生産終了となっている。 リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目) 2本目のリッケンバッカー。 1964年の初訪米の際に入手。 当初はジョージの360-12と同様、赤色系のぼかし(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ファイア・グロー」)だったが、ジョンがブラック(ジェット・グロー)を希望したため、急いでリフィニッシュされた後、マイアミでの「エド・サリヴァン・ショー」出演時より使用。 1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームがついているなど、細かい点で仕様が異なる。 ネックは、3ピース・メープル・ネック。 1964年のクリスマスショーの最中にジョンが落としてしまい、ネックが破損する。 1965年いっぱいまでメインギターとして使用された。 1967年の「サージェント・ペパーズ〜」レコーディングセッション中にスタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。 1本目のリッケンバッカー・325とともに、ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。 裏から見ると、ネック裏の傷がはっきり見て取れる。 また、ビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左の側面にテープで貼られたままになっている。 リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目) 1965年、ポール・マッカートニーに贈られたベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じて提供されたもの。 当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。 仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやジョージ・ハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。 1965年のイギリス公演で2本目と併用された。 使われなくなった1966年以降、リンゴ・スターに譲渡された。 リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12) ジョンが、リッケンバッカー社に特注した、325の12弦タイプ。 1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」。 本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アームつきだが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームがついていないにもかかわらず325-12となっている。 1964年より、末尾に5がつくモデルはアームつきであることが徹底されたため、320-12と改番された。 現在はオノ・ヨーコが所有。 (1本目) 1962年9月にジョージと一緒に購入した。 ボディ・カラーはサンバースト。 ボディ・シェイプはと同じだが、ネックのジョイント位置が異り、ボディ内部の構造も異なる。 J-45がXブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。 ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とはまったく違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが2つあるタイプ。 ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。 そのため生音で鳴らした場合、通常のより鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音であり、ビートルズ・サウンドの大きな要素となっている。 カヴァーのないピック・アップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってなどへ出力する。 この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。 1963年末に紛失。 当時は盗難説と破損説があり、ジョンは盗まれたと発言していたが、ジョージは「運搬中のの荷台からケースごと落下しバラバラになった」と発言していた。 実際には盗難されており、カリフォルニア州在住の男性が中古店に転売されていたジョンのギターを購入していた。 2015年にこのギターはアメリカで発見され、ビートルズ専門家の鑑定の結果、ジョンの使用していた現物であると正式に認定され、その後オークションにかけられ、約3億円という価格で落札された。 ちなみに最近の調査で、現在ジョージの遺族が保管するジョージのJ-160Eは、元々購入時にはジョンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明した。 この2本はまったく同じ仕様であったため、いつの間にか互いのギターを取り違えて使っていたようである。 ギブソン・J-160E(2本目) 2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。 大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスチック製になる。 ジョンが生涯愛したギターである。 1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。 1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらとともに塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。 ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取りつけられた。 1969年のベッド・インのときには、ボディにジョンとヨーコの似顔絵イラストが描かれていた。 「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のが展示されていた。 実物はアメリカ・にあるに展示されている。 ボディ・カラーは、ソニック・ブルー。 主に『』のレコーディング・セッションで、ヴォックスAC30に繋いで使用。 映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ジョージ・ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデル(さらにリフィニッシュして「コンサート・フォー・バングラデシュ」で使用)のボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。 1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。 以前から同器を使用していたポール・マッカートニーに勧められ、ジョージ・ハリスンとともに1965年に購入。 ジョージのカジノとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。 同年の「ラバー・ソウル」セッションにおいて使い始め1966年からはジョージと共にコンサートでのメインギターとしても使用。 日本公演でも使用した。 元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の「サージェント・ペパーズ〜」レコーディングセッション中に、ボディ裏面を白くスプレーしている。 同年の「愛こそはすべて」の衛星中継リハーサルにて、ジョージがこのギターを借りて使用している(本番では自身のストラトキャスターを使用)。 翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」レコーディング直後にボディのサンバースト塗装をはがして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。 このころビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ジョージ・ハリスンのカジノとポール・マッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。 同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。 その後、1971年の「イマジン」レコーディング・セッションまで使用。 その後、コレクションとして大切に保管していた。 ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。 そのため、音が若干柔らかめになっている。 ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブとともに展示されていた。 1971年、ニューヨークに移住してから入手。 当時ジョンは、をはじめとしたレゲエに心酔しており、マーリーが同じモデルを使用していたため、それにならって入手したという。 ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、ジョンのギター・サウンドにおける指向が窺える。 フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。 カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。 アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』レコーディングや、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、1972年8月30日にニューヨークので行われたチャリティ・コンサート「ワン・トゥ・ワン」での使用がもっとも有名。 ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。 また、実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、やの後藤正文らが愛用している。 アンプ [ ] ・AC30(VOX AC30) ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期ではなどのアンプと併用)のレコーディングにおいてもっともよく使用されたアンプ。 を使用しているため独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。 なおライヴでも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSR(PA)システムでは巨大な会場でのライヴには向かなかった。 ヴォックス・AC50(VOX AC50) ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC100, VOX AC200) ライブにおいて観客からほとんど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライヴのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。 100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。 ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。 1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。 現在は生産停止。 おもにビートルズ中期以降に使用。 中期ではヴォックス社との契約上の理由から、ライヴや映像では出てこないが、レコーディングではフェンダー社製アンプも使用されていた。 ビートルズ活動末期に撮影された映画『』にて使用されている様子を確認できる。 ジョンは、を接続して演奏していた。 その他 [ ] ホーナー・ブルース・ハープ(M. HOHNER BLUES HARP) いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。 「ブルース・ハープ」は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。 レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われたとき、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M. HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。 同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている。 初期によく使っていたCのブルースハープは、ハンブルクの楽器店で万引きしたもの。 ホーナー・クロモニカ(M. HOHNER Chromonica 具体的なモデル名は不詳) 「ラヴ・ミードゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」においてはブルース・ハープではなくホーナー社製のクロマチック・ハーモニカを使用している。 これは、ブルース・ハープなどの10穴ハーモニカでは、出すのに高度な技術を必要とする音がフレーズ中に含まれるため、すべての音階を一本でカヴァーできるクロマチック・ハーモニカを曲によって使用していたものと思われる。 レノン自身もBBCライヴにおける司会者とのやり取りのなかで、10穴ハーモニカを「ハープ」、クロマチック・ハーモニカを「ハーモニカ」と呼んで区別している。 ジョン・レノン使用ギター(本人モデルと仕様が似たもの)• 2020年4月25日閲覧。 ジョンとポールは近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会った事はなかったという。 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。 警官に下った判決は「無罪」。 ドキュメンタリー「ビートルズ・シークレット・ストーリー」• スチュアートと並んでベースを演奏している写真がある。 [John Lennon:The Life] Philip Norlan著• [John Lennon:The Life] Philip Norlan著• ドキュメンタリー映画「ビートルズ・シークレット・ストーリー」より• 「ジョン・レノン その生と死と音楽」河出書房新社• 「ジョン・レノン その生と死と音楽」河出書房新社• Ali, Tariq 20 December 2006. "John Lennon, the FBI and me". The Guardian. Retrieved 18 August 2010. ジョンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的にジョン側が勝訴した。 PLAYBOY編集部『ジョン・レノンPLAYBOYインタビュー』、1981年3月10日、33頁。 シンコーミュージック刊: ジョン・レノン全曲解説 ジョニー ローガン 著 、Johnny Rogan 原著 、丸山 京子 翻訳• シンコーミュージック刊: ギターマガジン、トニー・レヴィン特集、インタヴュー所収記事• シンコーミュージック刊: ギターマガジン、ジョンレノン特集、スピノザ・インタヴュー所収記事• ミュージックマガジン刊: レコードコレクターズ2002 vol. 12, No. 12, 96ー99• ビートルズのつくり方」1994 山下邦彦 著• 『』でのマッカートニーのレノンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ? 」におけるマッカートニー作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がレノンを指すなど• 「ジョンレノン 愛の遺言」 講談社1980年12月8日収録インタヴュー、1981年刊行• 雑誌「ローリングストーン」において。 シンコーミュッジック刊、1972年 ビートルズの軌跡所収、水原健二インタヴュー、1971 昭和46 年1月21日、372p• でを学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、(ちくま文庫・2001年)として出版された• ミュージックマガジン、ジョンレノンを抱きしめて、1981年、2000年復刊所収• このインタヴューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている• Albert Goldman, The Lives of John Lennon, Chicago Review Press, 2001 1988 , p. 687. Albert Goldman, The Lives of John Lennon, Chicago Review Press, 2001 1988 , p. 688. 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 ジョン・レノンに関連する および があります。

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15年ぶり!!ジョン・レノソさんとコラボする曲!!

ジョンレノソ

お笑いトークライブ トークの実vol. ヒライケンジさんは現在も、芸人ヒライケンジとしてお仕事をされているようですね。 テレビ出演やネタライブの出演も見かけません。 ヒライケンジさんは1972年生まれです。 誰も知らない町、武蔵関のセブン。 深夜2:30にヒライケンジさん。 もうそろそろモンスターボールがあったら投げつけてる。 ここはWi-Fiが入るから、いつもここでYouTubeを見漁ってから帰るのだという。 僕はあなたの味方です。 — キュウ ぴろ piroguramu いつもこのコンビニを訪れているのだとすれば、ヒライケンジさんのお住まいは、『武蔵関』『東京都練馬区関町北二丁目』近辺ということでしょう。 家ではYouTubeが見れない環境であれば、WiFi料金もきついほどの極貧ということもありません。 ヒライケンジさんは既婚者なので、十分考えられますね。 真面目な方の中では、YouTubeなど中毒性があるものは家では見ないようにして外で短時間だけ見るという人もいますし、コンビニWiFiを使ってYouTubeを見ている=地獄とは限らないでしょう。 2010年と変わらずアルバイトで生計を立てている可能性が高いでしょうか。 高学歴エリートでも芸人の世界は地獄のようですね。 「あんまり意味がない」というフレーズは今でも思い出せるぐらい流行ってましたが、ワンフレーズで生き残り続けるほど甘くないようです おわり.

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ジョンレノの本名や障害,逮捕について暴露!! たむちんとの喧嘩の真実も

ジョンレノソ

B-RAPが終わってもジョンレノソとして活動していて、2005年には、R-1グランプリに出場していて、 準決勝まで進出していました。 ジョンレノソからヒライケンジへ! 学校へ行こう!のB-RAPで人気を集めたジョンレノソ(拝啓ジョンレノン)。 その後、 ジョンレノソから「ヒライケンジ」という芸名で芸人になったというのは有名な話。 ヒライケンジさんも自分がジョンレノソだったというのも隠していたわけじゃなかったようです。 ヒライケンジとしての芸風は、ジョンレノソのころとは少しだけ変わり、歌を普通に歌っていました。 「エンタの神様」で爆発的な人気を集め、2006年には「芸人検索ランキング」で堂々の1位を獲得していました。 更に、同じ年に平井堅の「大きな古時計」をカバーし、CDまで出しています。 「ジョンレノソ」から「ヒライケンジ」に芸名を変えたのは、ジョンレノンと結婚したオノヨーコさんからの苦情が来るのを恐れて変えたという噂もあります。 ジョンレノソ(ヒライケンジ)の現在! B-RAPでもエンタの神様でも人気を集めていたジョンレノソ(ヒライケンジ)ですが、徐々にテレビ出演が減っていき、目にする機会がなくなっていきました。 ジョンレノソ、ヒライケンジの現在は、フリーランスとして活動しているようです。 テレビに出演することは、ほとんどなくなってしまったジョンレノソですが、今も芸人「ヒライケンジ」として活動中のようです。 2014年には、平井堅の「ソレデモシタイ」という曲の振り付けビデオに登場し、ダンスを披露していました。 このぴろさんは、芸人もしながら漫画も描いているようです。 ネタを披露しているような写真もあったので、テレビには出てはいないけどイベントなどに出演しているように見えました。 ヒライケンジ、ジョンレノソのTwitterやインスタグラムを探しましたが、本人のものは無いように感じました。 Twitterには、ジョン・レノソa. aヒライケンジというものがありましたが本人ではなさそうです。 他にもヒライケンジの本名の、「山下真治」というTwitterもありました。 プロフィールにヒライケンジです。 と書かれていますがこちらも本人のものではなさそう。 現在もお笑い芸人として活動中のヒライケンジさん。 テレビで見ることはほとんどありませんが、芸人として活動しているのでいつかまたテレビで見れることを期待しましょう。

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