マラッカ 海峡。 フェリーでマラッカへ

マラッカ王国/マラッカ

マラッカ 海峡

本書が注目するのは、マラッカ海域北端に浮かぶペナン島。 淡路島の半分ほどの面積しかないこの小島に、 これまで、実に三〇以上の民族集団が、絶妙なバランスで群居し続けてきた。 各地で、ナショナリズムや排外主義的な価値観が増大する中、 本書が提示する世界像は、多民族共存の展望と希望を与えてくれるだろう。 ベンガル湾からマラッカ海峡にかけての地域研究の第一人者による、 初の本格的な「マラッカ海峡」史。 歴史学者。 追手門学院大学名誉教授。 九九年「マレーシアおよびシンガポールにおけるインド移民社会の形成と変容」をテーマに博士号取得 文学。 インド・東南アジアの境界のある「ベンガル湾」「マラッカ海峡」を、古来から多様な民族が往来していたのには、この地域特有のモンスーン気候が影響しています。 モンスーンは雨・風・風向き・雲・潮流・気圧などの複合的な自然現象です。 通常は年2回、風向きを変えて到来します。 マダガスカル近くの海上で発生して、インド洋・インド南部・ベンガル湾・東南アジアへと北上する南西モンスーン 4~9月 と、ヒマラヤ上空に発生し、ネパール・インド北部・東南アジア・ベンガル湾を南下する北東モンスーン 10~3月 です。 アラブ・インド・マレー海域・ジャワ海の海の商人たちは、南西モンスーン期の始まる5月に南インドの港を出発して、マラッカ海峡とその東の多島海へ向かい、翌年1月まではマラッカ海峡のペナン、マラッカなどの港に逗留して、北東モンスーンを利用して再びインドへ戻ります。 東南アジア諸島と中国の海の商人たちは、北東モンスーンを利用して、スマトラ島、マラッカ海峡へと航海して、12月にマラッカに到着し、翌年の6月まで滞在した後、南西モンスーンを利用して再び、東南アジアの港や中国へ戻ります。 ペナンは向かいの陸地クダーのスルタン領でしたが、実態としては「主のない土地」で、1826年に東インド会社がペナン、マラッカ、シンガポールの3地域を、マレーの藩主から割譲させて、実効支配つまり「海峡植民地」が始まりました。 それ以前のイギリス東インド会社はアルメニア商人と「1688年協約」を締結して、その関係は200年続きました。 内容は2つありました。 第1に、17世紀後半からインド・東南アジアへの進出を目論んでいた東インド会社は、17世紀以前からインドの内陸、海港の拠点都市に定住し、交易を行っていたアルメニア商人に対して、現地勢力との仲介・交渉・通訳を依頼すること 第2に、東インド会社はアルメニア商人に対して、上の代償として交易ルート・交易品・優遇関税、イギリス領でのアルメニア人の保護など各種の保証を与えること 19世紀半ばまでベンガル湾で活躍していた南インドのタミル系の商人たちをマレー語で「クリン」と総称していました。 タミル・ヒンドゥーの中でも特に富裕な商人集団を「チェッティ」と呼び、チェッティの基本的な商業形態は、インド・東南アジアの都市・農村地域での高利貸し業、両替、信用状に基づく送金業務などであり、それは初期的な金融機能でした。 南インドのコロマンデル沿岸部のタンジョール、ラムナードを拠点とするタミル・ムスリムの商人たちをチェリアと呼びます。 ペナン最大のモスクであるカピタン・クリン・モスクは富裕商人チェリアを信者として、彼らはカピタン・クリン クリンをまとめる行政代行責任者 の社会的影響力と潤沢な寄進によって建立されました。 背景として、華人系の会党どうしが錫鉱山利権や徴税権を争って抗争を繰り返していたため、治安のためにマドラスから増派された警官や、兵士、セポイ インド人傭兵 が送り込まれ、彼らの兵舎がジョージタウンのチェリア通りに置かれました。 ペナン総督府によって名目的であれカピタン・チナ 華人をまとめる行政代行責任者 に任じられた大商人は、土地の所有・交易・徴税請負・鉱山開発などの特権を獲得して、華人労働者を掌握し、会党の頭目として同郷・同業・同姓の幇組織を統帥しました。 ペナンのブルーマンションを所有していたチョン・ファッィーは代表的な華人の大商人です。 本書は南インドからマレー半島に至る海域の姿を南アジア史・東南アジア史の立場からペナン島という交易拠点から鳥瞰した良書である。 序説にあるようにもとは大学の講義用教科書として書かれたということだが,むしろマレーシアのペナン州に進出している日本企業や旅行者の需要が多かったと書かれている。 扱っている時代は18世紀末のペナンの英国東インド会社のクダーからの租借から20世紀初頭に至る。 すなわち,英領の植民地である海峡植民地としてのペナンの姿である。 英国海峡植民地はペナン 1786年獲得)とシンガポール 1819年獲得)が港市拠点として著名であるが,1つの特徴として,英国東インド会社官吏が,交易拠点として華人,インド系,アラブ系,スマトラやクダーからのマレー系ムスリム商人などを招き,町を作り上げていったという人工性を持つ。 したがって副題としての「ペナン島にみる多民族共生の歴史」は民族と言語と宗教が異なる人々がいかにして,この交易拠点を衝突することなく英国統治のもとで商業活動に励んだかという歴史と口伝調査による分析である。 マレーシアでの海外駐在者や旅行者,ペナン島に長期滞在で余生をおくる予定のシニア層などにお勧めである。 この本の参考文献は丁寧であり,なお,日本語論文と英文論文,一部華語史料を用いており,マレーシアの中で華人の比率の高いペナンの状況を反映している。 とはいえ,序説の中で重松氏の19世紀以降のペナンを含む「本書が対象とするマラッカ海峡の北部,アンダマン海,ベンガル湾に及ぶ海域世界についてはほとんど研究が無かった」という表現は誤りである。 「ほとんど研究がなかった」のは日本においてのみであり,マレーシアで発表されている膨大なマレー語の研究論文,研究書が抜け落ちている。 また,ペナンに関しては英国東インド会社の同時代史料がマレーシアにおいても容易に入手できるために,19世紀以降のペナンの状況についてはかなり英文を主とする研究としてはでつくした感がある。 特にペナン租借を申し出た英国東インド会社が,ペナン島の所有者であるクダー国(現クダー州,プルリス州,タイのサトゥーン県)のスルタンとの交渉を行っていたと同時に,クダースルタンの側では、15世紀に遡ることができるシャムとの朝貢関係において、アユタヤ朝崩壊時 1767 に途絶えていた、シャム(タイ)への朝貢の再開の要求が,同年1786年に起こったため,ペナンを年金で借り受けたい英国側と,シャムからの軍事的圧力から保護を求めるクダーのスルタンの思惑とが絡み合い、なし崩しにクダーは英国東インド会社からの年金を受け取りつつ、シャムのラタナコーシン朝への朝貢を承諾した。 そして結果的にクダーはシャムによる奇襲攻撃と占領によって、1821-1842年の間、シャムの仏教徒支配者のもとにおかれた。 この事件は歴史的なクダーの苦難の記憶として語り継がれているが、対岸にシャム勢力を抱えることになったペナンにとっても他人事ではなかった。 この事件にについて,ほぼ触れられていないのは残念である。 シャムによるクダーの占領期には,ペナン領に大量のクダーからの難民が押し寄せ,またペナンの商人のムスリムも華人もクダーをシャムから奪還するための秘密組織の支援を行っていた。 これらの事件については日本では信夫清三郎の『ラッフルズ伝』が最初の研究書であり,やはり英国東インド会社文書を典拠としている。 そのため、東インド会社の視点からの分析にならざるを得ないのは本書でも見られる。 東インド会社文書を典拠とする研究論文,研究書はマレー語論文,タイ語論文や資料を含めると19世紀に関してはかなりのものが存在する。 マレー語の歴史史料,タイ語の歴史資料にはそれぞれ異なった視線からの描写が見られる。 ペナン側(英国側)の立場としては、シャムによるクダー占領期に英国がペナンの保安に危惧を抱いてシャムへ交渉を開始するが(1822年クローファード,1826年バーネイ),シャム中央宮廷との条約(バーネイ条約)では、反シャム戦争が起こった1830-1839年)場合,シャムとの条約によってペナンの英国東インド会社はクダーやペナンのムスリムを海賊として逮捕しなければならないことが明記されていた。 クダースルタンがペナン島に避難していたこともあり、ペナン政庁はその対応に苦慮した。 その状況をシャムがどのように認識し,ペナン島をどうみていたか、反シャム反乱の多発にどう対処していたかのタイ語史料や研究書などの成果が反映されていないのである。 ペナン島の「多民族共生社会」は決して穏やかに成立したものではなかった。 19世紀を通してクダーはシャムの朝貢国であり,ペナンはまたマレー半島の他のイスラーム侯国とシャムの衝突を避けて軍艦を出動させねばならなかったし,錫などの取引のほか、地域のアヘンの供給地としても繁栄していたのである。 では,なぜ,本来南アジア史を主たる専門とする重松氏がこのような本を上梓するに至ったかといえば,東南アジア史,マレー半島史の専門家の怠慢ともいえるかもしれない。 筆者もマレー半島史を専門とする研究者であり,東南アジア史を大学で講義する立場にあるが,英文資料や論文,マレー語,タイ語による研究者の論文などが多数存在し,しかも,ネットで自由に閲覧できることから,日本語での講義用図書,転じて今回の一般書として書くことには思い至らなかった。 アンソニー・リードの「Age of Commerce」の翻訳を日本史研究者がしなければならなかったように,東南アジア史研究者は英文で読めてしまうものは翻訳せずに終わっていることは反省するべきであろう。 仕事はもちろん旅行でも、直接多民族国家マレーシアに関わったことのある方なら「わかる」 「肌感覚」があれば興味を持てる内容です。 詳しい広域地図が載っていれば、よりわかりやすかったかも。 『海の回廊』と称されるマラッカ海峡。 序章にある『ベンガル湾海域(南西モンスーンによる吹送流、北東モンスーンによる吹送流)』図から、 船による交易が昔から行われていたことを示唆しています。 ペナンを起点に、「マラッカ海峡~ベンガル湾~インド洋間」文化伝播、交易の歴史的考察です (本書では、史記の記録が少なく、研究もまだ途上、と示唆していますが、先のレビューの方が詳しくて感心)。 『イギリス東会社が、二つの島ペナンとシンガポール、ひとつの沿岸都市マラッカを マレーの藩王から「割譲」させ、直接的な支配を始めたのは1826年』と。 本格的に開発される以前にも、中国・インド・マレー・インドネシア(仏教・イスラム・ヒンドゥー)、 そして、ポルトガル、オランダの安息の地(カソリック・プロテスタント)。 少数ですが戦国時代・明治以降の日本人街、からゆきさん等の日本人、コラムでは大東亜戦争時統治にも触れます。 後半の「近代の章」で詳しく語られるのは、アルメニア海商の「鞘取り商法」、華僑、インド系商人。 帝国主義時代、覇国イギリスの蒸気船・国際通信(海底ケーブル)・国際保険にも触れています。

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マラッカ海峡

マラッカ 海峡

歴史 [ ] 古来、マラッカ海峡の海賊は、単に彼らの生活手段というだけではなく、政治的にも重要な意味を持った。 この付近のの統治者たちは、自身の支配力を維持するため、しばしば海賊と協力し合っている。 例えば、にのの王子だった ()は、この海域で活躍する ()の海賊の協力を得て、を建国している。 からにかけて、周辺の海賊は地元だけではなく、の植民地支配にも影響を与えた。 当時、この地域の支配を試みていた、、もやマラッカ海峡で海賊被害にあっている。 特にからにかけて、ヨーロッパ人によるが盛んになって、マラッカ海峡の交通量が増大し、当時この地域に住む人々が貧しかったこともあって、多くの人々が海賊行為に参加した。 海賊行為は植民地支配の抵抗運動の一つでもあった。 また、の政府から追われたによる海賊もあった。 1830年代、この地域を支配しているイギリスとオランダは、海賊行為の取り締まりに力を入れた。 両国はマラッカ海峡を2つに分け、それぞれの分担地域で海賊を取り締まることになった。 この境が、今日のマレーシアとインドネシアとの国境線になっている。 これが功を奏し、1870年代までは比較的海賊行為が減少している。 近年の海賊 [ ] 2006年、海賊の疑いで捜査されたマレーシア西部を航行する マラッカ海峡を通過する船は、年間9万隻にも上っている。 特に、中東から東アジアへの石油輸送ルートとして重要である。 (IMB)によると、この地方の海賊の主な拠点はインドネシアである。 海賊は、主に3タイプに分けられる。 独立した海賊専門グループ、犯罪組織の下部組織としての海賊、テロリストの一味としての海賊である。 海賊専門グループは、攻撃しやすい船を選んで襲う傾向にある。 犯罪組織の下部組織の海賊は、計画性と技術に長けており、大型荷物や乗客員の誘拐などを目的とすることが多い。 テロ関連グループは、テロ活動の資金集めだったり、海賊行為そのものが狙いだったりと目的はさまざまである。 また、インドネシアののような反政府組織が関与しているとする説もある。 この地域で特に海賊が増えたのは、の以降である。 発生件数は発表元によっても異なるが、例えばのによる2006年(18年)の報告書によると、2000年(平成12年)が突出して多く80件であり、2002年(平成14年)にかけては一時的に減少に転じるものの、再び増加傾向となり2004年(平成16年)には45件に達している。 2004年には世界の海賊行為の4割がマラッカ海峡で発生しており、2005年3月には日本船籍の「韋駄天」の乗員が海賊に誘拐される事件も発生している。 に発生した(911)以降、海賊ととの関連を疑う人もいる。 ただし(MARAD)の専門家は、テロリズムと海賊行為とは区別しなければならないとし、また、港の停泊船を襲うギャングと海賊も区別する必要があるとしている。 また、海賊行為は単なる海上の暴力行為ではなく、複数の問題が絡んだ複雑な案件であり、その対策もさまざまであると主張する専門家もいる。 IMBの報告によると、マラッカ海峡の海賊行為は2004年から減少に転じている。 2005年には79件だったものが2006年には50件となっている。 一方、2005年からはが急増 、マラッカ海峡の海賊発生件数は2007年には2位に後退した。 ただしIMBは2007年10月、インドネシアは依然世界で最も海賊行為が盛んな地域の一つであり、2007年1月からの発生件数はすでに37件であると報告している。 ロンドンの保険組合も2006年、マラッカ海峡が保険対象としては戦争地域に準ずる危険度であると宣言している。 ロイズのこの宣言が出たのは、シンガポールとインドネシアが海と空のパトロール強化を始めた後のことであった。 海賊行為の被害としては、直接奪われた品に注意が行きやすい。 奪われることが多いのは、船内売店のもの、エンジン部品、現金、乗員の持ち物などである。 しかし、実際の被害はそれに留まらず、海賊対策や保険にかかる費用も増加する。 海賊対策 [ ] 2000年、で海賊対策の国際会議が開催され、2001年からは日本のが主体となって周辺国の関係者を集めた海賊対策研修が実施されている。 海賊行為の取り締まりには、海上、航空パトロールに加えて、さまざまな技術が用いられている。 例えば、IMBの2006年の年次報告書では、2004年7月以降は積載500トン以上の船は警報システム、とりわけリアルタイムで近くの船舶を表示するシステムを備えざるを得なくなったと報告されている。 また、ASEAN船主連盟(FASA)は、海賊行為の発生位置、襲撃方法、結果についてのデータベースの提供を開始している。 さらに2006年には海賊対策のため、日本主導で東南アジアを主体とした14か国による(ReCAAP)が締結され、この下部機関としてに情報共有センター(ISC)が作られている。 また、2006年には日本がインドネシアに対して巡視船を3隻、無償供与することを決定。 2008年にインドネシア海上警察に引き渡され運用が始められている。 海賊対策には必ずしも大国の協力は歓迎されない。 例えば2004年にが海峡警備を申し出ているが、インドネシアとマレーシアはこれに反対している。 それでもインドネシアは自国に十分な海賊対策能力が無く 、2006年にはとの協力を得る合意を結んでいる。 インドは、マラッカ海峡警備のためににの基地を設け、の警戒に当たっている。 中国もから ()の軍事使用権を得て警戒に当たっている。 また、日本では2011年12月にが緩和されたため、武装を友好国に供与することが可能になったので、政府は各国に、の中古巡視艇の提供を検討している。 マラッカ海峡を通らなくて済むよう、にを通す事業も提起されているが、周辺国の思惑で、中々実現しないままである。 、インドネシアの海賊件数は43件となり、ここ2年で半数以下に減少した。 マラッカ海峡の著名な海賊 [ ]• () 14世紀 参考文献 [ ]• "Watchdog hails improved security in Malacca Strait; Increased patrols and other measures have cut number of pirate attacks", The Straits Times, January 23, 2007 piracy in the straight of malacca was originated around the 14th century. "Shipwrecks as historical treasure trove", , July 6, 2003. 政府開発援助白書 、2006年• 関根博• 国際港湾協会• 海上保安庁• "The MARAD View of Maritime Piracy", presented at Piracy at Sea: The Modern Challenge. Marine Policy and Ocean Management Workshop; Woods Hole, Massachusetts. April 24, 1985. Piracy down 3rd year in row: IMB report", Journal of Commerce Online; January 23, 2007. 海賊・海上武装強盗対策推進会議• 外務省• Associated Press Intl Herald Tribune. 2007年10月16日. 2008年11月7日閲覧。 " Christian Science Monitor. October 30, 2006. , Los Angeles Times, via kabar-irian. com, 13-11-2006. Retrieved on 29-01-2007. JICA• 外務省• , The Business Times Singapore, via shipping-exchange. com, 01-12-2006. Retrieved on 29-01-2007. じゃかるた新聞 じゃかるた新聞. 2014年6月30日. 2014年9月7日閲覧。 タン・シュー・ムン• 2007年10月25日, at the. 2007年10月25日, at the. JOGMEC• 読売新聞. 2012年2月28日. AFP(2018年1月11日)2018年1月11日閲覧 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• , published 23 Apr 2008, accessed 2008-04-28. , KoreanHistoryProject. org•

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マラッカ・シンガポール海峡の安全航行支援

マラッカ 海峡

マラッカ王国の範囲 <永積昭『アジアの多島海』世界の歴史13 1977 講談社 p. 121> マラッカはマの南西部の海港としてインド洋と南シナ海を結ぶの要衝であった。 建国神話(『マラヤ編年記』)によると、その始祖はの血を引いており、その国は「黄金の国(スヴァルナプーミ)」といわれ、はじめのパレンバンにあったが、シンガポール島を経てのマラッカに移り、14世紀末に王国を築いたという。 マラッカ王国はマレー半島からスマトラ島の一部を支配したマレー人国家で、に面したとして繁栄した。 交易に有利な地点を占めたことから、マラッカ王国は周辺の海洋民族を従えていったが、そのころ有力であったタイのには服従した。 15世紀になると中国の明の使節が来航し、朝貢を求めるようになった。 鄭和の来航と中国への朝貢 1405年に始まった、永楽帝によるのインド洋への派遣では、鄭和艦隊はマラッカ海峡を経てインドへの進出をはかり、マラッカに寄港している。 鄭和艦隊はマラッカを補給基地として重視し、マラッカ国王もまた明に対して朝貢を行い、からマラッカ国王に封じられ、印章と勅語を受けている。 中国史料には「満刺加」として出てくる。 マラッカ王国も鄭和の来航を期に急成長し、ジャワ島のヒンドゥー教国と対抗してその商業活動を抑え込み、インド洋と南シナ海の中継貿易を行い、東南アジア最大の貿易拠点として繁栄した。 イスラーム化 鄭和の来航でマラッカ王国での交易が活発になると、ムスリム商人との交渉も活発になり、このころからイスラーム教が急速に広がった。 1414年ごろ国王ムラト=イスカンダル=シャーは初めてし、国王はスルタン(サルタン)として統治するようになった。 スルタンの下に、世襲の最高司令官(ブンダハラ)と大蔵大臣、侍大将、警察長官にあたる官僚制が形成され、多くの港市の外来商人や原住民の部族村落が管理されていた。 マラッカ王国の交易品 これによってマラッカはの東アジア進出の拠点として海上貿易で大いに繁栄することとなった。 マラッカには三方の地域から物産が集まった。 西方インドからは、綿織物・アヘンが、東方中国からは陶磁器・絹織物・武器などがもたらされ、現地東南アジアからは香料・象牙・白檀・獣皮・樹脂・金・スズ・銅・硫黄・真珠母・貝・鼈甲・さんごなどの特産品がインドと中国に輸出された。 特にの丁子などの香辛料は珍重されていた。 またの商人も姿を現していた。 ポルトガルなどのヨーロッパの商人が登場する以前に、このような広範囲で活発な交易が行われていたことは十分に認識しておく必要がある。 またマラッカ王国がイスラーム化したことによって、ムスリム商人の東南アジアでの活動がさらに盛んになり、東南アジアのイスラームがさらに進むこととなった。 ポルトガルの侵攻により滅亡 1498年、バスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到着して以来、ポルトガルのアジアへの進出が始まった。 にインドのを占領したインド総督は、早くも翌に来航、マラッカの王宮を武力攻撃し占領した。 マラッカ王は抵抗したが王宮を逃れ、マレー半島の南を転々とした後、南端のジョホールにたどりつき、そこにを建てた。 マラッカ王国はこうして滅びたが、その後身のジョホール王国のスルタン位は現在のでも継承されている。 その翌年のに、インド総督をマラッカに派遣、武力でマラッカを占領した。 これが東南アジアの植民地化の始まりだった。 マラッカ王国のスルタン(王)はマレー半島先端のジョホールに移り、その後さらにシンガポール島の沖合のリオウ諸島(ビンタン島)に拠点を移した。 <鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p. しかし、ポルトガルのマラッカ支配は交易拠点として留まっており、広い地域を植民地支配するものではなかった。 そのため、マラッカの拠点も孤立化し、1641年にオランダが進出してポルトガルを追い出し、東インド会社の支配下に収めた。 マラッカ王国は滅びず マラッカ王国は1511年に滅亡したのではないことに注意しよう。 マラッカを追われた国王(スルタン)マフムード=シャーは、ビンタン島に移ってからもしばしばマラッカ奪回のめざして攻撃した。 ポルトガルは反撃してビンタン島を徹底的に略奪、そのためマフムード=シャーはスマトラのカンパルに逃れ、その地で死んだ。 その息子のスルタンがジョホール川上流プカン・トゥアに移り、王国を再建した。 この王国はマラッカ王国そのものであるが、ジョホール王国とも言われ、ポルトガルの再三の攻撃にも耐えて存続する。 <生田滋『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 1998 中央公論新社 p. 357-358> ポルトガル・オランダ進出の影響 マラッカ海峡が1511年にポルトガル、1641年にオランダに抑えられた結果、インド洋を通って南シナ海で活動していたイスラーム商人は、マラッカ海峡を避けて、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通るようになった。 そのため、イスラーム商人の活動拠点として、従来のスマトラ島北端のに加え、ジャワ島西部の、東部のなどのイスラーム教国が台頭することとなる。 オランダとイギリスの進出 17世紀にはいると、(オランダ)が進出し、1641年にマラッカのポルトガル人を追放してオランダ領とした。 その後、東南アジアの支配権をめぐるオランダとイギリスの抗争の舞台となったが、オランダがフランスに占領されたナポレオン戦争中にイギリスが奪取、1824年のによりマラッカのイギリス支配が認められ、替わりにオランダはスマトラ島のベンクーレンを獲得した。 イギリスは1826年、この地をの一つに加えた。 こうしてかつてマラッカ海峡を挟んでマレー半島とスマトラ島にまたがる一つの国であり、文化圏で会ったマラッカは、マレー半島がイギリスへ、スマトラ島がオランダへと分断されて植民地化された。

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