あ づみ 悠 羽。 大嘗祭

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あ づみ 悠 羽

大嘗祭にて帛御袍を着た(第125代天皇) 一般に、毎年(:)に行われる宮中祭祀の (にいなめさい)と同じく、収穫感謝の秋祭りと解されている。 実際、祭儀の次第にも共通点があり、大嘗祭が行われる年には新嘗祭は斎行されない。 また、以前においては「大嘗祭」と「新嘗祭」は同一祭儀の別名であった。 祭祀は秘事であるため、その内容について様々な考察がなされてきた。 かつては、の唱えた「真床覆衾」論、つまりにおけるの場面を再現することによって「天皇霊」を新帝が身につける神事であるとする仮説が支持され、その発展ないしは修正の形で研究が展開されていった。 1983年にが聖婚儀礼説を唱えてこれを鋭く批判し、日本史学界で一定の支持を集めた。 しかし1989年から1990年にかけて、が「真床覆衾」論も聖婚儀礼説も否定する論考を発表した。 岡田荘司説によると、大嘗祭とは新帝がを初めて迎え、神膳供進と共食儀礼を中心とする素朴な祭祀である。 天照大神の神威を高めることにより天皇がその神威を享受するという見解であり、折口以前の通説、さらにはなどの公卿の見解とも一致する。 のちににより『』新出が紹介され、その検討が加えられた結果、 もはや日本史学界では「真床覆衾」論も聖婚儀礼説もほぼ完全に否定されている。 歴史 [ ] 大嘗祭(=新嘗祭)の儀式の形が定まったのは、のの頃だが、この頃はまだ通例の大嘗祭(=新嘗祭)と践祚大嘗祭の区別はなかった。 通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのはの時が初めである。 ただし、当時はまだ即位と結びついた一世一度のものではなく、在位中に何度か挙行された。 が整備されると共に、一世一代の祭儀として「 践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備された。 『』に定められたもののうち「 大祀」とされたのは大嘗祭のみである。 また、 大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には3日間にわたるが行われていたことに由来している。 また後には通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを「毎年の大嘗」、践祚大嘗祭を「毎世の大嘗」と呼び分けることもあった。 元来、では大嘗・新嘗は、「祭」とも「会」とも称されていない。 単に「大嘗」、「新嘗」とだけ記されている。 奈良時代になると、「大嘗会」「新嘗会」と称されるようになり、平安時代となると、公式の記録では「大嘗祭」「新嘗祭」とされたが、日記類ではほとんどが「大嘗会」「新嘗会」である。 この経緯から大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが「会」にあったことが分かる。 延喜式に式次第が定められた後も、多少変化した。 大嘗宮を建てる場所も、より初期のの御代から、の南中央に位置したの前庭にあった竜尾壇の庭が用いられた。 平安時代末期に朝堂院が焼亡してからは、の元年(1182年)の大嘗祭のように内裏のの前庭を用いる例もあったが、おおよその旧地の龍尾壇下に建てられた。 の再興時には、大極殿址も明らかでなかったためか、安徳天皇の先例に倣って紫宸殿の前庭が用いられ、に至った。 明治4年()の大嘗祭は、初めてので行われ、・の時は「」に拠って京都の内の旧の御苑が用いられた。 末期、には、の窮乏や戦乱のため、延期またはの即位以降、東山天皇の時代の再興まで221年間行われなかったことなどもある ものの、天皇の代替わりに伴う重要な祭儀として、古くから継承されてきた。 もっとも、の再興の際には古式に則って、の御所への出入りを禁じて歴代天皇のを撤去すべきとしたや(兼輝)と、これに反対した上皇の実兄やらが対立した。 この仏教排除の動きは新天皇の大嘗祭が開かれる度にやの高まりと相まって強化され、それが宮中に長く定着していたの慣習に対する批判および排仏論やこれに付随するの是非の論議にも発展して、明治における宮中のの遠因となったとする見方もある。 室町時代のによる『大嘗会記』では「国の大事は大嘗会也、大嘗会の大事は神膳に過ぎたることなし」と記され、『大嘗会記』でも天皇と陪膳の以外に、神殿(大嘗宮)に入ることはないと 記されるが、以降安徳天皇、に至るまで2歳から7歳の幼帝が続いた時代背景から、大江匡房の『』には、「二行」と「五出」の表記が見られ 、『延慶大嘗会記』や『応永大嘗会記』に記されるように時の天皇が10歳以上(元服した成人)の場合は天皇御自ら御供進される「二行」に、9歳以下の場合は摂政が「五出」に供したと考えられる。 又、大嘗祭を数日後に控えて、神饌御進儀の習礼(本祭に先立つ予行)が行われる。 即位礼に関わる儀式が国の行事とされたのに対し、大嘗祭に関わる儀式はの行事とされた。 しばしば誤解されているが、ここで「皇室の行事」というのは、「皇室の私的な行事」という意味ではなく、「皇室の公的な行事」という意味である。 大嘗祭の予算は通常の以外の臨時のものが組まれている。 当時の政府発表(最終回答)によれば、大嘗祭が「」とされなかった理由は、上の天皇の「国事行為」とは「内閣の助言と承認」を必要とするものであり、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は「国事行為」に当たらないためである。 祭日 [ ] が用いられていたころは、11月の二のの日に行われていた(新嘗祭も同様)。 明治6年(1873年)にを採用して以降は新暦の11月に行うようになり 、大正以降の大嘗祭はそれぞれ新暦の11月14日、14日、22日、14日に行われている。 大嘗宮 [ ] 大嘗宮内部の図 大嘗祭を行う祭祀の場所を 大嘗宮という。 これは大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼されてきたが、令和の大嘗祭から初めて資材が再利用されることになった。 古来、造営場所はの前庭であった。 祭の約10日前に材木と諸材料と併せてをの前庭に運び 、7日前にを行い、そこから数えて5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に竣工していた。 後に大嘗宮の規模は大正、昭和の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるため といった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数カ月かけて造営している。 令和の大嘗宮はが9億5700万円でで落札し受注した。 童女が火を鑽出してやの子弟の持つに移し、その8人童男童女が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西214(約65メートル)、南北15丈(約46メートル)を測って宮地とし、之を中に分け東に悠紀院、西に主基院とする。 そして両国の童女がをつけたを捧げ、両院が立つ四隅と門の場所の柱の穴に立て「斎鍬」(いみくわ)で8度穿つ。 東西に悠紀殿・主基殿、北に廻立殿を設け 、それぞれの正殿は黒木造 皮つき柱 、妻入り、青草の屋根 、8本のと千木 、が張られた 天井を有する。 外を柴垣で囲み、四方に小門をつける。 使用された木材は産(柱)、産(神門)、産(外壁)のほか、産、産など約550立方メートル。 各社殿は以下の通りである。 (画像について、特に明記のない場合は令和の大嘗宮のものである。 ) 悠紀殿(ゆきでん) 主基殿(すきでん) 大嘗宮の中心をなす殿舎。 「悠紀殿の儀」「主基殿の儀」と、同様の祭祀を2度繰り返して行う。 殿内には中央に八重畳を重ねて敷き、その上に御衾(おんふすま)をかけ、御単(おんひとえ)を奉安し、御櫛、御檜扇を入れた打払筥を置く(寝座)。 その東隣に御座がおかれ、の方向を向いている。 御座と向かい合って神の食薦(けこも)を敷き、事実上の「神座」として扱われる。 黒木造、切妻屋根、茅葺き 、畳表張り、千木は悠紀殿が内削ぎ、主基殿が外削ぎ。 の主基田 大嘗祭において供される (しんせん)の内、稲については特に重要視される。 稲を収穫する田を「 斎田」(さいでん)といい、大嘗祭はこれを選定するところから始まる。 大嘗祭の祭祀は同じ所作の物が2度繰り返されることから、斎田も2か所あり、それぞれ 悠紀(ゆき)・ 主基(すき)と呼称される。 この語源は、「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。 悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。 悠紀は東から、主基は西から選ばれるのを原則とし、の国(・・・・の令制5か国(現在の、及び))から選ばれたことは一度もなかった。 以降はが悠紀、と(の時のみ)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。 明治以降は全国から選出されるようになった。 平成以降は斎行場所が東京になったため東西の境界線に変更が加えられ、悠紀国は新潟県、長野県、静岡県を含む東側の18都道県、主基国は西側の29府県となった。 斎田は、を用いて決定される。 この儀式は 斎田点定の儀(さいでんてんていのぎ)と呼ばれる。 にて掌典職が拝礼したあとに前庭に設営された斎舎にて斎行され、これにより都道府県が決定される。 平成においては、亀甲の入手が国際条約や都道府県条例により入手困難になったため手法の変更も検討されたが、剥して年月を経たものは抵触しないことから、国産のを入手して行われた。 旧来は・が決められた後現地で具体的に斎田を早急に決め、防護、警備にあたっていたが 、平成以降は都道府県のみ速やかに発表され、斎田については収穫の直前になって初めて公表されるようになった。 斎田の持ち主は 大田主(おおたぬし)と呼ばれ、奉耕者として関連する祭祀に列席する。 明治以降の悠紀・主基 明治以降の悠紀・主基斎田所在地等は下表の通りである。 これらの斎田所在地は、斎田に選ばれた栄誉を後世に語り継ぐために記念碑等を建てたりしている。 中でも明治大嘗祭の主基斎田所在地は村名もに改称したり、大正大嘗祭の悠紀斎田所在地は一連の儀式を再現した祭()を現在に伝えている。 天皇 大嘗祭が行われた年 大嘗祭が行われた場所 悠紀 主基 旧国名 斎田所在地 旧国名 斎田所在地 (4年) 上石田村 (現・上石田3丁目) 北小町村字仲ノ坪 (現・北小町字仲ノ坪) (4年) 大字下中島字上丸ノ内 (現・字上丸ノ内) 大字山田上 (現・山田上) (3年) 京都府京都市上京区 京都御苑 仙洞御所 (現・三上[前]) (現・脇山) (第125代天皇) (2年) 東京都千代田区千代田 大川石崎 大字小田 (第126代天皇) (元年) 東京都千代田区千代田 皇居東御苑 大谷下原 氷所新東畑 旧来は8月下旬、抜穂使を両斎国に遣わし、斎田と斎場雑色人、、物部人、物部女らを卜定、斎田に面した斎場に殿舎を建てていた。 ここで設けられたのは神殿、神饌殿、稲実殿であり、この神殿の祭神は延喜式で「(みとしのかみ)、(たかみむすびのかみ)、(にわたかびのかみ)、(おおみけつかみ)、(おおみやめかみ)、(ことしろぬしのかみ)、(あすはのかみ)、(はびきのかみ)」(祭神八座)と定められている。 平成以降は斎田の決定が収穫の直前になったため、殿舎は天幕張りとせざるを得なかった。 収穫前日、斎田の近くの河原において、 斎田抜穂前一日大祓が行われる。 抜穂使の随員が大祓の詞を読み、参列者を祓う。 その翌日(9月の内の吉日)、 斎田抜穂の儀を執り行う。 祭神の降神に次いで抜穂使が祝詞を奏上し、その命を受けた大田主以下奉耕者が順番に斎田で稲穂を抜き取る。 稲穂は抜穂使の見分を経て稲実殿に収められる。 初めに抜いた4束をとくに高萱御倉に納め、御飯(みい)とする。 あとは(くろき)・(しろき)として供される。 これらの米は9月下旬、大嘗宮斎庫に納められる( 悠紀主基両地方新穀供納)。 この殿舎を建てるに際しては、まずが行われ、野の神を祭ってを刈り取り、を祭って料材を伐採する。 抜穂が終わるとにおいて祭典がなされる。 精粟 悠紀国、主基国からそれぞれ供納されており、量はそれぞれ7. 5キログラムである。 庭積(にわづみ)の机代物(つくえしろもの) 明治の大嘗祭で鳥、魚、介、海菜、野菜、果物等が供納されたのを初例とする。 明治25年(1892年)に新嘗祭で各地からの産物の供納を受けるようになると大嘗祭においてもこれらの例に準ずるようになり、大正、昭和の大嘗祭では全道府県および外地の台湾、樺太、朝鮮から米1升、粟5合と特産の蔬果魚介を購入した。 平成以降は米、粟に加え 、各地の名産品を最大5品目まで供納(宮内庁が購入)するようになった。 これらの品は、東日本の物は悠紀殿、西日本の物は主基殿の前の庭の机に置かれ、平成の大嘗祭までは「神事に使ったものは埋めて自然に戻す」 などとして終了後にすべて埋納していたが 、令和の大嘗祭ではの問題などの社会情勢の変化に鑑み、食品として有効活用することが検討される ことになり、大嘗祭終了後の11月18日には「庭積の机代物」や「献物」の一部を、食用として埼玉県所沢市のに提供することが宮内庁から公表された。 このほか、 御贄(読み:みにえ、米以外の食物。 「由加物/斎甕物(ゆかもの)」と称す)がやから納められる。 平成の机代物• 悠紀地方(東日本)• 北海道:菜豆(大正金時)、ジャガイモ(男爵)、百合根、干し塩鮭、昆布• 青森県:リンゴ、ナガイモ、ゴボウ、サケの燻製、干しホタテ貝柱• 岩手県:リンゴ、ナガイモ、干しシイタケ、干しワカメ、新巻鮭• 宮城県:大豆、リンゴ、ハクサイ、キュウリ、干しアワビ• 秋田県:大豆、小豆、キャベツ、天然きのこ(スギヒラタケ)、塩鮭• 山形県:大豆、リンゴ、栗、干しゼンマイ、するめ• 福島県:リンゴ、梨、青のり、干しゼンマイ、干しマガレイ• 茨城県:ハクサイ、レンコン、干しシイタケ、しらすタタミ干し、ワカサギ煮干し• 栃木県:カンピョウ、イチゴ、シイタケ、梨、大豆• 群馬県:コンニャクイモ、リンゴ、干しシイタケ• 埼玉県:小麦、ヤマトイモ、サトイモ、茶• 東京都:キャベツ、ダイコン、ウド、シイタケ、テングサ• 千葉県:ラッカセイ、サツマイモ、シイタケ、海苔、かつお節• 神奈川県:茶、ラッカセイ、ダイコン、キウイフルーツ、海苔• 新潟県:サトイモ、梨、鮭• 長野県:リンゴ、ナガイモ、ワサビ、寒天、干しシイタケ• 山梨県:ブドウ、トマト、柿、コケモモ、ヤマメの燻製• 静岡県:茶、ミカン、ワサビ、シイタケ、かつお節• 主基地方(西日本)• 富山県:大豆、サトイモ、リンゴ、干しエビ、イナダ• 石川県:サツマイモ、ツクネイモ、小豆、ヤマイモ、干しイナダ• 福井県:柿、マイタケ、越前ウニ、若狭ガレイ• 岐阜県:柿(富有)、干しシイタケ、干しアユ• 愛知県:フキ、レンコン、柿、梨、海苔• 三重県:茶、柿、のしアワビ、干しシイタケ、かつお節• 滋賀県:茶、柿、小麦、干しモロコ• 京都府:エビイモ、栗、茶、するめ• 奈良県:柿(富有)、ヤマトイモ、茶、吉野葛• 大阪府:栗、ミカン、エビイモ、干しシイタケ、ちりめんじゃこ• 和歌山県:ミカン(味一)、柿、干しサバ• 兵庫県:丹波黒大豆、丹波栗、兵庫海苔• 鳥取県:ナガイモ、梨(二十世紀)、干しシイタケ、丸干しイワシ、するめ• 島根県:柿(西条)、ワサビ、干しシイタケ、板ワカメ、岩海苔• 岡山県:中国梨、鴨梨、ツクネイモ、黒大豆、干しタコ• 広島県:サヤエンドウ、ミカン、干しカレイ(でびら)• 山口県:温州ミカン、岸根栗、するめ、干しエビ、イワシ煮干し• 香川県:裸麦、柿(富有)、オリーブ、干しシイタケ、干しエビ• 徳島県:スダチ、干しシイタケ、ワカメ• 高知県:ブンタン、ユズ、干しシイタケ、かつお節• 愛媛県:ミカン、栗、裸麦、干しシイタケ、干しダイ• 福岡県:柿、ナス、干しシイタケ、干しダイ、干し海苔• 佐賀県:佐賀マンダリン、柿、レンコン、海苔• 長崎県:干しシイタケ、ミカン、するめ、長ヒジキ煮干し• 大分県:ゴボウ、秋冬ダイコン、ラッカセイ、ワサビ、栗• 熊本県:スイカ、アールスメロン、茶、温州ミカン、干しシイタケ• 宮崎県:茶、干しシイタケ、キンカン、カボチャ、かつお節• 鹿児島県:サツマイモ、茶、ブンタン、早堀りタケノコ、かつお節• 沖縄県:パイナップル、クロアワビタケ、茶、乾燥ヒジキ 令和の机代物• 悠紀地方(東日本)• 北海道:小豆、ジャガイモ、小麦、干しホタテ貝柱、昆布• 青森県:リンゴ、ナガイモ、ゴボウ、サケの燻製、干しホタテ貝柱• 岩手県:リンゴ、サトイモ、干しシイタケ、干し昆布、新巻鮭• 宮城県:大豆、リンゴ、ハクサイ、干しシイタケ、塩銀ザケ(みやぎサーモン)• 秋田県:大豆、セリ、リンゴ、天然きのこ(マイタケ)、ハタハタ一夜干し• 山形県:西洋梨(ラ・フランス)、ブドウ(シャインマスカット)、柿、干しゼンマイ、するめ• 福島県:リンゴ、梨、生シイタケ、干しマガレイ• 茨城県:ハクサイ、レンコン、しらす干し、ワカサギ煮干し、干しシイタケ• 栃木県:二条大麦(もち絹香)、カボチャ、イチゴ、リンゴ、ユズ• 群馬県:リンゴ、コンニャク、ヤマトイモ、シイタケ、小麦• 埼玉県:小麦、ヤマトイモ、サトイモ(丸系八頭)、茶• 東京都:キャベツ、ダイコン、ウド、シイタケ、テングサ• 千葉県:ラッカセイ、梨、ニンジン、海苔、さば節• 神奈川県:茶、ラッカセイ、ダイコン、キャベツ、海苔• 新潟県:柿、サトイモ、レンコン、干しシイタケ、塩引きザケ• 長野県:リンゴ、ナガイモ、ワサビ、寒天、干しシイタケ• 山梨県:ブドウ、トマト、柿、大豆(あけぼの大豆)、山梨夏っ子きのこ(クロアワビタケ)• 静岡県:茶、ミカン、ワサビ、干しシイタケ、かつお節• 主基地方(西日本)• 富山県:大豆、サトイモ、リンゴ(苹果)、シロエビの燻製、イナダの天日干し• 石川県:加賀棒茶、柿(紋平)、加賀金糸瓜、能登原木干しシイタケ、輪島海女採りアワビ• 福井県:大豆、抜き実ソバ、サトイモ、干しシイタケ、アマダイ(若狭グジ)• 岐阜県:柿(富有)、栗(ぼろたん)、リンゴ、干しシイタケ、干しアユ• 愛知県:フキ、レンコン、柿、ニンジン、海苔• 三重県:茶、ミカン、のしアワビ、乾燥ヒジキ、かつお節• 滋賀県:茶、ヤマイモ、焼きホンモロコ• 京都府:長ダイコン、短系ゴボウ(ごぼ丹)、シイタケ、宇治茶、ササガレイ• 奈良県:柿、茶、吉野葛• 大阪府:栗、ミカン、エビイモ、干しシイタケ、ちりめんじゃこ• 和歌山県:ミカン、柿(富有)、干しサバ、干しマグロ、乾燥ヒジキ• 兵庫県:丹波黒大豆、丹波栗、佐用もち大豆、兵庫海苔、干しダイ• 鳥取県:あんぽ柿、ヤマイモ(ねばりっこ)、梨(王秋)、干しシイタケ、ハタハタ一夜干し• 島根県:あんぽ柿(西条)、ワサビ、干しシイタケ、板ワカメ、岩海苔• 岡山県:黒大豆、ブドウ、ナス、干しエビ、干しタコ• 広島県:サヤエンドウ、柿(西条)、レモン• 山口県:ダイダイ、レンコン、干しシイタケ、するめ、ちりめんじゃこ• 香川県:小麦、キウイフルーツ、生オリーブ、干しシイタケ、イワシ煮干し• 徳島県:スダチ、干しシイタケ、ワカメ• 高知県:ブンタン、ユズ、干しシイタケ、かつお節• 愛媛県:ミカン(日の丸みかん)、サトイモ(伊予美人)、裸麦、干しシイタケ、干しダイ• 福岡県:柿、茶、干しシイタケ、干しダイ、干し海苔• 佐賀県:レンコン、ミカン、茶、キュウリ、海苔• 長崎県:干しシイタケ、ミカン、煮干し、長ヒジキ、アオサ• 大分県:干しシイタケ、カボス、梨、サツマイモ、ヒジキ• 熊本県:デコポン、スイカ、トマト、干しシイタケ、干し海苔• 宮崎県:茶、干しシイタケ、キンカン、サツマイモ、ちりめんじゃこ• 鹿児島県:サツマイモ、茶、ピーマン、早堀りタケノコ、本枯れ節• 沖縄県:ニガウリ(ゴーヤー)、クロアワビタケ、乾燥モズク、乾燥ヒトエグサ(アーサ) 神饌(名称、読み) [ ]• 削木 けずりぎ• 海老鰭盥槽 えびのはたふね• 多志良加 たしらか• 御刀子筥 おんかたなばこ• 御巾子筥 おんたなごいばこ• 神食薦 かみのすごも• 御食薦 みすごも• 御箸筥 おんはしばこ• 御枚手筥 おんひらてばこ• 御飯筥 おものばこ• 鮮物筥 なまものばこ• 干物筥 からものばこ• 御菓子筥 おんくだものばこ• 蚫汁漬 あわびのしる• 海藻汁漬 めのしる• 空盞 こうさん• 御羹八足机 おんあつものはっそくづくえ• 御酒八足机 みきはっそくづくえ• 御粥八足机 おかゆはっそくづくえ• 御直会八足机 おんなおらいはっそくづくえ 国栖の古風 [ ] 国栖(くず)の古風(いにしえぶり)という歌は、がに行幸になった折り、国栖の人々が大御酒を醸して献上したとき歌った故事に由来すると言われている。 「橿の生に横臼を作り横臼に醸める大御酒甘らに聞こし以ち飲せまろが父」 祭服と神具 [ ] 幘の御冠 祭服 [ ] の祭服は純白生織(すずし)の絹地で奉製されており、これは最も清浄な服である。 また、御冠は幘(さく)の御冠 、御石帯(おんせきたい)、御下襲(おんしたがさね)の裾(きよ)も用いての束帯である。 の祭服は、白色帛御五衣(はくしょくはくのおんいつつぎぬ)、同御唐衣(おんからぎぬ)、同御裳(おんも)である。 は、黒袍(くろほう)、束帯の上に小忌衣(おみごろも)をつけ、冠に日蔭蔓(ひかげのかつら)をつける。 は、白色帛畫衣(はくしょくはくのえぎぬ)、唐衣、紅切袴をつけ、その上に襅(ちはや)をつけ、髪に心葉(こころは)、日蔭糸をかける。 これとは別に、神座に奉安する斎服もある。 繪服(にぎたえ) 製。 古来より供進されており、大正の大嘗祭以降はにおいて、絹糸業者が謹製した。 麁服(あらたえ) 製。 古来より供進されていたが、平成の大嘗祭時には麻の栽培が全国的に廃れており、徳島県内では全く生産されていなかった。 しかし古来の記録や畑は現存していたため、群馬県の現役の麻農家を招いて謹製した。 これらを収める細籠も延喜式に明記されており、謹製される。 神具 [ ]• 脂燭(ししょく) 上:用 下:神饌行立神饌行立用 式次第 [ ] 明治以降の「即位の礼・大嘗祭」関連儀式の具体的な日程等については、「 」の項目を参照。 以下、特記がない場合は主な骨格が定まった『』の記述に従い、それ以降の変更(特に、明治以降の物)については追加して記載する。 本祭前 [ ] 8月上旬には、大祓使(おおはらえし)を卜定し、・に1人、に1人、に各1人を差し遣わして祓い、8月下旬にはさらに祓使を差し遣わして祓った。 が済むと、以下、各国のにを供え、(こうもん)を奏じた。 10月下旬、天皇がに臨んで(ぎょけい)する。 この御禊は、中期以降になると内ので、大正、昭和時にはので、平成、令和の大嘗祭においては宮殿「竹の間」で行われた。 11月いっぱいは散斎(あらいみ。 簡略な。 )、本祭の2日前から当日までの3日間は致斎(まいみ。 厳重な物忌。 )とされ、に触れることを戒めた。 悠紀・主基の斎場を設け、それぞれに神供、神酒、調度などを調理製作する諸屋を建てた。 竣工すると宮殿に災害がないように祈る大殿祭と、邪神を払うための御門祭が執り行われた。 本祭前日、 (ちんこんさい)を行う。 これは、天皇の霊魂が身体から遊離しないように鎮める祭であり、神楽の奉納が行われる。 本祭 [ ] 当日、巳刻(10時)に仮屋から5000人の行列が大嘗宮へ向かい、御贄などが運び込まれる。 行列は未刻(14時)に参入し、米が炊かれる。 神門に衛門が着いたあと、掌典職により悠紀主基両殿の設営が行われる( 神座奉安)。 戌刻(20時)、天皇は内裏を出て廻立殿に渡御し、殿内の御湯殿で沐浴を行う、これを 廻立殿の儀(かいりゅうでんのぎ)という。 これは「小忌の御湯(おみのおんゆ)」といい、天皇は帷(とばり)を着用したまま湯に入り、帷を脱ぎ捨てて上がり、他の帷を羽織って肌を拭う。 次に「お河薬」を供し 、御間で斎服を身に着ける。 昭和以降はこれと前後して皇后も廻立殿に入り、祭服を身に着ける。 小忌の御湯 廻立殿の儀と同時刻、膳屋において 稲舂(いなつき)がなされる。 采女が臼と杵で粟を舂き、その間のによって 稲舂歌(いねつきうた) (短歌)が奉唱される。 なお、これはあくまで祭祀の一環であり、実際に供される粟の脱穀はすでに済んでいる。 大嘗祭悠紀殿進御の図 戌四刻(21時)、天皇が廻立殿から悠紀殿へ渡御する。 この際、をさしかえられ、脂燭で足元が照らされる。 天皇が通る通路(「雨儀の廊下」)は板張りの上に布単(ふたん)を敷き、さらに葉薦(はごも)を重ねて敷いているが、天皇が通る時のみ敷かれる(まこも)がカーペット状に巻かれた状態で準備されており、天皇が通る直前で侍従2名がこれを広げ、の内とをそれぞれ奉持した侍従、天皇、天皇の祭服を持つ侍従が通り過ぎるとあとの侍従2名が直ちにそれを巻き上げる。 この天皇が通る時のみ現れる道を「御筵道」(ごえんどう)と呼ぶ。 天皇は悠紀殿の外陣に着御し、剣璽はその上座の案上に奉安される。 これに付き従った皇太子以下男性皇族は小忌幄舎に入る。 続いて皇后および女性皇族が進み、皇后は帳殿、女性皇族は殿外小忌幄舎に入る。 なお、女性皇族の列席は大正より始まっており、両社殿もこれに際して新しく設けられた。 同時に諸員が参入する。 その順序は、次の通りとなっている。 なお、平成以降は廻立殿の儀の頃に参列者全員が参入しており、天皇の渡御の際に総員起立でこれをする。 宮内庁(旧:宮内省)官員が、吉野の12人、楢の笛工12人を率いて参入。 伴・佐伯の宿禰、語部15人を率いて参入。 皇太子(皇嗣)、親王、大臣以下、六位以下、それぞれ参入。 この時、隼人は犬声を発する。 参入後、それぞれ行事を行う。 国栖が古風を奏する。 19年(288年)、天皇の吉野行幸に際して奉納して以来、国栖の民が産物献上と古風の奉納をたびたび行っており、その縁故によるもの。 平成以降は、宮内庁楽部が奏している。 それぞれの地方独特の歌詞をもって歌ったもので、国つ神からの寿歌である。 平成以降は、宮内庁楽部が奏している。 語部が古詞を奏する。 各地の国造からの寿詞。 国造は古くは国魂神の体現者であったことから、国魂神による寿詞とみることが出来る。 平成以降は、行われていない。 隼人司が隼人を率いて参入、風俗歌舞を奏する。 隼人はにさかのぼる古い部族であることから、古層の文化を再現しているといえる。 平成以降は、行われていない。 皇太子(皇嗣)以下五位以上、の拝。 次いで六位以下が行う。 大正以降は女性皇族も列席しており、まず初めに皇后が拝礼するが、諸員の拝礼後、皇后、女性皇族は廻立殿へ還御する。 亥一刻(21時30分)、 神饌行立(しんせんぎょうりゅう)が行われる。 これは、天皇自ら神に献じる神饌が采女らの手によって悠紀殿へ向かうことである。 掌典補2人が脂燭を執る。 掌典が削木を執る。 掌典が海老鰭盥槽を執る。 掌典が多志良加を執る。 陪膳采女が御刀子筥を執る。 後取(しんどり)采女が御巾子筥を執る。 采女が神食薦(かみすごも)を執る。 これは神座の前に敷かれる。 采女が御食薦(みすごも)を執る。 これは天皇の御座の前に敷かれる。 采女が御箸筥(おはしばこ)を執る。 これは竹製の箸である。 采女が御枚手筥(おんひらてばこ)を執る。 これは檞()の葉で製した ものである。 采女が御飯筥(おものばこ)を執る。 これは切り火でおこした火で蒸した米御飯と粟御飯である。 采女が鮮物筥(なまものばこ)を執る。 これは甘塩鯛である。 采女が干物筥(からものばこ)を執る。 これは干鯛である。 采女が御菓子筥(おんこのみばこ)を執る。 これは干柿などである。 掌典が蚫汁漬を執る。 掌典が海藻汁漬を執る。 掌典補2人が空盞(さかずき)を執る。 掌典補2人が御羹八足机を舁く(持ち上げる)。 掌典補2人が御酒八足机を舁く。 掌典補2人が御粥八足机を舁く。 掌典補2人が御直会八足机を舁く。 削木を執る掌典が悠紀殿の前まで進んだ時、を唱える。 これは、神饌そのものが神として扱われていることを意味する。 天皇は警蹕の声を合図に内陣へ入り、御座に着御する。 また、が流れ始め、これは天皇の還御まで途切れることなく続く。 神饌が悠紀殿に渡御すると、掌典長、掌典次長、侍従長、采女が外陣、陪膳采女と後取采女が内陣に参入する。 両采女の奉仕により神食薦を神座の前に、御食薦を天皇の御座の前にそれぞれ敷き、御食薦の上に伝えられてきた筥を並べ、蓋を取る。 天皇は神饌が用意されると、自ら箸を取り、古来の法で、規定の数だけ枚手に盛り供する( 親供)。 これに1時間20分から1時間30分ほどかかる。 親供が終わると、 御告文を奏する。 この時、総員起立する。 それを終えると、 天皇自ら神饌を聞し召す。 采女が奉仕して神饌を撤下する。 手水を使い、采女らが下がった後、天皇は廻立殿に還御する。 その際の列も、渡御の時と同じである。 最後に参列者が退出する。 この時点で深夜0時頃になる。 次いで翌辰日の丑刻(2時)から寅4剋(5時)にかけて、主基殿において全く同じ祭礼が繰り返される。 天皇はその晩はに戻らず、で翌朝まで待機する。 なお、神座は全ての儀礼が終わってのち、撤去される。 本祭後 [ ] 風俗舞装束(主基地方用) 明けて辰、巳、午の3日にわたり、節会が行われる。 にはあらかじめ、悠紀帳および主基帳が装飾される。 辰日の辰刻(8時)、天皇が悠紀帳へ出御する。 のが寿詞を奏上し(、あるいは)、がの内とを献ずる。 次に弁官が両国の献る供御の物および(ためつもの) の式目を奏上する。 次いで皇太子以下がの拝をして一旦退出する。 次いで9時より饗宴が始まる。 その順序は以下の通りである。 御膳を供する。 五位以上に饌を給う。 弁官が両国の多米都物を諸司に班給する。 悠紀国の鮮味を献る(一献)。 悠紀国のを奏する(ニ献)。 雅楽寮が楽を奏する。 御挿頭(かざし)・和琴を献る(三献)。 ここで天皇は一旦還御し、次いで主基帳に出御する。 主基帳でも同様の饗宴が行われるが、ここでは主基の風俗歌舞が奏される(一献、二献)。 最後に悠紀国の国司以下が禄を賜る。 翌巳日、再び両帳で饗宴が行われるが、両帳の内容が前日と丁度入れ替えて行われる。 すなわち、悠紀帳では風俗舞(一献)と(二献)が奏され、主基帳では主基国の鮮味が献られた後風俗舞を奏し(一献)、を奏し(二献)、御挿頭・和琴を献る(三献)。 最後に主基国の国司以下が禄を賜る。 この二日間の節会をそれぞれ「悠紀節会」、「主基節会」と表現される。 これらはいずれも、天皇が悠紀国・主基国の産品を食し、その地の芸能にも触れることから、大嘗祭の後のの性格を含むものである。 午の日、が行われる。 が披露された後、功績者への叙位の宣命があり、饗宴となる。 この饗宴が、本来の意味での「宴」であるといえる。 この3日の節会については、神社の祭礼の基本形式である• すなわち、辰・巳の両日の節会は、悠紀・主基両国が中心となって開く宴に天皇の行幸を仰ぐ形がとられ、産品を供し、芸能を披露することが主眼で、直会の性格を持っている。 一方午日の節会は、宴会を目的とするもので、ややくだけた形の饗宴である。 大正以降は、一括して「」として執り行われている。 神楽歌と御告文 [ ] 神楽歌曲目 [ ] 悠紀殿の儀、主基殿の儀ではいずれもを演奏する。 演奏はが担当する。 悠紀殿の儀• 音取 (笛、篳篥)• (本歌、末歌、和琴のみ)• 閑韓神• 早韓神 主基殿の儀• 音取(笛、篳篥)• 阿知女作法(本歌、末歌、和琴のみ)• 小前張• 志都也• 千歳(入御のとき) 御神楽の歌詞 [ ] 榊 榊葉の 香をかぐはしみ 覓めくれば 八十氏人ぞ 神垣の 御室の山の 榊葉は 神の御前に 茂り合ひに 幣 幣帛は 我がにはあらず 天に坐す 豊岡姫の 幣帛に ならましものを 皇神の 御手に取られて なづさわるべき なづさわるべき 閑韓神 三島木綿 肩に取り掛け 我れ韓神の 韓招きせんや 韓招き 八葉盤を 手に取り持ちて 我れ韓神の 韓招きせんや 韓招き 早韓神 肩に取り掛け われ韓神の 韓招きせんや からおき 手に取り持ちて 我れ韓神の 韓招きせんや からおき 薦枕 誰が贄人ぞ 鴫突き上る 網をきし 其の贄人ぞ 鴫突き上る 網をきし 志都也 閑野の小菅 鎌もて苅らば 生ひんや 天なる雲雀 寄り来や雲雀 富草 磯等 磯等が崎に 鯛釣る 海人も鯛釣る 我妹子が為と 鯛釣る 海人も鯛釣る 篠波 篠波や 志賀の唐崎や 御稲舂く 女の佳ささや 其れもかも彼もかも 従姉妹せの 眞従姉妹せに 葦原田の 稲舂蟹のや 己さえ 嫁を得ずとてや 捧げては捧げや 捧げては捧げや 腕挙を 早歌 や 何れそも 停まり や 彼の崎 越えて や 深山の 小葛 や 繰れ繰れ 小葛--(揚拍子)--や 鷺の頸 取ろンど や いとはた 取ろンど や 皸踏むな 後なる子 や 我れも眼はあり前なる子 や 谷から行かば 尾から行かん や 尾から行かば 谷から行かん や 女子の才ば や 霜月師走の 垣壊 や 翻戸や檜張戸 や 檜張戸や翻戸 朝倉 朝倉や 木の丸殿にや 吾が居れば 吾が居れば 名乗りをしつゝや 行くや誰 其駒 其駒ぞや 我れに我れに 草乞ふ 草は取り飼はん 水は取り 草は取り飼はん 千歳 千歳千歳 千歳や 千年の千歳や 萬歳萬歳 萬歳や 萬世の萬歳や 尚 千歳 尚 萬歳 御告文(先例) [ ] 現時点で史料によって確認できる大嘗祭の「御告文」は以下の通り。 建暦二年(1212年)の大嘗祭の例 建曆二年十月廿五日丁酉御記曰、公家於悠紀・主基神殿可被祈請申詞、一昨日廿三日教申 之、此事最祕藏事也、代々此事不載諸家記、又無知人歟、殊祕藏爲事也、其詞云、坐伊勢五十鈴河上天照大神、又天神地祇諸神明曰、朕因皇神之廣護、國中平安、年穀豐 稔、覆壽上下救濟諸民、仍奉供今年新所得新飯如此、又於朕躬攘除可犯諸災難於未萌、不祥惡事遂莫犯來、又於高山深谷所々社々大海小川而記名厭祭者、皆盡銷滅而已、是尤祕事也、朕字ハ只次第書樣也、實祈請時ハ可爲實名者也、 【書き下し案】 伊勢の五十鈴の河上に坐す天照大神、又天神地祇諸の神に明らけく曰さく、朕皇神の廣き護りに因り、國中平らけく安らけく、年穀豐かに稔り、上下を覆い壽ぎ、諸の民を救ひ濟さん、仍りて今年新たに得たる所の新飯を奉ること此の如し、又朕が躬に於て犯すべき諸の災難を未だ萌さざるに攘ひ除き、不祥惡事を遂に犯し來ること莫からん、又高き山深き谷所々の社々大海小川に名を記して厭ひ祭らん者、皆盡に銷し滅さんのみ、• 文正元年(1466年)の大嘗祭の例 次御祈請の事あり、〈此間采女ほとををきてまいるへし、〉其詞云、伊勢のいすゝの河かみにおハしますあまてる御神、あまつやしろくにつやしろのもろゝゝの神たちに申て申さく、われ諸神のひろきまもりによりて、國の中たひらかに、年穀ゆたかにして、たかきいやしきをおほひ、もろゝゝの民をすくはん、よりてことしあらたにえたる所の、にゐをものをたてまつる、又身の上におかすへきわさはひを、未萌にはらひの そきて、さりなハあしき事をかしき来たる事なからん、又たかき山ふかき谷所々名をしるして、ましなひまつらん物みなことゝゝくに、けちほろほさん事、これ天神地祇のあつきまもりをかうふりていたすへきもの也、• 元文3年(1738年)の大嘗祭の例 伊勢のいすすの河上に御座す天照大神、天つ屋しろ國つ社のもろものの神たちに申して申さく、昭仁諸神の広き守りによりて、國中たひらかに、年穀ゆたかにして、たかきいやしをおほひ、もろもろの民をすくわむ、よりてことしあらたにゑたることろの、にゐたるところの、にゐおものをたてまつる、又てる仁か身の上におかすへきわさはひを、はらいのそきて、さりなはあしき事をかしきたる事なからん、又たかき山ふかき谷ところところ名をしるして、ましなゐまつらんものみなけちほろほさん事、これ天神國つやしろのあつき守りをかふむりていたすもの也、と恐み々々も申て申さく、• 寛延元年(1748年)の大嘗祭の例 いせのいすゝの河かみにおはします天照大神、またあまつ神くにつやしろの神たちに申て申さく、遐仁(編集者注:桃園)すへ神のまもりにより、國ゆたかに、もろゝゝのたミをすくはむ、よりてあらたにえたるにゐおものをたてまつる、又とを仁か身におかすへきわさはひをのそき、又ところゝゝゝ名をしるして、ましなひまつらんものミなけちほろほさんこと、これあまつかミくにつやしろのまもりをかふむるへきもの也、• 年次不詳 伊勢のいすゝの川上におハしますあまてる御神、あまつやしろくにつやしろのもろゝゝの 神たちに申て申さく、御いみな諸神のひろきまもりによりて、國の中たいらかに、年穀ゆたかにして、たかきいやしきをおほひ、もろゝゝの民をすくはん、よりてことしあらたにえたるところのにゐおものをたてまつる、又身のうへにおかすへきわさはひを、未萌にはらひのそきて、さりなハあしきことをかし来たる事なからん、又たかき山ふかき谷ところ ゝゝゝ名をしるして、ましなひまつらん物ミなことゝゝくに、けちほろほさん事、これ天神地祇のあつきまもりをかうふりていたすへきもの也、 大嘗祭についての議論 [ ] 憲法の政教分離原則との関係 [ ] ・関係者を始めとする国民の一部に、大嘗祭への国費支出や大嘗祭へのの参列がのの観点から違憲であるという意見がある。 この政教分離の観点から、いくつかのが起こされているが、訴えは全て斥けられている。 これらの敗訴は、国費支出が原告に不利益を与えないという判断や、知事が参列することが政教分離の目的効果基準に照らして政教分離に反しないという判断によるものである。 1977年(昭和52年)7月にで下された判決によると、「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。 」とあり、政府はこれを理由の一つとして大嘗祭への国費支出を認めている。 ただし、1995年(平成7年)の判例では「平成の大嘗祭が既に終了しており、原告に不利益を与えない」との主旨で原告の訴えを斥けながらも、において大嘗祭について「憲法違反の疑いは一概に否定できない」と指摘したこともある。 2018年12月10日、原告241名がの規定によるの退位との即位に伴う「退位の礼」「即位の礼」「大嘗祭」などの実施が政教分離を定めた憲法の規定に違反するとして、国を相手取り国費支出の差し止めと損害賠償を求める訴えを東京地裁に提訴した。 経費と施設のあり方について [ ] 天皇・皇族の意見 [ ] は、を節約して積み立ててはどうかと側近に話していたという。 は「大嘗宮を建てなくても、毎年のを行っているでやればいいじゃないか」と語ったとされる。 は、大嘗祭の経費を国費から支出することは疑義があるとして、神嘉殿を活用して内廷費で賄うという高松宮と同様の案を示している。 令和の大嘗祭における経費支出方法と経費節減について [ ] 政府・宮内庁は、平成を踏襲して国費から経費を支出したが、従来はであった大嘗宮の屋根を板葺きに変更し 、「祭祀の本質にかかわらない限りで」という前提のもと、膳屋など一部施設を鉄筋コンクリート造りとして経費を削減した。 大嘗宮の当初の予定建築費は19. 7億円であったが 、実際には2019年(令和元年)5月10日に宮内庁で行われたで、が予定価格の6割の9億5700万円で落札し受注に至っている。 大嘗宮の儀は予定通りおこなわれ、2019年(令和元年)11月14日18時30分頃より悠紀殿供饌の儀が、翌15日0時30分頃より主基殿供饌の儀が開始され、同日3時0分頃に終了した。 なお、平成の大嘗祭に際しては、当時は反を掲げるの活動が活発だったこともあり、大嘗宮造営中はテロ対策として皇居東御苑を全面休園とし、完成後は極めて堅牢な造りの大型防護テントで主要建物を覆い隠し、4か所に2500リットルの防火槽と消防ポンプの防火設備が置かれていた。 これに対して令和の大嘗祭においては、「大嘗祭に国費を支出することへの理解を国民に深めてもらうため」との理由で、造営中も東御苑を休園せず、工事の模様を誰でも見られる状態にした。 また、大嘗祭終了後も造営中と同じく大嘗宮を一般公開し、解体後に資材を再利用することにした。 ギャラリー [ ]• 大嘗祭• 旧暦のままでは新年の1月になる場合があり、に支障があるため。 新嘗祭は、明治6年の新暦11月の卯の日であった11月23日に固定された。 ただし、(悠紀:・主基:)、(悠紀:播磨国・主基:)、(悠紀:・主基:)、(悠紀:・主基:播磨国)の時は東西の原則は当てはまっていない。 (加茂正典『日本古代即位儀礼史の研究』(思文閣出版、1999年) 第1篇第2章及び第5篇第1章)• この斎田の選定を行う都合上、践祚が8月()以降になる場合、大嘗祭は翌年に行われていた。 なお、粟については一部の県が供納できず、平成の大嘗祭では35都府県にとどまり、更に令和の大嘗祭は25都道府県にとどまった。 (神社新報、令和元年10月21日付 p. 令和の大嘗祭における庭積の机代物の一覧については を参照• 宮内庁によると、と協議の上で安全に食べられると判断した精米や大豆、干しシイタケなど29品目を週内にも国立障害者リハビリテーションセンターに提供するものの、生鮮食品など、傷む可能性があるものは従来通り埋納するという。 白平絹で巾子(こじ)に纓(えい)を結びつけたもの。 湯の花のようなもので、これを手に付けて流すことにより手水としたと思われる。 犬の遠吠えの声。 今日の能におけるシテの登場の際の掛け声に名残が残されている。 2019年4月30日に放送された『』では悠紀殿での儀式の様子が再現されている。 それによると、天皇は神饌を柏の葉で作られた32の皿に1時間半ほどかけて盛り付ける「親供」を行っているという。 これらの撤下神饌は、埋納される。 忌部氏の祖のはに随行した神とされ、その孫のは神武天皇の即位の折に鏡剣を捧持して正殿に奉安したとされている。 「タメ」は「田部」で、両国の田部の生産にかかる物の意であるとされる。 『後鳥羽天皇宸記大嘗會卯日御陪膳儀』-伏見宮本• 『大嘗會神膳次第』-東山御文庫本• 『元文3年大嘗祭御笏紙』- 東山文庫本• 東山御文庫本• 東山御文庫本 出典 [ ]• , p. 178. 『皇室事典』、1943年、• ホームページ(2019年6月4日閲覧)。 , p. , p. , p. NHK NEWS WEB. 2019年11月28日閲覧。 斎忌(悠紀国)と次(主基国)とそのについて史上初めて言及されるのは『日本書紀』巻第29の天武天皇5年のと新嘗祭に関してであるが、即位後最初の大嘗祭は天武天皇2年に既に行われている。 小山田義夫「大嘗会役小考」(『一国平均役と中世社会』(岩田書院、2008年) (原論文は1976年))• 『神社のいろは用語集 祭祀編』、監修 p. 271• 『神社のいろは要語集 祭祀編』、監修・ p. 266• こうした戦乱の時代であっても、最重要のであるとの認識は継承され、それ故には天文14年(1545年)8月に伊勢神宮へ皇室と国民の復興を祈願すると同時に大嘗祭が催行できないことを謝罪するを記している。 、『大嘗祭と古代の祭祀』あとがきに続く「大嘗祭の年表」p. 『大嘗祭神饌御供進儀の研究』、神社新報社 p. 安江和宣『大嘗祭神饌御供進儀の研究』p. 安江和宣『大嘗祭神饌御進儀の研究』p. 安江和宣『大嘗祭神饌御供進儀の研究』p. 『儀式 践祚大嘗祭儀』、皇學館大学神道研究所編 p. 372• , pp. 80-82. , p. 『神社のいろは要語集 祭祀編』、神社本庁監修 扶桑社 p. 266• 『儀式 践祚大嘗祭儀』、研究所編 p. 382• 『儀式 践祚大嘗祭儀』、皇學館大学神道研究所 p. 390• 『平成大禮要話』で、平成の大礼での大嘗宮では内外壁、天井、床仕上材には張りが用いたと回想している。 182。 『』の小項目事典• Built 2019年8月9日. 2019年12月3日閲覧。 , p. 215. , p. 217-218. 217. 三浦周行『即位礼と大嘗祭』、京都府教育会、1914年 p. 157-158• 『平成大礼記録』、宮内庁、1994年 p. 404• , p. , p. 76-78. , p. , pp. 72-73. , p. 2019年9月1日閲覧。 www. city. kamogawa. 2019年9月1日閲覧。 www. city. okazaki. 2019年9月1日閲覧。 www. shokokai-kagawa. 2019年9月1日閲覧。 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!. 2019年9月1日閲覧。 kobunsyokan. pref. fukuoka. 2019年9月1日閲覧。 広報秋田ごじょうめ No. 646. 秋田県五城目町. 2 1990年10月15日. 2019年9月1日閲覧。 毎日新聞. 2019年9月18日閲覧。 社報 春日神社 第17号. 6 平成24-06-20. 2019年9月1日閲覧。 ぐるたび. 2019年9月18日閲覧。 下野新聞 SOON 2019年9月18日. 2019年9月19日閲覧。 , p. , pp. 92,94. , p. , pp. 74-76. 『神社のいろは要語集 祭祀編』p. 263(扶桑社、2015年)• , p. 共同通信 2019年10月15日. 2019年11月12日閲覧。 , pp. 222-223. 時事通信 2019年11月18日. 2019年11月18日閲覧。 宮内庁. 2019年11月23日閲覧。 233. , p. 216. , pp. 216-217. , p. , pp. 77-78. , pp. 86-91. , pp. 124-125. , p. 218. , pp. 218-221. , p. 227. , p. , pp. 227-229. , p. 229. , pp. 68-69. , pp. 69-70. 199. , pp. 70-71. , pp. 231-232. 234. 236. この件に関しての大嘗祭の記録である『永和大嘗会記』には「金銀の立派な器」を用いないのは「神代の風俗倹約」を理由に挙げているが、は『大嘗祭神饌御供進儀の研究』のp. 6で『』のの条に「天皇豊の明り聞し看す日、髪長比売に大御酒の柏を握らしめて、其の太子に賜ひき」とあることから、倹約ではなく我が国の太古からの風俗と反論し、その古い姿が今も厳然と行われていることを挙げ、大嘗祭は「わが国が世界に誇る貴重なしかも尊い最高の伝統文化なのである」と結論づけている。 , pp. 189,232,233. , pp. 233-234. NHK 2019年7月3日. 2019年11月18日閲覧。 , pp. 236-237. , p. 237. , pp. 72-74. , pp. 114. , p. 239. , pp. 115-116. , pp. 116-119. , p. 121. , pp. 119-120. , p. , p. 243. 宮内庁. 2019年10月6日閲覧。 宮内庁. 2019年10月6日閲覧。 宮内庁. 2019年10月6日閲覧。 宮内庁. 2019年10月6日閲覧。 宮内庁. 2019年10月6日閲覧。 『日本国憲法の原理と「国家改造構想」』1994年• 毎日新聞 2018年11月30日. 2019年9月1日閲覧。 裁判所• 2019年1月21日閲覧• 朝日新聞デジタル 2019年10月23日. 2019年11月30日閲覧。 wezzy 2019年1月9日. 2019年11月30日閲覧。 朝日新聞デジタル 2018年12月25日. 2019年1月29日閲覧。 wezzy 2019年1月10日. 2019年11月30日閲覧。 東京新聞 TOKYO Web. 2019年9月1日閲覧。 多田晃子 2018年12月21日. 朝日新聞デジタル. 2019年1月29日閲覧。 2019年6月6日. 2019年11月21日閲覧。 日本放送協会. NHKニュース. 2019年11月14日閲覧。 日本放送協会. NHKニュース. 2019年11月14日閲覧。 INC, SANKEI DIGITAL 2019年7月26日. 産経ニュース. 2019年9月1日閲覧。 朝日新聞 2019年11月24日 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2016年8月)• 田中初夫『践祚大嘗祭』木耳社、1983年• 岡田精司編『大嘗祭と新嘗』、1979年、復刊1989年(特に折口信夫「大嘗祭の本義」)• 『古代研究II の発生』、2003年。 上記を収録• 『古代研究III 民俗学篇3』、2017年。 上記を収録• 『大嘗祭の本義 民俗学からみた大嘗祭』森田勇造現代語訳、三和書籍、2019年• 『天皇の祭り』、2000年• 『大嘗祭と古代の祭祀』 、2019年3月• 『即位禮・大嘗祭 平成大禮要話』、2003年7月。 ・『天皇の歴史9:天皇と宗教』〈〉、2018年。 『大嘗祭』、2019年4月。 『大嘗祭の世界 新版』、2019年4月。 『大嘗祭神饌御供進儀の研究』社、2019年5月。 関連項目 [ ]• 、巻7: 践祚大嘗祭• - 平安時代から鎌倉時代にかけて大嘗祭の翌年に催行された• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 首相官邸 2005年. 2018年5月24日閲覧。

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大嘗祭

あ づみ 悠 羽

来歴 [ ] 9月23日の第80回、2005年1月30日の第82回と新空手交流試合重量級で優勝。 」でプロデビュー。 川崎康弘と対戦し、KO勝ち。 3月20日、全日本キックボクシング連盟「TRIAL LEAGUE. 1」でと対戦し、判定勝ち。 リングネームを 悠羽輝と改めた。 2005年5月3日、第16回全日本新空手道選手権大会、K-2グランプリ重量級に出場。 決勝でに勝利し、優勝を果たした。 2005年6月14日、初参戦となったK-1 WORLD GP 2005 in HIROSHIMAのK-1 JAPAN GP リザーブファイトでと対戦し、0-2の判定負け。 本名での出場となった。 6月21日、M-1ヘビー級王座挑戦者決定戦でと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。 2009年8月11日、で行なわれたFINAL16 QUALIFYING GPのリザーブファイトでと対戦し、3Rに2度のダウンを奪いKO勝ちでリザーブ権を獲得。 1回戦を勝ち抜いたが負傷により準決勝を棄権し、マヌーフに敗れたもKO負けしていたために悠羽輝が準決勝に進出。 準決勝ではと対戦し、1Rに2度のダウンを奪われKO負けを喫した。 試合後、リザーブファイトで足の骨が折れていたことが判明した。 2009年11月8日、M-1ヘビー級王者に挑戦し、1-0の判定ドローで王座獲得ならず。 3月21日、世界王座決定戦でと対戦し、0-3の判定負けで王座獲得ならず。 2011年 和術慧舟會DUROから が代表を務めるTEAM TACKLERへ移籍。 2011年 8. 26 DEEP 55 後楽園ホール大会で 井上俊介を相手に総合格闘技戦デビュー。 1R 0:27 右フックでKO勝ちで総合格闘技デビューを飾る。 2012年 TEAM TACKLERから離れ、草・MAX、らとTEAM CLIMBを結成する。 10月19日、DEEP 60 IMPACTでのDEEPライトヘビー級タイトルマッチでと対戦し、0-5の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。 2月、リングネームを本名の 新村優貴に戻し、ミドル級へ転向した。 4月19日、HEAT 31でのHEAT総合ルールミドル級王座決定戦でと対戦し、TKO負けを喫し王座獲得に失敗した。 パンクラス [ ] 10月2日、PANCRASE 281でのミドル級キング・オブ・パンクラス決定戦でと対戦し、パウンドでKO負けを喫し王座獲得に失敗した。 10月8日、所属していたTEAM CLIMBを離れてフリーランスとなる。 2017年11月12日、PANCRASE 291でのミドル級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチで王者と再戦し、TKO勝ちを収めリベンジに成功すると共に王座獲得に成功した。 2004年12月19日 獲得タイトル [ ]• 第14代キング・オブ・王座(2017年) 脚注 [ ]• 全日本新空手道連盟公式サイト• 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年6月21日• 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年8月11日• 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年11月8日• 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年3月21日• eFight 2012年10月19日• eFight 2013年2月21日• eFight 2014年4月19日• eFight 2016年10月2日• 公式ブログ 2017年10月8日• eFight 2017年11月12日 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 前王者 第14代王者 2017年11月12日 - 現在 次王者.

次の

池羽悠

あ づみ 悠 羽

来歴 [ ] 9月23日の第80回、2005年1月30日の第82回と新空手交流試合重量級で優勝。 」でプロデビュー。 川崎康弘と対戦し、KO勝ち。 3月20日、全日本キックボクシング連盟「TRIAL LEAGUE. 1」でと対戦し、判定勝ち。 リングネームを 悠羽輝と改めた。 2005年5月3日、第16回全日本新空手道選手権大会、K-2グランプリ重量級に出場。 決勝でに勝利し、優勝を果たした。 2005年6月14日、初参戦となったK-1 WORLD GP 2005 in HIROSHIMAのK-1 JAPAN GP リザーブファイトでと対戦し、0-2の判定負け。 本名での出場となった。 6月21日、M-1ヘビー級王座挑戦者決定戦でと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。 2009年8月11日、で行なわれたFINAL16 QUALIFYING GPのリザーブファイトでと対戦し、3Rに2度のダウンを奪いKO勝ちでリザーブ権を獲得。 1回戦を勝ち抜いたが負傷により準決勝を棄権し、マヌーフに敗れたもKO負けしていたために悠羽輝が準決勝に進出。 準決勝ではと対戦し、1Rに2度のダウンを奪われKO負けを喫した。 試合後、リザーブファイトで足の骨が折れていたことが判明した。 2009年11月8日、M-1ヘビー級王者に挑戦し、1-0の判定ドローで王座獲得ならず。 3月21日、世界王座決定戦でと対戦し、0-3の判定負けで王座獲得ならず。 2011年 和術慧舟會DUROから が代表を務めるTEAM TACKLERへ移籍。 2011年 8. 26 DEEP 55 後楽園ホール大会で 井上俊介を相手に総合格闘技戦デビュー。 1R 0:27 右フックでKO勝ちで総合格闘技デビューを飾る。 2012年 TEAM TACKLERから離れ、草・MAX、らとTEAM CLIMBを結成する。 10月19日、DEEP 60 IMPACTでのDEEPライトヘビー級タイトルマッチでと対戦し、0-5の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。 2月、リングネームを本名の 新村優貴に戻し、ミドル級へ転向した。 4月19日、HEAT 31でのHEAT総合ルールミドル級王座決定戦でと対戦し、TKO負けを喫し王座獲得に失敗した。 パンクラス [ ] 10月2日、PANCRASE 281でのミドル級キング・オブ・パンクラス決定戦でと対戦し、パウンドでKO負けを喫し王座獲得に失敗した。 10月8日、所属していたTEAM CLIMBを離れてフリーランスとなる。 2017年11月12日、PANCRASE 291でのミドル級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチで王者と再戦し、TKO勝ちを収めリベンジに成功すると共に王座獲得に成功した。 2004年12月19日 獲得タイトル [ ]• 第14代キング・オブ・王座(2017年) 脚注 [ ]• 全日本新空手道連盟公式サイト• 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年6月21日• 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年8月11日• 格闘技ウェブマガジンGBR 2009年11月8日• 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年3月21日• eFight 2012年10月19日• eFight 2013年2月21日• eFight 2014年4月19日• eFight 2016年10月2日• 公式ブログ 2017年10月8日• eFight 2017年11月12日 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 前王者 第14代王者 2017年11月12日 - 現在 次王者.

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