金閣寺 豆 知識。 「金閣寺」敷地内部を詳しくご紹介!豆知識で金閣寺を3倍楽しもう!

金閣寺の歴史を超簡単に解説|パパのクズボラ学

金閣寺 豆 知識

京都の世界遺産の1つ、金閣寺(鹿苑寺)。 金色に輝くその外観は、一度見ると忘れることができないほどの華やかさで、京都の観光スポットの中でも人気が高いのも頷けます。 ・金閣寺の歴史 ・金閣寺に秘められた足利義満の野望とは? ・日本を揺るがした大事件、「金閣寺炎上」 ・金閣寺が世界遺産に登録された理由とは? これを読めば、世界遺産、金閣寺の楽しみ方がさらに広がります! 1.【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)の歴史 もともとは別荘として建立された金閣寺(鹿苑寺) 金閣寺の正式名称は、鹿苑寺と言います。 今の金閣(舎利殿)を含む鹿苑寺の前身である北山山荘(北山殿とも呼ばれています)が建立されたのは1397年。 時の室町幕府三代目将軍、足利義満による創建です。 実は金閣寺がある場所には、室町時代よりもさらに時代を遡った鎌倉幕府時代に、藤原公経(西園寺公経)が建立した西園寺というお寺がありました。 藤原公経は鎌倉時代に太政大臣まで上り詰めるなど時の権力を握った公家でしたが、鎌倉幕府が滅び室町時代へと時代が移るにしたがって、権力は失われ、それに伴って西園寺も手入れがされないまま荒廃してしまいます。 そんな西園寺を譲り受け、自分の別荘として足利義満が再建したのが金閣寺の始まりです。 禅宗のお寺、金閣寺(鹿苑寺)の誕生 義満は自分の死後、北山山荘を禅宗の寺として改変するように遺言を残しました。 その遺言に従って、北山山荘は金閣「寺」という禅宗のお寺になり、今の姿につながることになります。 北山山荘を禅宗の金閣寺(鹿苑寺)として開山させたのは、あの有名な夢想礎石です。 宗派としては臨済宗相国寺派に属するお寺となります。 なぜ禅宗のお寺になったかと言えば、室町時代を開いた最初の将軍、足利尊氏が臨済禅のの信奉者だったことが挙げられます。 南北朝時代の終焉から5年後という時代背景 先ほどお話しした通り、金閣寺(鹿苑寺)は1397年、室町幕府の第3代将軍の足利義満により建立されました。 1397年というのは、2人の天皇が北朝と南朝に分かれて争っていた南北朝時代が、義満によって南北朝が統一された1392年からわずか5年後のことです。 南北朝時代は二人の天皇がそれぞれの大義をもって争った時代。 それぞれに大義があったとはいえ、戦国時代と同様、争いが絶えない時代でした。 それを終結させた義満は言ってみれば、その当時の日本の一番の権力者です。 争いの絶えないこの時代だからこそ、自分の権力や威光を示すのは大事なこと。 金閣寺にも義満のそんな思いがたくさん散りばめられています。 金閣寺に込められた義満の思いを見ていきましょう。 wikipedia. これは義満の急死により実現しませんでしたが、仮に実現していたとすると天皇の万世一系というテーマが大きく変わっていたかもしれません。 義満は武家としての頂点に立つだけでなく、公家としてもその頂点に立とうとしていたことが分かります。 南北朝時代は天皇が二つに分かれて争った時代。 すでに武士の時代でしたから、天皇(公家)とそれに着く武家を合わせた争いだったわけです。 そんな時代だからこそ、義満の公武合体という思想が 生まれたのかもしれませんね。 実は金閣寺(鹿苑寺)には、この義満の公武合体という思想が表れているのです。 それを順に見ていきましょう。 金閣寺(鹿苑寺)の舎利殿が三層構造のワケ 金閣寺(鹿苑寺)の一番の見どころと言えば、金箔によって黄金に輝く舎利殿でしょう。 この舎利殿は三階建ての構造になっており、一階が寝殿造(法水院)、二階が書院造(潮音洞)、三階が禅宗様仏堂風の造り(究竟頂)となっています。 寝殿造は平安時代に主に造られていた高貴な貴族の住宅様式、書院造は武家の書斎も兼ねた住宅様式です。 これまでの話を踏まえると、なぜ三層構造で、住宅様式が一階と二階に造られているのか想像がつくかと思います。 つまり、義満が武家の頂点でありながら、公家の頂点でもあることを誇示するため にこのような造りにしたと想像できますよね。 uraken. html) 一階の寝殿造には、宝冠釈迦如来像と足利義満坐像が並べて安置されています。 釈迦像というのは通常は何も装飾品をまとわないのが一般的だそうですが、この宝冠釈迦如来像は宝冠をまとっています。 宝冠をまとうのは通常は大日如来像なので、このような名前がついているのかもしれません。 つまり、この宝冠釈迦如来像は仏の世界を支配することを意味しています。 それに並んで義満像が安置されているということは、義満が仏の世界と合わせて現実の世界(日本)も支配していることを示すと考えられます。 まさに義満の権力、威光を示すものですね。 三階には仏舎利のみが安置? 三階にはもともと阿弥陀如来像が安置されていたという説があります。 これはもともと金閣寺を建立した土地が、西園寺氏の西園寺の領地を譲り受けたものだからです。 西園寺氏の本尊が阿弥陀如来像だったのですが、足利氏は先ほどお話しした通り禅宗での1つ、臨済宗を信仰していました。 臨済宗の特徴として、浄土宗などのように特定の本尊を立てない 、ということが挙げられます。 例えば浄土真宗の本尊は阿弥陀如来立像ですが、臨済宗として、特定の本尊はありません。 このため、不要な阿弥陀如来像は持ち出されてしまったの ではないかといわれています。 鏡湖池は日本を表している!? 金閣寺(鹿苑寺)といえば、その美しい姿が池の水面に移されている写真を見たことがある人は多いのではないでしょうか。 この池は鏡湖池と呼ばれています。 鏡湖池には大小さまざまな島が配されているのですが、最も大きい島は 蓬莱島 、別名「葦原島」と呼ばれています。 この葦原とは日本の本州のこと。 この島が本州の形をしていたから命名されたといわれています。 実は本州に似た形の島だけでなく、富士山や淡路島の形をした島までこの 鏡湖池にあるというから驚きです。 これらが意味するもの、それは義満が舎利殿から日本の形を模した池の島を見下ろすことで、日本を支配している実権を握っていることを示すためではないかと考えられています。 この島以外にも、各地の大名から献上されたその土地の貴重な石には、その大名の名前が付けられています。 例えば細川石や赤松石など。 これも義満の権力がいかに強かったかを物語っていますね。 3. 【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)の焼失 今我々が観ている金閣寺(鹿苑寺)は、創建当時の姿ではなく実は建て直されたものです。 金閣寺(鹿苑寺)は1950年、金閣寺に勤めていた林養賢という小僧による放火で焼失してしまいました。 日本が世界に誇る金閣寺がまさか人の手により焼失してしまうという衝撃の事件は、当時の日本を揺るがすほどの大事件として今でも多くの人々の記憶に焼き付いています。 これだけ素晴らしい建築物が放火により焼失する、というのもすさまじい話ですが、放火した林養賢は放火の理由について 「美しさに嫉妬したから」 と答えています。 彼がどのような意図でこのような言葉を発したのか、今ではその真意を知ることはできません。 実は放火前の金閣寺は、今のように外観が金色に輝くものではありませんでした。 金箔はすでに剥がれ落ち、どちらかというと老朽が目立つ姿だったといわれています。 それでもその美しさゆえに放火され焼失した-。 この放火事件に触発されて三島由紀夫は「金閣寺」とい う小説を書いたことはとても有名な話です。 三島由紀夫の「金閣寺」は、 金閣寺に火をつけたこの寺に住む僧の目線に立って、その幼少期から放火に至るまでの僧の内面をとても生々しく描いています。 小説では、吃音がゆえに内面に人一倍強い世界観を持つ僧が描かれています。 (実際、林養賢も吃音障害があったと言われています。 ) この僧が初めて金閣寺を訪れたとき、想像していた美しさとかけ離れた姿に一度は落胆するものの、次第にその絶対的な美しさに魅了されていき、次第に彼の心はそれに支配されていきます。 この小説を読まれていない方も、そのように人の心まで虜にする「放火するほどまでに嫉妬するぐらいの美しさ」を持つ金閣寺の姿(外観だけでなく、内面やその思想、細かい作りに至るまで)をじっくりと味わってみてはいかがでしょう。 4.【世界遺産】金閣寺(鹿苑寺)が世界遺産に登録された理由 最後に、金閣寺(鹿苑寺)が世界遺産に登録された理由について簡単に触れておきたいと思います。 実は「国宝」には登録されていない金閣寺(鹿苑寺) 世界遺産に登録されているぐらいですから、日本の文化財の中でも最高峰の価値を有する「国宝」にも登録されているのかと思いきや、実は金閣寺(舎利殿)は国宝に登録されていません。 先ほどお話しした金閣寺の焼失が関係しているのですが、実は焼失前に金閣寺は1929年に国宝に登録されています。 ですが、1950年の焼失によりそれまで創建当時の姿をとどめていた舎利殿が無くなってしまったことで解除されてしまいました。 「国宝」に登録されていないのに、金閣寺が世界遺産に登録された理由はどこにあるのでしょうか。 このようにある時代の特定の思想や文化を今に伝えるものとして、金閣寺(舎利殿)の唯一無二の存在は一度焼失したとはいえ、貴重なものと言えるでしょう。 また、世界遺産に登録されたということは、この舎利殿が創建当時の姿を正確に示すものとして認めた、ということでもあります。 さらに、足利義満は庭園や建築だけでなく芸能に関しても天性の才能を持っていたこともあり、芸能を手厚く保護した将軍としても有名。 特に、観阿弥・世阿弥親子が大成させた能や狂言など、今につながる日本伝統が生まれたことは特筆すべき内容でしょう。 もちろんこの北山文化という名前は、北山山荘、つまり金閣寺(鹿苑寺)がある北山から来ています。 建築は芸術に関しては先ほどご紹介した通りですが、そのほか足利義満が始めた政策として有名なのが、「勘合貿易」です。 それまで貿易を中断していた中国(当時は「明」)との貿易が再び活発になったのは、義満の手腕によるところが大きいでしょう。 この勘合貿易により、中国から様々な文化や技術、特産物が日本に流れてきたのも事実です。 実は鏡湖池にも、明から運ばれてきたと言われている「九山八海石」が置かれています。 いかがでしたでしょうか。 金閣寺(鹿苑寺)の成り立ちと出来た時代背景、さらに創健者の足利義満の思い、そしてそれにまつわるエピソードを知ることで金閣寺を見る目が変わるのではないでしょうか。 synapse. wikipedia. wikipedia.

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必ず知るべし!金閣寺を楽しむための4つの豆知識【世界遺産】

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金閣寺の歴史の見所を簡単に説明 まず簡単な歴史の年表をまとめてみました。 金閣寺の簡単な年表• 1224年 西園寺建立• 1397年 応永4年 金閣寺建立• 1467~1477年 応仁元年~文明9年 応仁の乱で西軍の本陣に• 1649年 慶安2年 大修理• 1906年 明治39年 大修理• 1950年 昭和25年 放火で全焼• 1955年 昭和30年 再建完了• 1986年 昭和61年 2年がかりの大修復• 1994年 平成6年 ユネスコの世界遺産登録 「古都京都の文化財」 1224年 西園寺建立 元々、金閣寺の場所には 西園寺というお寺が建っていました。 これは 藤原公経が鎌倉時代 1224年 に建立したお寺で、公経以降は子孫である西園寺家によって所有されてきました。 しかし、鎌倉幕府の終りとともに西園寺家は衰退し、西園寺も廃れていきます。 1397年 金閣寺建立 義満が西園寺を譲り受け、改築・新築を行いました。 当時は「北山殿」または「北山第」と呼ばれていました。 貴重とされていた金を大量に使い自らの権威を誇示しました。 義満が亡くなった後に 鹿苑寺と名付けられました。 1467~1477年 応仁の乱で西軍の本陣に 11年に及ぶ戦となった応仁の乱では西軍の本陣になりましたが、金閣が焼失することはありませんでした。 その後、江戸時代や明治時代に大規模な修理を行うことになります。 1950年 放火で全焼 金閣寺の歴史で最も重大な出来事かもしれません。 1950年7月に見習いの僧侶だった21歳の若者が放火し、骨組みだけを残して全焼しました。 これは後に三島由紀夫や水上勉らが題材として扱うほど衝撃の事件でした。 故意の放火であるのはなんとも残念ですね。 全焼後のおよそ2年後に再建をスタートさせて1955年に再建が完了しました。 1986年 2年がかりの大修復 この2年に及ぶ修復によって現在の金閣寺が完成されました。 金箔の張り替えが中心で通常の5倍の厚さの 金箔を20万枚使用した結果、 約7億4000万円もかかったと言われています。 道理で現在まで色落ちない輝きを放っているわけです。 足利義満の歴史 金閣寺の創始者・足利義満についても少し触れたいと思います。 義満は 室町幕府の3代将軍。 足利家で有名なのは初代将軍の尊氏だと思いますが、義満は尊氏の孫にあたります。 驚くことに義満が将軍の座についたのは 11歳のとき。 11歳というと今の時代で言えば小学5年生です。 ろくな大人にならない予感がプンプンします。 笑 義満最大の功績は 南北朝の統一です。 当時、天皇家は京都の北朝と奈良の南朝に分裂し対立していました。 義満はこの2つの統一に成功し大きな権力を握ることになります。 また 日明貿易で莫大な財力を手にします。 こうして室町時代は全盛期を迎えることになります。 そして義満は更なる野望を企てます。 1394年、長男・吉持に将軍の座を譲ります。 また1408年、次男・義嗣を色んなこじつけで天皇の養子にすることに成功。 天皇と同じ形式で元服させました。 元服というのは成人の儀のことで、 これを天皇と同じ形式でやるということは次期天皇が義嗣のなることを意味しています。 つまり、息子2人を将軍と天皇にして義満自身はその上に君臨しようとしたんですね。 義満は天皇になりたかったとも言われており、 義嗣を天皇にして、自分自身は太上天皇 上皇 になるつもりでした。 しかし、元服の数日後に突如体調を崩して危篤状態になり、最終的にお亡くなりになってしまってこの計画は失敗に終わります。 亡くなった原因はあくまで通説で何者かによってやられたのではないかと考える人も多いです。 実際に義満の自分勝手な野望を快く思っていなかった人は多かったみたいです。 特に吉持をはじめ幕府側の人間は家臣の武士を蔑ろにして皇族になろうとする義満に強い反発を持っていたそうです。 政治力は見事なものですが、信頼は低かったみたいですね。 スポンサーリンク 豆知識 次に金閣寺の豆知識を紹介したいと思います。 三層構造 金閣寺は3階建てのお寺ですが、実は 各階によって建築様式が異なる珍しい構造になっています。 1階は公家 貴族 が好んだ寝殿造り 2階は武士が好んだ武家造り 3階は禅宗仏殿造りとなっています。 義満は金閣寺建立前に 禅宗の僧に出家していました。 つまり、この建築構造は、 自分が貴族や武士を超越した存在であるというメッセージなのではないかという見方が根強いです。 国宝ではない 世界遺産にも登録された金閣寺ですが、実は 国宝ではありません。 以前は国宝指定されていましたが、前述の通り、放火で焼失した際に解除されています。 鳳凰 金閣寺の 屋根上を見ると金色の鳳凰がいます。 鳳凰は中国の伝説上の生物で権力や命の象徴。 鳳凰が建てられた理由は明確になっていませんが、 「現在の天皇に変わり新たに徳の高い天皇や将軍が現れたことをアピールするために置いたとする説」や 「単純に守り神として置いた説」などがあります。 また鳳凰は中国の朱雀と同じ認識を持たれています。 朱雀は南の方角を守る霊獣。 北:玄武、東:青龍、西:白虎 そのため 金閣寺の鳳凰も南の方角を向いています。 雪が綺麗 どの季節に訪れても外れのない金閣寺ですが、特に「雪の金閣寺」は見事な景色が広がっています。 金色の舎利殿と白色の雪のコントラストが非常に美しく、感動すら覚えます。 前日大雪で翌日晴れた日に行けば、青・白・金のコントラストでもっと楽しめます。 まとめ 今回は金閣寺の歴史の見所や豆知識を紹介しました。 金閣寺、足利義満の歴史を感じながら観光を楽しんでみては如何でしょうか。 大阪城の歴史と観光の見どころについてはこちらにまとめています。 スポンサーリンク.

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三島由紀夫「金閣寺」のあらすじを簡単に。

金閣寺 豆 知識

歴史 [ ] この地には、の元年()に藤原公経()がを建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた。 これらは公経の子孫であるが代々所有し、同氏は代々ととの連絡役であるを務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主のがを西園寺に招待してしようとする謀反が発覚したために・され、西園寺家の膨大なとは没収された。 このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。 4年()、室町幕府3代将軍足利義満がの領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。 この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。 邸宅とはいえ、その規模はに匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。 応永元年()に義満は将軍職を子のに譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。 応永15年()に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟を追放して自らここに入ったが、翌16年()には北山第の一部を破却してに移った。 その後、義満の妻である北山院の御所となっていたが、応永26年()11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の等は解体され、やに寄贈された。 また、応永10年()の相国寺(高さ約109メートル:日本史上で最も高い仏塔)の焼失を受け 、義満は当地に七重大塔(北山大塔。 相国寺七重大塔と同程度の規模か )を建立していたが、これも応永23年()1月に落雷で焼失したため、改めて義持は相国寺に七重大塔を再建するよう命じている。 応永27年()に北山第は義満のによりとされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。 を勧請開山(名目上の)としている。 足利義満の孫・8代将軍はたびたび鹿苑寺に参詣し、金閣にも上っていることが記録に残されている。 『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った17年()10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。 金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。 義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。 また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた。 室町幕府8代将軍足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘に観音殿(近世以降とされる)を建てた。 銀閣(観音殿)、飛雲閣()と併せて「 京の三閣」と呼ばれる。 では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、に主要な建物が再建され、舎利殿も2年()に大修理された。 後のにより、の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世貫宗承一により27年()から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。 舎利殿(金閣)はに基づき明治30年()に「特別保護建造物」に指定され、昭和4年()の施行に伴い(旧)に指定された。 また、明治37年()から明治39年()に解体修理が行われた。 庭園は(の前身の1つ)により14年()10月8日に・、文化財保護法により昭和31年()7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。 昭和25年()未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失()。 文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。 再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ 、昭和27年()着工、昭和30年()竣工。 同年にが営まれ、創建当時の姿に復元された。 境内にあるイチイガシの巨樹は、現在の境内が再建、整備された330年ほど前に植えられたものとも思われるが、通常イチイガシは境内などには植えられないものなので、自然植生と考えられ、かつて存在した極相性のカシ林の残存木とも考えられる。 樹高19. 5m、胸高幹周4. 93mに達し、幹の基部は1mくらいまで根上りして板根(幹の支持のために、幹の基部から張り出している根)状になっている。 イチイガシの巨木として貴重であることから、昭和58年(1983年)6月に「鹿苑寺(金閣寺)のイチイガシ(ろくおんじ(きんかくじ)のいちいがし)」が京都市の天然記念物に指定される。 昭和61年(1986年)から翌62年(1987年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、平成9年(1997年)に夕佳亭の解体修理、平成17年(2005年)から19年(2007年)に方丈の解体修理も行われている。 平成6年()12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ()「」が登録された。 平成15年 2003年 茶室 常足亭 にチタン 屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。 焼失直後の金閣(1950年7月2日) 建築形式と間取り [ ] 鹿苑寺舎利殿(以下「金閣」と表記)の建築形式、間取り等については以下のとおりである。 なお、昭和25年に焼失する前の金閣(応永5年()頃完成)と昭和30年に再建された金閣とでは細部に違いがあり、以下の説明は再建金閣についてのものである。 金閣は木造3階建ての楼閣建築で、鹿苑寺境内、鏡湖池(きょうこち)の畔に南面して建つ。 屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。 3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。 初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張りとする。 三層は内部も全面金箔張りである(床面を除く)。 初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(ここで言う「間」は、長さの単位ではなく、柱間の数を表す)。 初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している。 三層は一回り小さく、方3間である。 初層は「法水院」と称し、正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室とする。 正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている。 この室の正面は5間とも住宅風の蔀戸とし、両側面(東・西面)はそれぞれ前寄り1間を板扉、後寄り2間を土壁とする。 背面(北面)は5間とも土壁である。 以上の土壁には腰貫を通す。 うち、北面の腰貫は建物の外側から見えるが、東・西面の腰貫は室内側にしか現れない。 初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。 初層室内は1室とするが、天井に設けられた仕切りによって、西側の間口3間の部分と東側の間口2間の部分とに、ゆるやかに区切られる。 西寄り3間の部分は、奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。 床は板敷、天井は鏡天井とする。 二層は「潮音洞」と称し、四周に縁と高欄をめぐらし、外面と高欄を全面金箔張りとする。 西側は正面の間口3間、奥行1間分を吹き放しの広縁とし、その奥に位置する方3間を仏間とする。 東側は正面2間、側面4間の1室とし、仏間との間は遣戸で仕切られる。 仏間正面は中央間が両開き板戸、両脇間は上部を格子窓、下部を腰壁とする。 仏間内部は、須弥壇上に坐像(岩屋観音)を安置し、須弥壇周囲には像が立つ。 壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く。 広縁は床を黒漆塗とし、天井には鳳凰を描く。 東側の室は、正面側2間と広縁境を舞良戸とする。 東室の内部には初層から三層をつなぐ階段があり、上り階段は三層の北側の縁に通じている。 二層の東面と西面はすべて板壁とし、北面は西から2間目(須弥壇の背後)を板扉とするほかは板壁とする。 三層は「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、方3間の1室で、仏舎利を安置する。 初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。 高欄も二層のそれが和様であるのに対し、三層のそれは逆蓮柱を用いた禅宗様である。 三層の柱間装置は東西南北とも同じで、中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓とする。 三層は天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗とする。 初層内部(宝冠釈迦如来像と足利義満像がみえる) 放火事件(昭和25年7月2日)からの再建 [ ] 鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、昭和25年7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)のにより炎上(金閣寺放火事件)。 国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝作の観世音菩薩像、春日仏師作の像等10体の木像等も焼失した。 林は寺の裏山でを図ったが一命を取り留めた。 彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りにで投身自殺した。 この事件はの小説『』、の小説『』・『金閣炎上』の題材にもなっている。 なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は平成11年()に京都市指定文化財に指定されている。 再建金閣は、らの指導で昭和27年から再建に着手し、昭和30年に落慶したものである。 焼失前の金閣は明治37年から39年にかけて解体修理が行われていた。 再建金閣は、この解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造・意匠を基本的に踏襲している。 ただし、焼損部材の調査を踏まえ、旧状に復す形で一部変更された部分もある。 もっとも顕著な相違は、焼失前の金閣は三層のみに金箔が残り、二層には全く金箔が残っていなかったが、再建金閣では三層のみならず二層の外面も全面金箔貼りとしている点である。 これは、次のような根拠に基づくものであった。 明治時代の金閣の解体修理の後、再使用されなかった二層の隅木(屋根の四隅に用いられる斜材)の部分が別途保存されており、花入れに加工されて別途保存されていた。 昭和25年の金閣炎上後は、この花入れ(旧二層隅木の一部)が唯一の焼け残った部材となり、この部材に金箔が押されていたことから、再建金閣では二層も金箔貼りとすることになった。 建築史家の宮上茂隆は、もっとも風雨にさらされやすい部材である隅木のみに金箔が残っているのは不自然であるとし、二層には本来金箔は貼られていなかったとする。 また、焼失前の金閣では二層の東面と西面の中央にが設けられていたが、再建金閣では二層の東・西面はすべて壁となっている。 現在の金閣は、前述のように明治37年から39年の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、昭和27年3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので 、昭和30年10月10日に落慶法要が営まれた。 その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地のが見えるようになり、その漆もで劣化するようになったため、昭和61年2月から翌62年10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。 この修復工事に際し、金箔は通常(約0. 1)の5倍の厚さ(約0. 45 - 0. 5tが使用されている。 最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられる が、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であったという。 一方で、「一枚板」は天井ではなく床板であるという説もある。 例えば『』巻五に見える鹿苑寺の説明には「斯床三間四面也。 以板一枚為床」とある。 なお、明治期、鹿苑寺が「一枚板の天井」を目玉として誘客していたことも知られている。 境内 [ ] 鏡湖池に映る「逆さ金閣」 金閣 の項を参照。 方丈 に相当。 単層で。 6年()、の寄進により再興された。 平成17年(2005年)から解体修理が行われ、平成19年(2007年)に修復工事を終えた。 陸舟(りくしゅう)の松 方丈北側にある足利義満手植えと伝えられる松。 京都三松の一つ。 大書院 江戸中期(年間)の建築。 の障壁画(襖絵)で知られていたが、保存上の問題からに移管され(下記 の項を参照)、現在はによって「淡墨桜図」「大杉図」「日輪図」「月輪図」「鵜之図」「臥竜梅図」「千鳥図」「若竹図」等が描かれている。 銀河泉(ぎんがせん) 足利義満がお茶の水に使ったと伝えられる泉。 巌下水(がんかすい) 足利義満が手洗いに用いたと伝えられる泉。 夕佳亭(せっかてい) 好みと伝えられる。 、三畳敷の席にとからなる主屋に、こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。 初年に焼失したため、現在の建物は明治7年()に再建されたもの。 平成9年(1997年)に解体修理を行っている。 なお三畳敷の床柱は茶席としては珍しくの木が用いられており、殊によく知られている。 庭園 金閣を水面に映す鏡湖池を中心とするで、国の・に指定されている。 鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。 不動堂 年間にが再建したとされ、金閣寺境内に現存する最も古い建物。 本尊は(弘法大師)作の伝承を有する。 江戸期から既に庶民信仰の対象であった。 天鏡閣 非現存。 『臥雲日件録』 に「舎利殿北、有天鏡閣」(舎利殿の北側に天鏡閣がある)と記されており金閣と「複道」で繋がっていた。 『教言卿記』には天鏡閣に15間の会所があったと記されている。 外観や構造を詳細に記述した文献や絵図は残っておらず、電子調査を行ったが礎石などの遺構は確認できていない。 文化財 [ ] 重要文化財 [ ]• 絹本著色足利義満像(応永十五年六月足利義持賛)・絹本著色足利義満像(義満の和歌三首あり)• 絹本著色達磨図• 大書院障壁画(筆)宝暦九年の年記がある• 紙本墨画葡萄図(葡萄之間)(一之間)15面• 紙本墨画松鶴図(松鶴之間)(二之間)8面• 紙本墨画芭蕉図(芭蕉之間)(三之間)12面• 紙本墨画鶏及秋海棠図(四之間)11面• 紙本墨画竹図(狭屋之間)4面• 木造不動明王立像(不動堂安置)(西園寺護摩堂旧本尊)• 子元祖元高峰顕日問答語• 慈聖院并寿寧院遺誡 伊藤若冲の障壁画をはじめ、大部分の指定文化財は本山であるが管理しており、で保管されている。 特別史跡・特別名勝 [ ]• 鹿苑寺(金閣寺)庭園 - (現在の)により大正14年(1925年)10月8日に史跡・名勝に指定。 昭和31年(1956年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定。 焼失した文化財 [ ]• 臨済宗相国寺派• 臨済宗相国寺派• 『日本家紋総鑑』 、1993年、373頁。 『室町人の精神 日本の歴史12』()(原著は )、84-85p• (臨済宗相国寺派公式サイト)。 (、2016年7月8日記事(47NEWS))。 (、2016年7月8日記事)。 「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』()2010年(原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年)、29・36p• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』pp. 91 - 92• 2008年11月23日. の2009年2月10日時点におけるアーカイブ。 2020年4月28日閲覧。 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp. 103• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 103• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 106• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 103• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp. 34 - 35• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp. 20 - 21• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp. 30 - 31• 本節は脚注で特記した箇所以外、以下の資料による。 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp. 100 - 103• 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』pp. 124 - 127• 、京都市歴史資料館「フィールドミュージアム京都」• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp. 100 - 101• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』p. 102• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』pp. 101 - 102• 、全京都建築労働組合• 、浩悦庵• 京都市編纂『京都名勝志』(金閣寺の項、1928年、p. 468)など• 坂内直頼の論説(『山州名跡志』巻七鹿園寺、1711年、p. 159)、村田治郎の文章(鹿苑寺編『再建金閣』鹿苑寺、1955年、p. 16)、後藤柴三郎(京都府文化財保護課技師:当時)の座談会での証言(村田治郎ほか「金閣の復旧をめぐって」文化財保護委員会監修『日本文化財』No. 6、奉仕会出版部、1955年10月、p. 32)など• 京都観光Navi. 2018年2月17日閲覧。 のが3年()から文明5年()まで書いた日記• 文化財建造物保存技術協会編・刊行『国宝・重要文化財建造物官報告示』、1996年• 文化財保護法の施行(1950年8月29日)以前に焼失したため、同法に基づく国宝(新国宝)には指定されていない。 文化庁編『戦災等による焼失文化財(増訂版)美術工芸品編』、、1983年 参考文献 [ ]• 『古寺巡礼京都20 金閣寺・銀閣寺』、12月1日、井上靖、塚本善隆監修、竹中郁、村上慈海著• 『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、11月• 『日本名建築写真選集 11 金閣寺・銀閣寺』、1992年11月 、、• 解説 宮上重隆「足利将軍第の建築文化」• 『古寺巡礼 京都 20 金閣寺・銀閣寺』淡交社、1977年• 村上慈海「金閣寺・銀閣寺の歴史」• 『日本歴史地名大系 京都市の地名』 1979年9月1日• 『角川日本地名大辞典 京都府』 1982年07月• 『国史大辞典(4)』 1984年1月1日• - 通称「銀閣寺」。 - 相国寺派管長• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 オープンストリートマップに があります。 - (2011年11月9日アーカイブ分)• 冨井正憲、工学研究所所報、2004年11月30日.

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