かい ただし 少佐。 アルキメデスの大戦は実話?フィクション?櫂直のモデルは実在する?

軍隊の階級

かい ただし 少佐

略歴 [ ]• 4月1日 からなど父の転勤にともなって神奈川小学校、戸部小学校、を経て、高等科に1年半ばかり在籍した。 泰明小より東京府尋常中学校(現・)に入学。 3月31日 東京府尋常中学校を卒業。 のおりを目指すも近視もあって体格検査で落第。 9月11日 工科に入学。 7月8日 工科大学(後の工学部)造船学科(後の船舶工学科)に入学。 7月10日 第一高等学校工科を卒業。 4月1日 母親、さらに父親も亡くしていたため、給費付きの海軍造船学生試験に応募し採用となる。 6月27日 海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)• 7月10日 東京帝国大学工科大学造船学科を首席で卒業。 7月17日 に着任。 9月28日 海軍造船大技士(後の海軍造船・造機大尉)• 1月15日 造船部々員• 1月27日 駐在を仰せつかる。 2月8日 結婚。 2月28日 横浜発、アメリカ経由でイギリスへ向かう。 4月7日 着。 10月1日 グリニッジ王立海軍大学造船科修学開始。 6月30日 グリニッジ王立海軍大学造船科を卒業。 10月1日 帰朝を仰せつかる。 出発まで、イギリス・イタリア・フランスの諸造船所見学。 12月12日 日本郵船丹波丸でロンドン発。 1月26日 横浜に帰着。 2月3日 々員。 9月25日 東京帝国大学工科大学講師• 10月1日 海軍造船少監(後の海軍造船・造機少佐)• 8月5日 造船部々員• 8月16日 東京帝国大学工科大学講師解嘱• 8月16日 製図工場長、新造主任。 戦艦「」、巡洋戦艦「」、二等「」を担当。 12月1日 海軍造船中監(後の海軍造船・造機中佐)• 6月10日 造船工場長(兼任)• 4月7日 造船工場長兼務を免ぜらる。 5月5日 々員、造船監督官。 海軍技術本部第四部に勤務、主力艦の基本計画を担当。 5月18日 臨時海軍軍事調査会委員• 4月1日 海軍造船大監(後の海軍造船・造機大佐)• 10月19日 東京帝国大学工科大学兼任。 2月6日 改正帝国大学令公布、(4月1日施行)、従来の各科大学を学部と改称。 3月8日 工学博士の学位を受く• 9月22日 法令改正により、海軍造船大監あらため海軍造船大佐。 10月1日 海軍再編、海軍技術本部々員あらため海軍艦政本部々員。 12月1日 第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任を命ぜらる。 6月1日 海軍造船少将。 海軍艦政本部出仕。 引き続き第四部に勤務。 7月1日 海軍艦政本部技術会議々員• 10月1日 計画主任を解任。 同日、主としてワシントン条約下の列強建艦状況調査のため、欧米各国に出張を命ぜらる。 11月22日 日本郵船ロンドン線の香取丸にて横浜発。 8月3日 横浜に帰着。 以後約1年、不遇の日々を送る。 12月18日 (即位前の)、元帥、海軍大臣、・軍事参議官に対して講話を行い、皇太子より各種質問を受ける。 2月3日 海軍大臣に「欧米視察所見」を提出• 6月3日 海軍技術研究所造船研究部長• 12月7日 海軍技術研究所所長兼造船研究部長、技術会議々員。 11月1日 造船研究部長の兼務を解かる• 12月1日 海軍造船中将• 4月10日 官制改正により、海軍艦政本部技術会議々員あらため海軍技術会議々員。 8月 によって廃艦が決まった駆逐艦「」を実験艦として海上曳航抵抗実験を実施。 7月31日 (設計X)を海軍技術会議に提出、計画主任の艦政本部案と対決。 3月20日 待命• 3月31日 (退職金7,855円、恩給年俸3,124円)。 4月1日 三菱造船株式会社(後の株式会社)技術顧問• 4月7日 より設置された「臨時艦艇性能調査会」の事務嘱託、艦艇復原性能改正対策を精力的に指導。 6月7日 「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託を解かる。 3月22日 船体抵抗実験をまとめた論文はイギリス造船協会に評価され、外国人初の1934年度金牌授与を決定。 4月1日 海軍艦政本部の造船業務嘱託、そのころより「」()の設計に携わる。 10月31日 より「臨時艦艇性能改善調査委員会」設置、海軍艦政本部嘱託として改正対策を強力に指導。 11月 熔接制限を第四部長山本幹之助に建言。 1月 平賀提案による「船体構造電気熔接使用方針」を制定• 12月20日 東京帝国大学十三代総長。 1月~2月 「」によって経済学部の教授等13人を追放した。 4月 平賀の尽力と支援により、設置• 5月 平賀の尽力と支援により、(現・千葉工業大学)設置• 11月1日 法令改正により、海軍造船中将あらため海軍技術中将。 12月20日 東京帝国大学総長に再任。 だが、すでに健康を極度に損ね、結核菌に喉頭を冒されていた。 2月17日 午後7時55分、東京帝国大学医学部附属病院で嚥下性肺炎により64歳にて死去。 2月18日 保存のため、病理学教室緒方知三郎教授の執刀により解剖。 現在、東京大学医学部に保存されている。 2月23日 東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行、墓は多摩町のにある。 総長現職のまま死に、大学葬まで執り行われたのは平賀のみである。 栄典 [ ] 位階• (明治34年) -• (明治36年) -• (明治42年) -• (大正2年) -• (大正6年) -• (大正10年) -• (大正15年) -• (昭和6年) -• (昭和12年) - 勲章等• (明治39年) - ・• (大正2年) -• (大正4年)• - ・• (大正9年) - ・・• (大正15年)• (昭和3年) -• (昭和12年) -• (昭和18年) - 依勲功特授 ・ 外国勲章佩用允許• 艦政本部第四部計画主任に就任してからは戦艦、重巡洋艦、、軽巡洋艦、、駆逐艦、を設計した。 夕張や重巡洋艦妙高型の軽量化は各国海軍艦艇造船官を注目させた。 造船の神様、という賛辞も存在する。 一方、海軍中枢部や他の造船官らからの反対意見には頑として譲らなかったため、平賀譲(ゆずる)ならぬ「平賀不譲(ゆずらず)」と皮肉られた。 仕事上の問題で衝突があると、議論の相手が誰であれ怒鳴りつけることもしばしばで(すぐに赤熱するという意味で)「」とも渾名された。 この態度が仇となり、周囲からの反感をかい、一時左遷されることもあった。 軽量な艦体に重武装をほどこした平賀の設計は、諸外国からも脅威視された。 で巡洋艦の分類が主砲口径を基準とされたのは、古鷹型を重巡洋艦にカテゴライズして足枷をはめようという意図があったする説がある。 続くでは重巡を含む補助艦艇保有量制限がされたのも、妙高型やその改良型の建造を阻止するのが主な目的であったという説もある。 平賀の上司である艦政本部第四部長のが策定した計画は、40センチ砲装備の戦艦12隻の建造にあたって、連装砲塔58基分を共通にして大幅なコストダウンと工期の短縮を図っていた(土佐においては起工から竣工まで僅か24ヶ月)。 この日本海軍の急速な海軍戦力の拡張は、ワシントン軍縮会議の原因のひとつとなった。 しかし平賀は加賀の設計において連装・3連装砲塔混載という設計変更を希望した。 小型軽量化・安定性向上などの利点はあるが、量産効果を台無しにするものであり、山本に拒否されている。 平賀が大正9年12月に第四部計画主任に就任してからの、紀伊型の舷側装甲の増大、における重油専焼から石炭混焼への変更、安定性不足を理由とした駆逐艦の船体幅の増加は、前任者の行った艦型の整理による量産体制の否定であり、工期の延長や費用の高騰を招いた。 結果、巡洋艦20隻の取得計画が、建造費の増加で12隻に削減された。 また、大正10年度設計艦が平賀による設計変更により、重量増加により速力が2~3ノット低下している。 3500トンで5500トンの巡洋艦と同じ戦力を発揮するとした、軽巡洋艦・夕張は、予定重量10パーセント超過により速力が低下。 また船体規模の不足から、荒天性能の不足。 軽巡洋艦の任務であった水雷戦隊司令部としての機能、人員の余裕不足。 航続力不足(14ノット3300海里。 ちなみに5500トン巡洋艦は5000海里)。 航空機運用能力の付加ができないという欠点があった。 ただ夕張は一隻のみ建造された試験的存在であり、後の重巡洋艦設計の礎となり実験艦としての意義はあったという評価もある。 古鷹型も7500トンの予定が1000トン超過して速力低下している。 また単装砲塔6基という設計にこだわり、艦政本部第一部の反対を退けて人力揚弾方式を採用。 これにより砲塔内の即応弾10発を撃ちつくした後の給弾が追いつかないという欠陥を抱えていた(古鷹型の評価が高かったのは、この欠陥が知られなかったからという説もある)。 妙高型は主砲の散布界が異常に大きく、連装3基の青葉に対し、連装5基で命中率が半分という欠陥があった。 また水雷兵装を全廃した事も問題視された。 これは国防の基本計画に関わる重大事であるにもかかわらず平賀の独断で実行したからである。 用兵側では主砲は8門でよしとし魚雷装備を求めたが、平賀は条約で戦艦の保有が制限されている以上、重巡洋艦は準戦艦たるべしという信念を持っていた。 結果論としては時代の移行もあったとはいえ、平賀の独断と一致し、実戦で重巡洋艦の魚雷装備が役立つ事は少なかった。 また他国の重巡の主砲が8〜9門に対し、平賀設計の重巡は門数・防御力とも優れていた。 しかし、その性能は条約違反の排水量超過によるものであったのも否めず、現場を無視した平賀設計と、現場での尻拭い的改善が原因である。 平賀をかばいきれなくなった山本は、大正12年10月1日付で平賀を第四部計画主任から解任し、を後任にすると共に、平賀には欧州への出張・技術調査を命じ、自らは現役から去った。 平賀の後任の藤本喜久雄の最初の仕事は、連装砲塔装備の改古鷹型である青葉型の設計、妙高型の水雷兵装の復活という、平賀設計の問題視された部分の改定であった。 藤本は主砲10門はそのままに魚雷装備と両立させ、用兵側を大いに喜ばせた。 だが、用兵側の要求より高い目標で応じる藤本設計が、後の悲劇となる。 条約時代のや、は、平賀が左遷されていた時期に藤本が設計しているが、復原力不足で、を起こした。 平賀設計に輪をかけた重武装が、トップヘビーを招いたのが原因であった。 平賀が担当していれば事件は起きなかったという見解もあり、実際昭和19年11月のフィリピンを襲った台風によってトップヘビーだった米軍駆逐艦などが転覆する事故が起きたが、それに対し、平賀が復帰して改善した以降は事故はぴたりと止んだ。 ただし、平賀の設計した駆逐艦も復原力不足による転覆沈没事故を起こしている。 艦政本部長のは帰朝した平賀を海軍技術研究所造船研究部長に任じ、設計部門への復帰を許さなかった。 金剛代艦の設計時においては、技術検討会議の席上で設計部門ではない海軍技術研究所所長でありながら私案を提出し再び批判を浴びたが、副砲を高速航行時には使用できないケースメート式にする(対駆逐艦戦闘に使用する事ができない)、後檣楼が省かれたために予備の射撃指揮所が無いなど設計の内容でも酷評を受けている。 平賀はこのときの設計案においても連装、3連装の混載を主張した。 このころには「船作りは上手いが軍艦作りの能力の無い造船官」という評価であったという。 昭和7年()には、既に採用されかけていた海軍駆逐艦の主砲高角砲統一案を廃案にしたとされ、これが仇となって太平洋戦争中、日本海軍は米国海軍に対し対空能力において大幅な劣勢を強いられることとなる。 もっともこれは、平賀が左遷後、予備役に追いやられた時であり、この時期の平賀がどの程度影響力を行使できたかは疑問符がつく。 また駆逐艦の主砲高角砲化は建造時にも検討され、において実現しており、これは左遷されていた平賀の復帰後の事である。 藤本の急死後、後継者には同い年のとが挙がったが、平賀の弟子である福田が計画主任に任じられている。 昭和10年()7月、特型駆逐艦「」がうねりによって船体にしわが発生する事件があった。 これを調査した造船少佐は船体強度上の重大な欠陥とし、同型艦すべての入渠修理を上申したが容れられず、艦政本部総務部長の決定の下、定例修理で対応する予定であった。 9月に第四艦隊事件が発生すると、平賀は牧野造船少佐の上申を握りつぶした上で、藤本とコンビを組んでいた江崎を「事前の処置を図らなかった」として呉工廠に転出させる辞令を出し「将来のことを考え民間会社に移ってはどうか」と「忠告」したという。 この頃、設計部門に返り咲いた平賀は戦艦設計の唯一の経験者として絶大な影響力を振るうようになっていた。 軍令部要求に従って速力30ノット以上、主砲の艦首集中配備、充実した航空艤装を持った高速戦艦として藤本・江崎コンビによって設計が進んでいた大和型は、これ以降、平賀好みの重防御中速戦艦として設計変更が進むことになる(もっとも大和型の27ノットが、当時果たして中速だったのかは異論がある。 事実、級、も同速度である)。 そしてこのときも主砲の連装、三連装を混載した設計案を提出し、軍令部から砲塔二種の生産余力なしと拒否されている。 平賀は当時の列国の新造艦では廃止される傾向にあった中央隔壁をどの艦にも設けたが、これは船体を多少強固にする反面、魚雷命中等、何らかの要因で艦が浸水した場合に、隔壁によって片舷のみが浸水し、傾斜、沈没しやすくなる致命的な欠陥があった。 太平洋戦争では、これが裏目に出て、日本の巡洋艦は一発程度の被雷(魚雷命中)で頻繁に傾斜、転覆するなど比較的損害が多かった。 (における重巡洋艦加古の沈没がその一例) 平賀は工法に反対し工法にこだわり、結果として被弾時の損害が増えたり(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体の等の新技術を取り入れにくくするへの不信など、保守的な手法を用いるがゆえに古い技術による無駄の多い設計となっていた。 また、彼が設計を指導した大和型は防水隔壁の数が過小(20年も古い長門型と同数の23)、被弾、損傷時に於けるの研究も怠っていた(反して藤本はよく研究していた)。 その一方でわずかな能力向上のためにコストを度外視し・造船の現場を無視した設計を行い、そして重量超過や工期の遅れについては厳しく「指導」した。 平賀の上司であった山本は、敗戦の責任の多くが艦政にあり、その原因が平賀の艦政本部復帰にあると考えていたと言われる。 戦後、造船協会が山本に名誉会員の称号を贈ろうとしたときはこれを固辞し、強行するなら協会を脱退する、自分はそのような名誉を受けるに値する人間ではない、と言ったといわれる。 人物像 [ ]• 仕事のことばかり考えていて、職場で私服から軍服に着替えるのを忘れてしまったり、食事を取るのも忘れて没頭してしまうほどであった。 反面私生活では、家人に仕事の話をせず、休みは朝湯、、映画鑑賞などに夢中になった。 菊づくりが趣味で、庭に1200鉢あまりの菊を持っていた。 賞も数多く受けるなどその腕はプロ級であった。 やの基本設計をしたユースタス・テニソン・ダインコートとも親交があった。 生真面目な性格だったが、反面さばけたところもあり、総長時代の(昭和15年)1月23日、宮中にてにごを行った際にはカフスに書き込みをして、「生まれて初めてのカンニングをした」と記者会見で白状。 満座を爆笑させた。 時は陸軍には好意的な態度をとらなかった。 総長就任時、英語教育に力を入れたり、首相の卒業式参列には最後まで反対した。 最終的には東条首相は式に参列し勇壮ながらも空疎な式辞を述べたのに対し、平賀の式辞は開戦以来の浮かれた気分を否定しアメリカの工業力や学力の軽視を戒め、「功を急ぐとは、自己の名利を急ぐの意味であって、これを大にしては国を誤り」と暗に軍部を批判するもので、すでに病魔に侵されていた平賀の声は、かぼそく淡淡としたものであった。 家族・親族 [ ] 妻は原正幹の妹・カズ。 三女は元社長のに、姪(原正幹の長女)はの(・の次男)にそれぞれ嫁いでいる。 著作 [ ]• 監修・ 編『平賀譲遺稿集』(出版協同社、1985年) 伝記 [ ]• 内藤初穂 『軍艦総長 平賀譲』 (、1987年) (、1999年) 脚注 [ ]• 『官報』第4858号「彙報 - 官吏薨去」1943年3月25日。 編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』東京書籍株式会社、2015年3月、p. 182。 182頁『 大正十三年十二月 十八日 木曜日 略 平賀譲の講話 午後、表内謁見所において海軍造船少将平賀譲より各国艦艇の型式及び艦材に関する講話を御聴取になる。 元帥海軍大将東郷平八郎・海軍大臣財部彪・軍事参議官鈴木貫太郎・同井出謙治その他が陪聴する。 講話終了後、一同に茶を賜い、席上、平賀に造船上のことについて種々御下問になる。 福田武雄「」『生産研究』第11巻第6号、東京大学生産技術研究所、1959年6月1日、 pp. 136-143、。 2005年8月10日. 別冊 「東京帝国大学が敗れた日」. WEB. 2014年8月29日閲覧。 A10113457200• 『官報』第5475号「叙任及辞令」1901年10月1日。 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。 『官報』第1414号「叙任及辞令」1917年4月21日。 『官報』第2648号「叙任及辞令」1921年5月31日。 『官報』第4158号「叙任及辞令」1926年7月3日。 『官報』第1317号「叙任及辞令」1931年5月23日。 『官報』第3195号「叙任及辞令」1937年8月26日。 『官報』第402号「叙任及辞令」1913年11月29日。 『官報』第4051号「叙任及辞令」1926年2月27日。 『官報』第3124号「叙任及辞令」1937年6月4日。 『官報』第4829号「叙任及辞令」1943年2月19日。 『官報』第4830号「叙任及辞令」1943年2月20日。 『官報』第3641号「叙任及辞令」1924年10月10日。 遠藤昭『戦艦大和』(サンケイ出版、1981年)• 37 1997年10月 p67 - p69• 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 、1987年発行、、831頁 - 832頁 参考文献 [ ]• 東京大学平賀譲研究会・ 編『平賀譲 名軍艦デザイナーの足跡をたどる』(文藝春秋、2008年)• 畑野 勇『近代日本の軍産学複合体 海軍・重工業界・大学』(、2005年)• 雑誌「丸」編集部『写真集・日本の重巡 「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て』(光人社、1972) 「設計資料から見た日本重巡洋艦史」168-177頁 福井静夫が平賀譲と日本重巡洋艦各艦設計を論評している。 関連項目 [ ]• 『怒りの海』(監督、1944年5月25日公開、平賀譲の伝記映画、平賀役に、妻・光子役に)• によるライトノベルシリーズ。 天才的だがクセの強い造船技官として平賀譲をモチーフとしたトオル・ジョーニアス・ヒラガーという人物が登場する。 平賀という設計士の師匠という設定。 関連人物• 外部リンク [ ]• - BETA• 日本大百科全書 ニッポニカ 『』 -• 20世紀日本人名事典『』 - 先代: 叙爵 男爵 平賀(譲)家初代 1943年 次代:.

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平賀譲

かい ただし 少佐

弾道計算などにも役立つので応用問題を通じて身につけるように。 」 数学を担当しているミハイル少佐は難しい公式を黒板に書き、冷静な様子で説明をした。 ちなみにエレボニア帝国の去年のGDPなんだけど、前年度と比較して0.4割減少に……」 政経倫理を担当しているトワは可能な限り生徒達にわかりやすく説明をしていた。 といっても甘くはないぜ?武装した状態での姿勢を保った一糸乱れぬ行軍………終わった後わざわざセレーネ教官を呼んで治癒術をかけてもらわないと、歩く事すらできないくらい戦術科の連中もヘバってたからな。 それに立ち上がる事もできないくらいぶっ倒れれば、男連中にとっては嬉しい展開になるんじゃないのかい?」 「ハア?何だそりゃ。 意味がわかんないぜ……」 エルンストの話の最後の意味がわからなかったランディは疲れた表情で溜息を吐いたが 「戦術科の連中のようにぶっ倒れればどうせ、あの育ちのいい竜の女を呼ぶんだろう?あの女は見た目は女の中でも相当いい上巨乳だし、更に性格もあたいとは正反対だから、例え 他人 リィン の女とわかっていても、そんな女が自分の傍に来て心配そうな顔や優しそうな顔で手当てしてくれる事は男としては嬉しいんじゃないのかい?現に戦術科の男連中の一部もあの女に治療されている最中、鼻を伸ばしていたじゃないか。 何だったら、あの女にセシルが着ているような看護師の服を着てもらって、手当てさせたらどうだい?間違いなくここにいる男連中の大半は喜ぶか、更にやる気を出すと思うよ。 」 「言われてみればセレーネ教官って凄い美人の上、スタイルも抜群だし、性格も凄くいい人だものね。 そんなセレーネ教官にナース服を着て看病してもらったら、少なくても男連中は嬉しいでしょうね。 」 「……なるほど。 要するに不埒な理由ですか。 この内戦がどんな背景で起きて激化したのかを紐解いていこう。 」 「……………」 (結構わかりやすいわね……) 「ふむ……(そういう観点もあるのか。 )」 帝国史を担当しているリィンの授業をアルティナは聞きながら、ひたすら黒板に書いてある事をノートに書き、リィンの授業のわかりやすさにユウナとクルトはそれぞれ感心したり、納得し 「………ふむふむ。 (勉強になるなぁ……)」 「ハッ………」 「ふふっ……(やっぱり素敵、ですね。 )」 ティータは黒板に書いてある事をノートに書きながらリィンの授業を聞くことに集中し、アッシュは興味なさげな様子で窓の外を見つめ、ミュゼは興味ありげな様子でリィンを見つめていた。 「まずユウナは適当な場所に攻撃系の下位魔術を放ってね。 」 「はい。 「今のが下位魔術よ。 実際に見てわかったと思うけど見た目や派手さ、威力とかも下位アーツと大して変わらないわ。 ただし、魔術を放つ場所は効果範囲をちゃんと考えて放ってね。 」 「了解しました。 「今のが中位魔術よ。 この点がアーツと異なる点だから、注意しておいてね。 で、最後に上位魔術はレンが実演してあげるわ。 「今のが上位魔術よ。 で、最上位魔術だけど……最上位魔術の使い手は上位魔術の使い手よりも更に絞られる事になる上、どれも威力や範囲も余りにも凄まじいから実演は省かせてもらうわ。 」 「ア、アハハ………」 レンは上位魔術の実演と説明をした後に最上位魔術の事や実演を行わない理由等を説明した後小悪魔な笑みを浮かべ、レンの説明を聞いた生徒達全員は冷や汗をかいて表情を引き攣らせている中最上位魔術を実際に見た事があるアルティナはジト目で指摘し、アルティナ同様最上位魔術を実際に見た事が何度もあるティータはアルティナの言っている事も強ち間違っていない事に気づいていた為冷や汗をかいて苦笑し、他の生徒達はアルティナの指摘に再び冷や汗をかいて表情を引き攣らせた。 ちなみに最後まで生き残ったチームは纏めてこの俺が相手にしてやるから、光栄に思えよぉ?それと、この俺の目の前で手を抜くようなふざけた事をするバカ共はいないと思うが手を抜いて戦ったりしたバカ共はその時点でこの俺が直々に相手になるから、くれぐれも手を抜くんじゃねぇぞ?」 実戦技術を担当しているランドロスは授業内容を説明した後獰猛な笑みを浮かべて生徒達を見まわし、ランドロスの獰猛な笑みと発言に生徒達全員は冷や汗をかいて表情を引き攣らせ 「せっかく生き残っても、最後はランドロス教官と戦わなきゃいけないなんて、理不尽過ぎよ……しかも、教官と戦う事を見越して、生き残りのチームを少しでも増やす為にお互いに手加減をする事もできないし。 絶対に生き残り、挑ませてもらう……!)」 アルティナに続くように答えたクルトは真剣な表情でランドロスを見つめた。 けっこう疲れただろう?」 「………かなり。 」 「大変なのは最初から覚悟はしていましたが………」 「……あたしたちが慣れて来た所ですかさずハードルを上げてません?特にランディ先輩とか、ランドロス教官とか。 」 リィンの労いの言葉に対してアルティナとクルトは静かな表情で答え、ユウナはジト目でリィンとセレーネを見つめ 「ア、アハハ……ランディさんの場合は主に授業に乱入するエルンストさんが原因だと思いますけど、結局ランディさんも止めないでそのまま授業を続行させていますものね……」 「はは………ランディ達に限らず、俺達も結果的にそうなっているかもしれないな。 ただ、この分校に課せられたカリキュラムは多岐に渡る。 今後も、ハードな毎日が続くことは覚悟した方がいいだろうな。 」 ユウナの指摘に対してセレーネと共に苦笑していたリィンは気を取り直して説明を続けた。 「ううっ、座学がこんなに多くなければ………」 「………体力消費が想定以上です。 自由時間を利用して自習や訓練、趣味に当てても構いませんし、申請をすれば外出許可も出ますから帝都あたりに遊びに出ても構いません。 」 「へえ……!思った以上に自由なんですね。 エレボニアの士官学校なんてお堅そうだから制限付きの休養日かと思ったけど。 」 「別にそれでも十分と思いますが……」 セレーネの説明を聞いて目を丸くしているユウナにアルティナは静かな表情で指摘した。 「まあ、それがトールズのトールズたる 所以 ゆえん だな。 『部活動』を決めてもらおう。 」 「へ………」 「『部活動』……ですか?」 「……設立されたばかりですし部活はないと思っていましたが。 」 リィンの説明を聞いたユウナとアルティナは目を丸くし、クルトは戸惑いの表情をした。 「分校長からのお達しでね。 2名以上集めたら、どんな部活でも申請を許可して、道具や機材も揃えてくれるらしい。 」 リィンとセレーネの話を聞いたユウナ達は冷や汗をかいて表情を引き攣らせた。 「……さすがにそれは抵抗がありますね。 」 「ていうか、あの博士といい、ランドロス教官といい、この分校は無茶苦茶な教官が多すぎよ……!」 「実質、強制ですか……明日中に決めろという事ですね。 」 我に返ったアルティナとユウナはそれぞれ反論し、クルトは疲れた表情で呟いた。 「ああ、今日の放課後からでもさっそく検討してみるといい。 教官陣も相談に乗る。 遠慮なく声をかけてくれ。 」 「わたくし達に相談し辛かったらアルフィンさんに相談してもいいと思いますわよ。 」 「ちなみにアルフィンとエリゼにも部活の件は前もって説明し、君達の相談に乗る許可も取れているから、二人にも遠慮なく相談してくれて構わない。 」 「っ………」 「ふう、了解です……というか、僕からすれば皇女殿下達に相談する方が、教官達に相談するよりも遠慮してしまうのですが……」 「むしろ指定してくれると助かるのですが……」 リィンとセレーネの話に生徒達はそれぞれ困惑や疲れた表情を浮かべていた。 」 「……!」 「……そう言えばそれがありましたね。 」 そしてリィンが口にしたある言葉を聞いた生徒達はそれぞれ表情を引き締めた。 「ああ、既にハンガーに練習機も到着している。 戦術科生徒と合同で基本操縦を学んでもらうからそのつもりでいてくれ。 その後は、週末に実施される『特別カリキュラム』についても発表される見込みだ。 」 「……………」 「特別カリキュラム……前から気になってたけど。 」 「今、この場で内容を聞くだけ無駄なんでしょうね。 」 「申し訳ありませんが教官陣もまだ詳細は知らされていません。 」 「まあ、英気を養う意味でも明日は大いに羽を伸ばしてくれ。 アルティナ、号令を頼む。 」 「はい。 」 その後HRを終えたリィンとセレーネは教官室へと向かった。 我々教官陣も、基本的には自由にせよと分校長のお達しだ。 ただし、午後の3時からブリーフィングに参加して欲しい。 」 「ブリーフィング、ですか?」 「また軍隊っぽい用語が飛び出してきたな。 「ああ、来週末に行われる『特別カリキュラム』についての概要と目的を説明する。 」 「……なるほど。 」 「勿体ぶるねぇ。 どうやら機甲兵訓練以上に大掛かりな話っぽいが。 」 「教官陣全員が参加という事は、もしかして全校生徒が参加するカリキュラムなのですか?」 ミハイル少佐の答えを聞いたリィンとランディは疲れた表情で呟き、ある事に気づいたセレーネはミハイル少佐に質問をした。 明日午後3時、本校舎の軍略会議室に集合して欲しい。 」 そしてリィン達教官陣への連絡事項を終えたミハイル少佐は部屋から退出した。 「ったく、さすがは天下の鉄道憲兵隊っつーか。 聞いてる限り、ロクでもない話しか思い浮かばないんだが。 」 「レ、レン教官。 それにランドロス教官も。 」 ミハイル少佐が出て行った後呟いたランディの推測を聞いたトワは困った表情で答えを濁し、意味ありげな笑みを浮かべたレンとランドロスの言葉にセレーネは冷や汗をかいた。 「……同感です。 」 「うん……そうだね。 本校も大改修されたそうだけど、それと同じくらいのお 金 ミラ が掛かっていそうっていうか……問題はどこからその予算が出てるかだよね。 」 リィンの推測に同意したトワは自身の疑問を口にした。 あー、ヤダヤダ。 キナ臭い事はルファディエル姐さんやリア充皇帝共のお陰で十分味わってお腹一杯だってのに、外国にまで来て関わる羽目になるなんて勘弁して欲しいぜ。 しかも今回の職場仲間の中にもルファディエル姐さんと互角のキナ臭い事担当もいるし、巻き込まれる前にとっとと戦線を離脱したくなってくるぜ。 」 「え、えっと………冗談で言っているんですよね?」 「ハア………」 レンの指摘に対して疲れた表情で反論したランディの言葉を聞いたリィンとセレーネ、トワは冷や汗をかいて表情を引き攣らせてレンに視線を向け、不敵な笑みを浮かべて呟いたランドロスの言葉を聞いたセレーネは冷や汗をかいて問いかけ、リィンは疲れた表情で溜息を吐いた。 「え、えっと……その、わたしたちにはお止めはできませんけど……」 一方ランディの言葉を真に受けていたトワは心配そうな表情でランディに視線を向け 「冗談だよ、冗談。 いきなり放り出したりしないって。 なんだかんだ言って、戦術科の連中もシゴき甲斐がある奴等ばっかりだしな。 そんじゃ、お先に。 せいぜいガキどもの相談にお互い乗ってやるとしようぜ。 」 「俺も先に上がるぜ。 ま、俺も戦術科のガキどもに関わらず他のクラスのガキどもの相談にも乗るから、ガキどもの事で何か聞きたい事があったら俺にも相談してくれ。 その代わり、俺も相談させてもらうぜ?」 ランディは苦笑しながらトワの心配が無用である事を説明した後席から立ち上がり、ランドロスも続くように席から立ちあがった。 「ああ、了解だ。 」 「ふふ、わかりましたわ。 」 「お疲れ様でしたー。 「……二人とも、話してみると気さくだし、生徒の面倒見もいいみたいだね。 」 「ええ、ランディと長い事一緒に仕事をしていた俺もランディは教官としては打って付けの人材だと思います。 」 「初対面で、様々な理由で支援課に所属する事になったわたくし達にも、早く支援課に馴染めるように、気さくな態度で面倒を見てくれましたものね。 いきなり部活をやれっていうのもハードルが高いでしょうからね。 」 「……うん、そうだね。 繰り返しになるけど……お互い、力を合わせて頑張ろうね!」 その後教官室から退室したリィンは校舎の見回りをしながら生徒達の相談に乗り、そして下校時間になると宿舎に戻る為に校門へと向かった。

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平賀譲

かい ただし 少佐

前回まで、4回にわたって陸軍歩兵の部隊編制の話をしてきました。 :、小隊、中隊 :大隊、連隊 :旅団、師団 :軍団、軍、とか方面軍、総軍 これらの記事の中では、各部隊単位の指揮官について、小隊長は少尉、連隊長は大佐…といったように指揮官に充てられる階級の一般例を述べています。 しかしながら、軍曹だの中尉だの少将だのといわれても、あまりピンとこない人も多いと思います。 兵、、士官とかもどういった区別なのか知っている人は少ないのではないでしょうか。 歩兵部隊の編制についての記事でも冒頭似たようなことを言ってて、もはや国語辞典での意味調べの連鎖みたいになってきましたが、ともかく今日の記事はの階級について、大ざっぱながら説明します。 の例を取り上げていますが、どこの軍隊も割と似た感じではあるので、他国の軍隊でもなんとなく見当はつくようになるんじゃないかと思います。 たぶん。 将校・・兵 さて、まずはにおける軍人の階級を上から順に並べてみます。 階級リスト :大将、中将、少将 佐官:大佐、中佐、少佐 尉官:大尉、中尉、少尉 :准尉(1936年までは特務) :、軍曹、伍長 兵:、、、 〜尉官、、、兵のそれぞれで行間を空けてますが、これは軍隊における大まかな階級区分により分けているからです。 一般的に、軍隊では階級を「将校(士官)」・「」・「兵」の3種類に区分しています。 前述した階級リストでいうと、上3つ、〜尉官までは「将校(士官)」に該当します。 残る「」および「兵」は、階級リストにもそのままの名称で記載されてますね。 なお、だけあぶれちゃってますが、これは国や軍種で扱いが異なる、やや特殊な階級です。 でのは、1894年から独立した階級で当初は「特務」という名称でした。 上記階級リストにも記載した通り、1936年から准尉という名称になりましたが、これは「准少尉」という意味ではなく「」のことで、この一階級が「将校」「」に相当する一区分となっています。 では、それぞれの区分ごとに簡単な解説を。 兵 まずは「兵」。 まあ、文字通り兵士・兵卒のことと思ってよいです。 一般に部下をもたず、例えばは、の上官となるわけではありません。 では兵役法に基づき、「国民の義務」として兵となります。 ちなみに、では、陸上は陸士まで全て特別職国家公務員となりますが、の兵は「官吏」ではありませんでした。 「官吏」は国よりの選任を受けて職に勤務するもののことをいい、「国民の義務」で任につくものは含まれないからです。 (まあ、戦前の制度なんで、公務員=官吏とも言えないんですけどね。 ) なお、、といった階級は「兵」という身分のなかでの勤務年数の長短区分という色が濃いです。 入営当初は全員ですが、1年後にはに進級します。 若干の成績優秀者は6ヶ月でに進級したりもしますし、「候補者」とされたもののうち入営1年後に若干名がになる、といった制度もあるのですが、まあ、1年耐えればみんなになるわけです。 次に「」について。 は、一般に兵を取りまとめる役割を担い、多くの場合、兵からの昇進でとなります。 でも、が志願と選抜によりとなりましたが、他に、幹部候補生制度による「勤務適任証書」授与者が招集されて任官する例がありました。 なお、満40歳で予備役(平時においては実質退職)となります。 将校(士官) 最後に「将校(士官)」です。 こちらはいわゆる「」ですが、この言葉が定着したのは戦後のことで、戦前は「正規将校」と呼ばれていました。 一般になどで士官教育を受けたものが、少尉任官されることで「正規将校」としてのキャリアをスタートさせます。 でも同様で、何度かの制度変更はあったものの基本的にはに入校して、将校生徒として教育を受けたものが卒業後に少尉として任官します。 (時期によっては、入校試験合格後にしばらく兵として勤務する制度や、卒業後に見習い士官として勤務する制度もありました。 ) なお、の入校試験は、学歴等は問われないものの満20歳以下という年齢制限がありました。 少尉任官後は、規定の勤務年数(停年)を満たしたことを前提条件として上の階級に進級することとなります。 停年は、例えば中尉なら2年、大尉なら4年といった具合でしたが、規定どおりの停年で進級できるのは皇族の将校くらいで、陸大優等のエリートでも、1、2年増しから倍の年数で進級するのが普通でした。 (戦時には特例があったりします。 ) なお、将校の進級は、尉官が抜擢と先任順の併用、佐官は抜擢というのが建前でした。 実際には、少尉から中尉への進級については、同期は全軍一律で同時進級、中尉から大尉へは所属連隊の将校団内での先任順進級となっています。 卒業の正規将校でも、の出身者かどうかで進級速度が違いました。 ただし、同期生間の階級差は、二階級以内におさまるよう、人事担当部署では配慮していたようです。 また、陸士卒でも全員がに進級するわけでなく、平時の定員では、中佐進級までに同期の3分の1が整理され、軍を去ることとなりました。 現役定限年齢も階級ごとに定められており、例えば少尉は満45歳まで、少佐は満50歳までとなっております。 現役定限年齢に達した場合、予備役にされ6年後に退役となりました。 予備役、というのは普段は民間人として生活を送り、必要性に応じて(有事とか)軍に戻り、一定期間指定される職務につく義務を負うことです。 予備役服務者を軍に呼び戻すことを「召集」といい、召集解除後は、再び民間人としての生活に戻ることとなります。 元帥 おまけ。 上記の階級リストの最高位は大将であり、「元帥」がありません。 しかし、寺内寿一やは元帥として知られてますし、海軍でも ぐったり大将や(戦死後に追贈)らが元帥に列せられています。 なぜ、階級リストに元帥が無いのでしょうか? 答えは、「元帥」が階級ではなく、称号だからです。 日本では、特旨(とくし)によって元帥府に列せられた陸海軍大将が「元帥」となります。 よって、正確には「元帥陸(海)軍大将」です。 一応、単なる「称号」でしかないわけではなく、元帥になると現役定限年齢が終身となりました(陸軍大将の定限年齢は65歳)。 元帥は、先輩として軍内部に睨みを利かし、の補佐や陸海軍間の調整を行なうことが期待されましたが、実際には陸海軍それぞれの利益を主張する代弁者となることが多かったようです。 主な参考資料 本記事を書くにあたり、以下の書籍を主な参考資料にさせて頂きました。 図解・歩兵.

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