カウンター カルチャー と は。 70年代にカウンターカルチャーが終焉したそうですが、その原因は何ですか...

カウンター・カルチャーが台頭した70年代に「プカプカ」を歌い継いだのは役者やダンサーが多かった|TAP the SONG|TAP the POP

カウンター カルチャー と は

大きな圧力に屈することなく、反抗する。 なんだか物騒な言葉ですが。 これまでの歴史を振り返ってみると、「世界が変わった」といえる出来事はいつでも、このような人の勇気ある行動が背景にあるような気がします。 この意識が風潮した時代があります。 それは、主にアメリカの1960年代。 既存の文化や体制を力強く否定し、独自の文化を生み出していく姿勢を指します。 その代名詞となったのが、ヒッピーたちです。 彼らは、時代と比例して進行していく消費社会や、利益を裏腹に展開される戦争に対して、自ら服を脱ぎ、平和を謳い、ライフスタイルをもってそれを体現したのです。 このアメリカが持つ1960年代は、のちの半世紀を築き上げる礎となったといわれることもあります。 今でこそ、若者を中心とした群衆が集まり、一つのことに対して、時に暴力的に抗うようなことは滅多にありませんが。 この時代は、ほぼ日中で運動が盛んであったということです。 第二次世界大戦後になお、行われることになったベトナム戦争や、人種差別。 この時代背景に、人たちはあらゆるやり方で動いたのです。 畑違いと思われるIT業界にも、このカルチャーは影響を与えました。 スティーブジョブズや、GOOGLE元会長であるエリックシュミットも、この激動の時代を青春し、自らの製品のヒントを得たということです。 カウンターカルチャーとは、いったいなんなのか。 その象徴となった事件を幾つか、ご紹介します。 【1】ヒッピーの神様、ティモシーリアリーがリード大学で吠える 「TURN ON, TUNE IN, DROP OUT. (スイッチを点けて、波長を合わせろ。 そうしたら、全てを変えてしまえ。 あらゆる方法で、その一生涯を脳の覚醒を追求することに費やしたティモシーリアリー。 彼は、最高学位であるハーバード大学で教鞭を取る一方で、好奇心に従い、薬物を使ってまで研究に夢中になり、やがて国から追われるようになってしまいます。 そんな彼が、リード大学の食堂で胡座を掻きながら、放ったこの言葉は、多くの人たちにその解釈と共に語り継がれていくこととなります。 ちなみに、このポートランドに所在するリード大学は、あのスティーブジョブズが半年で退学したことでも有名です。 【2】「私には夢がある。 」キング牧師が人種差別を終結宣言 1963年にワシントン大行進で、キング牧師が演説した一言一句は人類の歴史に、かけがえなのない存在感を残しています。 人種差別はさまざまな側面は持つものの、この時代は本当に酷かったといいます。 バスで席を譲らないだけで逮捕されてしまったり、リンチされるなんてことはしょっちゅうでした。 彼の宣言は、世界中の人たちに希望を与えました。 彼は、この演説から6年後に暗殺されてしまいます。 【3】ジミヘンドリックは、ベトナム戦争をギター一本で表現した ジャニス・ジョプリン、スライ&ザ・ファミリーストーン、サンタナ、グレイトフルデッド。 ピンと来ない人の方が多いかもしれませんが、音楽が平和の象徴となっていた時代としては、ヒーロー勢揃いの舞台といえば、ウッドストックフェスティバル。 3日間行われたこのフェスは、カウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれることになりました。 その中でも、ギターの名手として名高い、ジミヘンドリックスが自身の体験を基に、ベトナム戦争の悲鳴や銃声をギターで表現したアメリカ国歌は、音楽界だけでなく、世界を震界させることになりました。 【4】アメリカ大陸を駆け巡る危険なバス、メリープランクスターズ号の旅 1962年に大ヒットした小説「カッコーの巣の上で」の作者でもあるケンキージーが、翌々年にヒッピーコミューン「メリープランクスターズ」を引き連れて、サイケデリックな塗装のバス「FUTUR」号に乗り込み、全米の若者を覚醒させる旅に出ました。 特殊なスピーカーで音を発し、強力な照明商材を詰め込み。 危険なバスとして、さまざまな方面で話題になりました。 ビートルズの楽曲「マジカル・ミステリー・ツアー」のモデルともなりました。 【5】「希望がなければ。 」サンフランシスコ初のゲイ公職、ハーヴェイミルクの当選 サンフランシスコには、同性愛者が何の躊躇いもなく、オープンに自分をさらけ出すことができる。 カストロ地区があります。 ハーヴェイミルクは、この地区のヒーローです。 彼は、アメリカで初めて自身がゲイであることを公言した上で当選を果たした、初めての公職者でした。 彼は議員に就任して、1年も満たないうちに暗殺されてしまいます。 彼の遺言ともされている、誰もがマイノリティのことを考えて、希望を与えながら生きていかなければならないといったスピーチの内容は、20世紀後半に乗り越えた人類の歴史を物語っているようで、感動的です。 【6】20世紀最大の政治スキャンダル、ウォーターゲート事件 ワシントンD. の民主党本部で起きた盗聴侵入事件を契機に始まり、ニクソン大統領の不正をメディアや民衆が弾劾することによって、辞任するに至ったアメリカの政治史に残る事件となりました。 これは、ニクソン政権が民主党の動きを察知するために、盗聴をしたことに始まり、この事件を調査する機関を設けるものの、政権自らが解任を命じるといった。 明らかに権力で動く政治に対して、世論の猛反発を喰らい、辞任まで追い込まれてしまいました。 【7】アラスカで発見された若すぎる青年の死、最後のカウンターカルチャー 1992年に、アラスカで一人の青年が餓死している状態で発見されました。 彼の名は、クリス・マッキャンドレス。 映画「イントゥ・ザ・ワイルド」の主人公であり、実在する人物です。 彼は、豊かな家庭に生まれて、将来を約束された人生を過ごします。 しかし、あまりに金や物ばかりに執着してしまう両親の姿に嫌気が指し、全てを投げ捨てて、放浪の旅に出ます。 彼は、死ぬまで、この旅を続けることになってしまのですが、道中多くの人たちに出会います。 彼の死後、一人のジャーナリストが、聞き込みの末に書き上げた本。 そして、それを映画化した作品は、社会に抗った一人の青年のメッセージとして、多くの人たちの心を動かすことになりました。 なんでもかんでも反対するというわけではないのですが、アメリカ人が直接ものを言うというイメージが強いのは、こうした思ったことを言わないと、のちのちとんでもないことになりかねないという歴史が悟っているからなのかもしれません。 カウンターカルチャーは、時に暴力的で、やり過ぎている面もあります。 しかし、こうした勇気を持った人がメッセージを投げつけることができるのがアメリカです。 そして、どんな人であっても、努力をすれば夢を叶えることができる。 それが、カウンターカルチャーが生んだアメリカンドリームなのです。 テクノロジーやスタートアップを軸に、ライター業務に従事。 同時に、シリコンバレーの起業家へインタビューするYoutubeチャンネル「シリコンバレーのFREERIDER」を運営。

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70年代にカウンターカルチャーが終焉したそうですが、その原因は何ですか...

カウンター カルチャー と は

カウンター・カルチャーは、広義的には主流社会の価値観や規範とは異なる行動様式をとるの1つ。 狭義的には 主流文化の慣習と正反対の行動や価値観をとる「対抗文化」である。 カウンター・カルチャーには 「主流文化とは異なる」以外に統一した価値観はなく、その時代、その土地における気風や特定の集団の願望をはっきりと表現しているのが特徴である。 カウンター・カルチャーは、フラストレーションが臨界値に達すると、劇的な文化的変動が始まる。 "カウンター・カルチャー"という言葉は、1969年に出版されたアメリカの歴史学者セオドア・ローザックの著書『カウンター・カルチャーの誕生』がルーツとなっている。 1960年代から1970年初頭にかけて、南北アメリカ、西ヨーロッパ、日本、オーストラリアで席巻した社会革命ムーブメント時にニュースメディアにおいて頻繁に使用された。 カウンター・カルチャーの定義は学者によって異なり、これこそがカウンター・カルチャーであるという決定的なものは存在しない。 それは、決定的なポップ・カルチャーの特徴を定義付けることができないのと同じようなものである。 マス・カルチャー(またメディア文化)に反発する文化と言われることがあり、また中産階級の文化や価値観に反発するものだと言われることもある。 ほかに、大人の価値観、前世代の価値観への闘争と拒絶ととられることもある。 カ カウンター・カルチャーは、一般的には サブカルチャーが独自の価値観や政治観を定義し、主流の価値観に反対する形で、拡大・成長して形成される。 ピークに達した後は、主流文化にいくぶんかの影響を残しながら衰退する。 1960年代に流行したカウンター・カルチャーは、極めて価値観を明示的にし、また政治運動の性質を帯びていたが、本来は明示的でもなければ政治的でなくてもよい。 しかし、基本的にはどのカウンター・カルチャーも 「今より良い生活や良い社会の建設」を目標として、 現在の権力に対する批判や拒絶を行っており、また政党政治や権威に対して好意的でない。 1960年代後半に、ヒッピーはアメリカにおいて最も巨大なカウンター・カルチャーに成長したが、彼らの文化はそれ以前のカウンター・カルチャー運動である、ロマン主義、ボヘミアン、ビートなど文化を継承しつつ、現代の西洋文化に存続している。 ゲイ解放運動(の社会運動の前身)は、カウンター・カルチャーとは強い結びつきがあることで一般的に知られている。 同性愛者たちがカウンター・カルチャーと連動するその理由は、性別や核家族という単位で構成された近代の基本的な家族制度の廃止への共感である(ヒッピー的コミューンへの共感)。 なお、ゲイ解放運動の政治観は一般的に急進的であり、アンチ・レイシストであり、反資本主義である。 1895年に同性愛行為によって処罰され、収監されたオスカー・ワイルドの例から分かるように、20世紀の初頭、カウンター・カルチャーが席巻した国家のほとんどにおいて、同性愛行為というのは刑事的処罰の対象だった。 性欲と生殖は本来結びついた自然ではなく、成長して様々な経験を積む中で、はじめて実体的な性器へ向かうようになる。 つまり幼児期には誰しもが多形倒錯的な欲望を持っていたのであり、その意味では、全ての人間があらゆる異常な性欲を潜在的に秘めている。 」ということを明言しはじめ、同性愛に対する見方に変化が生じる。 チャールズ・カイザーの「ゲイ・メトロポリス」によれば、1930年代なかばにはアメリカンにおいて、反公共的なゲイをテーマにしたコミュニティが存在していたという。 代表的なのは1919年から1930年に続いたアフリカ系アメリカ人の文化運動「ハーレム・ルネサンス」で、これはハーレムに暮らす黒人ゲイ・コミュニティとの関わりがあった。 しかし、この頃はまだ、ゲイ文化そのものが独立して発展するまでには至らず、ハーレム・ルネサンスやボヘミアン文化など、さまざまな文化の中に包括された状態だった。 カウンター・カルチャーとゲイ文化の結びつきもまた同じようなものである。

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【歴史】モッズやヒッピー、カウンターカルチャーとジーンズ

カウンター カルチャー と は

カウンターカルチャー運動は、ある時代の市井の人々の精神と願望を表現する。 カウンターカルチャーの力が大きくなると、劇的な文化の変化を引き起こす可能性がある。 (1850-1910)、(1950年代が中心)などフラグメント(断片的)、地域的なカウンターカルチャーと、1960年代の世界的カウンターカルチャー(1964-1974)がある。 1960年代のに対して、1970年代後半のは反発を表明していた。 "counterculture", Merriam-Webster's Online Dictionary, 2008, MWCCul. Eric Donald Hirsch. The Dictionary of Cultural Literacy. Houghton Mifflin. 1993 p. 419. "Members of a cultural protest that began in the U. In the 1960s and Europe before fading in the 1970s... fundamentally a cultural rather than a political protest. 著、浅野輔訳「クロンカイトの世界」(TBSブリタニカ 1999年)•

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