藁人形論法。 藁人形論法(ストローマン論法)とは?由来と具体例、対策を調べた!

呪いや藁人形などは本当に効果があるのですか?今、知り合いが呪うと言っていて...

藁人形論法

「藁人形論法について」 ある回答者の方から私の反論はストローマン(藁人形論法)であるとのお怒りの意見がありましたがどうも納得できないので質問させて戴きます。 言葉の定義からいうとこれはある主張、表現に対して作為的に元の形を歪めて使用するものであり言論のモラルとしては批判されてしかるべきものでしょう。 例えば文脈を無視しあるセンテンスだけを取り出すなどの手法はこの藁人形論法だと思います。 これは必ずしも適例かどうかは判りませんが政治家の不適当な発言として糾弾されるものの中にはかなりの数この手法が取られていると個人的には感じます。 ただどうもこの方は私が彼の文章を私なりに解釈することにも不満な様です。 引用をするのは私はこの文章に対してこう考えると示すのに便利なのでする方は多いですがそれを果たして藁人形論法と言うべきなのでしょうか。 これについては実例を出しません。 別にそのこと自体の判断を仰ぐものではないからです。 では原理原則としてはどこまでを藁人形論法と考えるべきで、どこからが各自の自由な裁量なのでしょうか。 私の考えを一応書いておきますと所詮人の認識能力は限定的であり快にしろ不快にしろ記憶に残るセンテンスというものはあるでしょう。 ですから人はある説に対して意見する場合はその記憶に残る部分に焦点を当てて自分の意見を構築する傾向にあります。 ですから言葉などというものは数字の如く客観的に伝えられるものでは在り得ないのです。 その前提に立って言えば藁人形論法というものはその個人の道徳性に左右される要素が大きいと考えます。 すなわちその者がその発言を貶めたい為に引用をするなら藁人形論法ということになるでしょうし、また悪意なく引用するならそれは藁人形論法ではないことになります。 最後はモラルの話になってしまうのですが。 これについてもっと優れた定義付けがあるならお聞きしたいので回答願います。 補足catさん。 全てはあなたの推察の通りだと思います。 確かに「偽預言者」は不用意な発言であったと思います。 私は質問する場合にはまず私見を示すべきと考えておりますので危惧はあったのですが率直にこの言葉を使用しました。 しかしオウム事件についていろいろな方の意見を聞きたかったのは本当です。 案の定また「いきなり喧嘩腰」の回答が来て、この人は私が何を言われても傷付かないと思っているのかなと考えておりました。 質問の主旨から外れてしまうのですが・・・ 既にお気付きだと思いますが、motorcycle1129さんの思想や宗教観など、このカテに長くいる方であれば周知のことと思います。 前回の質問に何の先入観もなく回答されている方もいることを考えれば、あなたが納得できないと考えられるのも無理もないことだと思います。 そこで私は、藁人形論法についての見解ではありませんが、思うところを書かせて頂きます。 前回の質問では、一個人として、麻原という人間の考察をしたかったのだと思います。 ですがあなたのイメージが定着しているので、あのような反応をする方がいただけだと思います。 そこにはいくつかのまずいキーワードがあり、代表格は「偽預言者」だったのだと思います。 ただそれだけで、そこだけを持ってしてあの質問全体が批判されることはないと個人的には思いますが、そこはもう諦めるしかないと思います。 そしてあなたのキリスト者としてのイメージが既に定着していることを肝に銘じ、哲学的手法に自ら乗る、しかないのではないかと思います。 悪意ある人をも想定して細心の注意をはらい、質問文を作成するというだけなのですが・・・。 そこにはあなたの宗教観を曲げる必要もなく、ただ、誤解を招かないようにと言葉に注意するだけです。 その点では無用心だったのではないでしょうか?あなたは正直で真面目すぎて、誤解されやすいのかもしれません。 現に私も何度か誤解していますし。 自分の話に飛んで恐縮ですが、私はID論者であり進化論に異議を唱える異端児として、かなり中傷されてきました。 生物カテに古くからいる回答者さんは知っています。 ですがそんな私も科学的な見解がほしい時があります。 頭はオカルト、なのに求める見解はより科学的にという考えなので、質問する時には細心の注意をするのです。 それは「科学の手法に自ら乗る」ということで、ID論を匂わせるような言葉は一切排除。 誤解を招くような書き方は避けます。 これは自分の支持する論を隠すことではなく、自分の考えを曲げることでもなく、ただ求める回答を得るために、質問の趣旨の誤解を避けるためです。 生物カテには進化学の専門家の方もいて、そういう方の専門的な見解が聞きたいからです。 進化論を否定する私が、より科学的な見解を聞こうとするのですから、普通に質問文を作成すればどこかに自分の主観が入ってしまいます。 そこを最大限注意して、科学の手法に自ら乗せるのは本当に骨が折れ、ですが仕方ありません。 私の質問を悪意あるものと受け取らないとは限らないのですからね。 >言葉などというものは数字の如く客観的に伝えられるものでは在り得ないのです いいえ。 ここでは言葉が全て。 ということは、伝えられると思います。 あなたの定着したイメージは哲学的な質問をする上で不利になっているというだけで、質問の趣旨を伝えることは不可能ではないと思います。 解る人にだけ解ればいいのだ、というのでなければ、ほぼ全ての人に誤解なく質問の趣旨を伝えることは不可能かもしれませんが、このカテの人にだけ伝えるのであれば、哲学の手法に乗せる、ということだけで適うと思います。 イメージが定着してしまっているので誤解を招かないように、ほんの少し言葉に注意してみてはどうか?と提案したかっただけですので。 一般的に考えれば仰るように「この文章に対してこう考えると示すのに便利」だから「あるセンテンスだけを取り出す」手法自体、批判され得るものではありません。 ただ、その場合の引用は他者の主張へのショートカットとしての引用であるべきです。 その引用から他者の主張が特定でき、その主張を第三者が確認できる必要があります。 でも、知恵袋ではそのセンテンスへのリンクを貼らない限り、第三者には質問者さんが引用した箇所しか他者の主張を知ることはできません。 これは引用された一文が他者の主張の骨子であるかのような印象を第三者に与えてしまう危険性を伴っています。 つまり、質問者さんにとっての便利が第三者の誤誘導に繋がり、引用された本人の主張が歪められて喧伝されてしまう可能性があるということです。 勿論、質問者さんは意図的に引用内容を歪めるつもりはないでしょうし、だからこそ、藁人形論法と批判されることに納得がいかないのは当然ですが、しかしながら、自己都合ばかりに気を取られると意図せぬところで藁人形論法と同じ結果を招くことがあるということです。 仰る通り、人間である以上、記憶に残る部分が過剰にクローズアップされてしまうことはあるでしょう。 だからこそ、他者の主張の引用は慎重であるべきだし、質問者さんの意見の構築が正しいのか否かを第三者が客観的に判断し得るソースを提供する必要はある。 ましてや主題が他者の主張であるのならば、その他者の意図が第三者にも正しく伝わるように配慮することは議論する者にとっての最低限の礼儀であるだろうと個人的には思います。 現実問題、結果として他者の主張が本人の意図と異なる印象を与える形で引用されているのだとしたら、質問者さんの悪意の是非はさほど重要ではないだろうと思います。 何故なら引用された他者への誤解は既に起きてしまっているからです。 質問者さんが後から悪意はないと主張したところで何一つ事態は改善されません。 ゆえに自己主張において大事なのは動機よりも結果です。 李下に冠を正さず、ということです。 悪意がなくても、例え親切心からでも、相手の大事なものを壊してしまえば、それは結果ゆえに批判されることはあるということです。 言葉が主観的であるからこそ、他者の引用の取り扱いは慎重であるべきだし、人の道徳性やモラルの確認は常にその言動によって判断されるのですから、結果が出た後の動機の主張はあまり意味がないだろうと思います。 それは逆からいえば結果となる言動に注意することで誤解や納得できない事態は防げるということでもあります。 質問者さんご自身、今回のように結果から藁人形だと誤解されることはあるわけで、それを質問者さんが納得できないように、引用によって誤解された相手の方も納得できないのだと思います。 言葉自体が客観的ではないのだから相手を貶める動機さえなければ藁人形論法にはならないだろうという考え方はいささか危険です。 歪めるかもしれないけど仕方ないよね、という気持ちはあったともいえるわけですから、それは未必の故意と見なされてもしかたないかもしれません。 未必の故意が故意である以上、そういう結果を招くことをわかってやったということになり、それは質問者さんに悪意があったと主張することを許すものともなるでしょう。 ゆえにやはり李下に冠を正さずです。

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藁人形論法(ストローマン)とは?具体例と対策・対抗法を解説!

藁人形論法

ついったーらんどで MMT信者が言及しているのを見かけて、経産官僚・中野剛志氏の「」を第3章まで拝読してみたのだが、藁人形論法だらけの経済学非難になっていた。 無数にある論文のうちある幾つかに書かれている主張を見落としているのであれば仕方が無いと思うが、学部向けの経済学の教科書に書いてある事を見落としているのは問題だ。 また、論理的に煮詰めて考えているのか怪しい箇所もある。 このモデルでは消費財が腐敗するなどして貯蓄ができない世界を考えるのだが、生産した消費財を貨幣と交換することで貯蓄機能を得ることができる。 つまり、標準的な経済学では、動学モデルで貨幣機能を考えている。 また、貨幣は現在の消費財と将来の消費財を媒介するためのもので、無価値な紙切れでもよい。 マクロ金融を学んで来た人々が、中野剛志氏の経済学批判を読んだら、その藁人形論法ぶりに困惑するのは確実だ。 「不確実性を想定しない主流派経済学の一般均衡理論では、貨幣がなぜ価値貯蔵手段になるのかが説明できない」(p. 75)とあるのだが、Samuelson OLGで説明している。 金属主義 vs 表券主義と言う軸を設けて、「主流派経済学が金属主義に立ち」(p. 58)誤まった理論的帰結を導き出していると言う主張をしているのだが、Samuelson OLGではどちらでも良い。 学部のマクロ経済学もだいぶ忘れ去られている。 金属主義 vs 表券主義と言う軸を設けているのだが、「総需要不足による不況、すなわちデフレ」(p. 104)にあるか否かの方が問題な事に気づいていない。 「総需要不足による不況、すなわちデフレ」(p. 104)である限り、「政府の国債発行は、民間部門の資金量の制約から自由になる」(p. 105)と言うのは、「主流派経済学からすれば到底受け入れがたいこと」(p. 105)とあるのだが、AD-ASモデルやIS-LMモデルであれば、総需要管理政策は肯定される。 と同じ話だが、「現代経済においては…(融資によって)銀行には準備預金を増やす必要が生じ、中央銀行がこの需要に対応して準備預金の量を増やす」(p. 68—69)から、教科書の信用想像の説明は間違っており、主流派マクロ経済モデルも間違っているとあるのだが、これも藁人形論法である。 NKなどの主流派経済モデルには往々にして政策金利しか入っておらず、準備預金の量で景気コントロールはしていない。 「主流派経済学の貨幣観は、その開祖たるアダム・スミス以来、金属主義の立場に立ち、物々交換の困難から貨幣が発生する起源を説明してきた」(p. 61)とあるのだが、非マル経の金融論で貨幣観を教えている教員もテキストも無いと思われるので根拠が分からないし、アダム・スミスの説が現在も踏襲されているとは限らない。 セイの法則も批判されているのだが、今の経済学にあるのは効用の逓減法則と局所非飽和による凸選好である。 競争均衡に至る理由が無いと批判されているのだが、競争均衡(もしくは均衡を含む経済のコア)以外の点において取引を妥結すべき理由が全員に生じないし、少数が抜け駆けをして取引をする理由も無いことが証明されているのを忘れている。 デフォルト(債務不履行)を考慮できないと言う批判も、確率pで財を渡す権利を売買すると考えれば組み込めるので、意味不明である。 「インフレ・ターゲット論の誤謬は…外生的貨幣供給理論に立脚している」(p. 93)と言うのは壮大な勘違いである。 流動性の罠対策としてのインタゲは、政策金利に関する時間軸効果狙いである。 デフレが貨幣供給で解消できると信じていたらインタゲなど要らない。 なお、主目的は金融政策の見通しをよくすることで、金融市場の変動を抑える事である。 量的緩和を強調するリフレーション政策と、インフレ目標政策の見分けがついていないのであろうか。 「財政破綻しないためではなく、過度なインフレを抑止するための財政規範」(p. 109)をすべしと言う話をしているのだが、主流派と言うか教科書経済学の議論だと財政破綻は高インフレを意味していることを把握できていない事が分かる。 この辺、ツイッターランドで良く見かける藁人形論法だが。 86—87の最後の貸し手云々の説明はよいのだが、「主流派経済学者の間でも異論はないであろう」とポツリと書いてあって、Diamond and Dybvig 1983 と言うミクロ金融の教科書の最初に載っているような話も知らない雰囲気が醸しだしている。 ミクロ金融のテキストを読まなくても、ゲーム理論の教科書で解説を見かけることもあるのだが。 間違っているはずの主流派経済学のインフレ率決定理論のつまみ食いをしているのも気になった。 「総需要が総供給を上回り、それが行き過ぎれば極端なインフレーションを引き起こす」(p. 109)「労働組合や寡占企業による賃金・価格形成行動に起因するインフレ」(p. 113)という言及はよいのだが、「仮に銀行が、不況下にもかかわらず何らかの理由によって国債を購入しなくなり、金利が急騰するような場合があったとしても、中央銀行が国債を購入することによって、金利の急騰を回避することができる」(p. 104)と、貨幣需要の下落、貨幣の流通速度の上昇によるスタグフレーションの発生の可能性を無視している。 昔と言うか今でも南米で起きているのだが。 資産価格の下落ショックがあると担保不足で不況が長引く事になるフィナンシャル・アクセラレーターの研究で知られるベン・バーナンキ元FRB議長が新自由主義者にされている。 「(バブル)が崩壊したとしても、金融緩和政策によって比較的容易に景気を回復させ、経済を正常化することができる」(p. 92)と考えていた可能性は、「金融政策が単独で達成できることと、財政政策との協調がある程度必要なこととをはっきりと区別していなかった」と言っているので、無いとは言えないが。 参照している研究への誤解 MMT教祖Wrayの議論を参照しているはずなのだが、誤読している気がする。 「レイは、政府は支出を操作して、完全雇用と物価の安定を達成することを目標とすべきと主張する」(p. 117)とあるが、Wrayのペーパーにはインフレに関しては増税で対処しろと言っているし、"MMT does not rely on increasing aggregate demand in order to reach full employment"とも明言している。 支出に雇用保証プログラム(JGP)を含むのであれば、完全雇用に関しては支出で対処する事にはなるであろうが。 115)。 これは間違いとは言えないのだが、「貨幣と租税」の節(pp. 57—61)で、「銀行預金は、現金通貨との交換が保証されている。 銀行預金が貨幣として使用されているのは、究極的には、現金通貨に裏づけられているからである」(p. 57)としつつ、現金通貨が流通する理由を説明している。 貨幣は銀行が創造するものと言うMMTの信用貨幣論から外れており、一貫性に欠ける。 『歴史研究によれば、「計算貨幣」や「信用」といった社会制度は、商品交換や金属貨幣の登場よりもはるか昔の古代バビロニア時代以前の文明において、すでに存在していたことが明らかとなっている』(p. 61)とあるのだが、「」あたりの請け売りで騙されていないであろうか。 この本、妙に記述が怪しいところがあり、信憑性が低い。 原始社会では物々交換は行なわれておらず、物々交換が「計算貨幣」や「信用」に発展したことを否定する説はあるのだが、物々交換が商品貨幣を生み出した可能性は否定されていない。 藁人形論法以外のおかしい点 「ありもしない財政危機に怯えて、国防努力を怠り、みすみす中国の軍事大国化を看過してしまった」(p. 108)は、 根拠と主張の乖離(Non sequitur)と呼ばれる詭弁。 日本が防衛予算を増やしても、中国の軍事予算の拡大は止まらない。 それとも中国と同じ経済成長率が可能だったと言いたいのであろうか? 債務国と債権国の力関係の話しで、債務国の方が有利だと言う話をしているのだが、借金のカタにスリランカの南部ハンバントタ港を99年間リースすることになったスリランカのことを、だれかインタビューして欲しい。 デフォルトをすると、その後の資金調達に苦労するようになるわけで、借金に困っても踏み倒せば良いと言えるかは、国際関係次第。 歴史的に「信用貨幣が国家をまったく介在させない場合もある」(p. 64)と例を挙げる一方で、「理論的に検討するならば、信用貨幣論もまた、国家と深く関係していることが分かる」(p. 64)と言われても困惑する。 「民間取引における負債の確実な支払いを保証するには、国家の司法機能が必要となる」(p. 66)は分かるが、「この司法機能は、貨幣にとって、ほとんど必要条件と言ってもよい」と言うのは論理の飛躍がある。 評判によって債務契約が保証される場合もある。 「財政政策とは、借入れの需要の創出を通じて貨幣供給量を増やす政策」(p. 96)としてしまうと、財政赤字は政府が財・サービスを提供しなくてもよいことになり、pp. 96—97の90年代後半は日本の公共投資が減少していたから財政政策が不足していたと言う指摘が意味不明になる。 財政赤字は拡大していた。 減税は社会保障関連費は借入れの需要の創出にならないと言う主張なのかも知れないが。 (確率的なリスクではない)不確実性を数理モデルで表現できないと言うのは分からなくもないが、『主流派経済学が導入する「時間」の概念は、日常的な意味における時間ではなく、差分方程式や微分方程式という形で表現されるような論理的な時間概念である』(p. 75)「数学的分析こそが厳密な科学であるという通俗的な科学観」(p. 76)と、物理学あたりにも喧嘩を売っている。 経済学は教科書が分厚くなりすぎて、もうそれを読む気がしない人々が、非主流派経済学に流れ込んで、ありもしない主流派経済学の主張を非難しだす藁人形論法をはじめているのが問題ぐらいに思っているのだが、その傍証に使える本であった。 我が国、経産官僚に悩まされている感がすごくある。 112• 211• 146• 123• 105• 157• 365• 397• 297• 333•

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呪いや藁人形などは本当に効果があるのですか?今、知り合いが呪うと言っていて...

藁人形論法

『安倍総理が「死亡者のカウントに漏れはない」と言ったのに実際は漏れがあるじゃないか!問題だ!』と言う人が居ますが、典型的な藁人形(ストローマン)論法でした。 引責辞任してもらいたい。 しかし、これは 藁人形論法=ストローマン論法の典型例です。 安倍総理会見では「死亡者のカウントに漏れはない」とは言っていない 川上浩一教授のツイートには丁寧に「ソース」として記者会見のトランスクリプトページのリンクが付いていました。 この話に関連 しそうな箇所は以下です。 では、 果たして日本はそれを隠しているのかという議論があります。 これは、私は違うと思います。 例えば死者の数は、PCR検査の数が少ないけれども、死者の数が多いということではありません。 では、死者の数、肺炎で亡くなっている方は、実はコロナではないかということをおっしゃる方はいるのですが、コロナウイルスの場合は専門家の先生たちが、これはみんな、私も確認したのです。 私も、これはそういう批判があるんだけれども、どうなんだろうかと。 このPCR検査、これが少なくてという話で、伺ったのですが、これは、 肺炎で亡くなった方については、基本的に肺炎になって、最後はCTを必ず撮ります。 それで、CTにおいて、これは間質性肺炎の症状が出た方は必ずコロナを疑います。 そういう方については、これは必ず大体、PCRをやっておられます。 ですから、そこで間質性肺炎でない肺炎で、例えば細菌性等々の肺炎で亡くなられた方等について言えば、これはコロナではない。 ですから、コロナではなくて肺炎で亡くなったという方はコロナではないのだという説明を私は受けて、私は納得したところでございます。 ここから明らかなように、安倍総理は 「死亡者のカウントに漏れはない」などとは一言も言っていません。 「 新型コロナの死者数を隠蔽していない」と言っているに過ぎません。 「カウント漏れ」は起こるもの ニューヨーク市では新型コロナウイルスによる死者がいきなり3700人以上も増えたということがありました。 これは病院以外の自宅などでの死者は検査もされていないために新型コロナが死因であるということが判明していなかったのが、後の調査の結果、そうであることが分かったというものです。 これは日本でも起こり得るのものです。 これを「カウント漏れ」と言うのか、「判明したものから順次公表している」と言うのかということはともかく、実態把握に時間がかかるために時間差で数字が追加されるということはあり得ることです。 これをいちいち問題視する意味がわかりません。 横行する藁人形論法 「朝日新聞が布マスクを3300円でぼったくり販売している」、しばらく前からまとめサイトで流行ってるネタですね…。 公的な場での政策への批判に対してまとめサイトネタで朝日新聞を叩いて応答する人間が首相だよ…。 絶望する…。 大手新聞社などもそういう論説に乗っかって記事を書いており、いちいち一般人が情報源を確認しなければなりません。 高 史明教授も川上浩一教授もなぜこういう基本的な事実を歪めてしまうのでしょうか? 以上 Nathannate.

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