祇園祭 疫病。 社説:相次ぐ祭り中止 疫病退散へ雌伏の時だ|社会|社説|京都新聞

八坂神社(昔は祇園社)

祇園祭 疫病

陰陽師のかかわり 天皇に近い役所、中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮には陰陽師が配置されていました。 業務内容は天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づき予言するなど。 遷都の際にも、土地・方角などの吉凶を占うことで重要な役割を果たしました。 三方を山に囲まれ、夏は蒸し暑く、冬は冷え込む、寒暖差の大きい内陸性気候の土地です。 その後、平安京は急速に人口が増加しますが、上下水道が未発達で、汚水と飲料水が混ざるなど衛生状態が悪く、天然痘、インフルエンザ、赤痢、麻疹、コレラなどの感染症が幾度となく大流行。 今でこそ、衛生状態の悪さと高温多湿が原因で感染症が流行する事に頷けますが、当時は、この世に怨みを残して非業の死を遂げた霊魂が怨霊となり、疫病や災いを起こすものと信じられていました。 桓武天皇が恐れつづけたのは早良親王の怨霊で、延暦19年(800年)には崇道天皇と追号し祀りましたが、その後も祟りはおさまりませんでした。 ・御霊会のはじまり おさまらない祟りを鎮めるべく、貞観5年(863年)に朝廷によって怨霊を鎮魂するための御霊会(ごりょうえ)が、平安京の禁苑(天皇のための庭)「神泉苑」で初めて行われました。 しかし、翌年の貞観6年(864年)富士山が大噴火。 貞観11年(869年)には貞観地震(陸奥)と津波で多数の死傷者が出るなど、全国的に天変地異が続き、五穀も実らず、社会不安は深刻化する一方でした。 半数は桓武天皇の親族。 政治の闇を感じます。 ・祇園御霊会(祇園祭) 社会全体の空気として、怨霊の怒りを鎮めることが出来る、強い神仏が求められていたのでしょう。 そこに登場したのが、疫病にご利益のある牛頭天王(ごずてんのう)です。 貞観11年(869年)の御霊会では、卜部日良麿(うらべ の ひらまろ)が、当時の国の数を表す66本の矛(ほこ)を立て、「牛頭天王を祀る祇園社」から神輿3基を神泉苑に送り御霊会を執り行ないました。 結果、怨霊の祟りを治めることに成功、祇園社は朝廷・民間から尊崇されるようになります。 そのため、この御霊会が「祇園御霊会(祇園祭)」の起源と考えられています。 時代は下り、天禄元年(970年)には初めて祇園社に於いて御霊会が行われ、これまでは疫病流行時のみだった開催が毎年定例開催となりました。 疫病にご利益のある牛頭天王。 明治時代までは「祇園社」または「感神院」と呼ばれた神仏習合の寺社で、「牛頭天王(=スサノオノミコト)」を祀り、疫病鎮圧・病気平癒の神として朝廷や民衆から尊崇されていました。 「八坂神社」となったのは明治時代。 明治新政府の神仏分離令によって、御祭神の牛頭天王の名は仏教の神であるため外され、神道の神 スサノオノミコトの名前だけ残されました。 同時に「祇園社」の名称も「八坂神社」と改名されました。 【祇園社の神仏習合エピソード】• 比叡山延暦寺の末寺とされ、延暦寺の洛中の拠点でもありました。 比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることも多かったそうです。 風水の東方・青龍の位置に鎮座し、王城鎮護の神としても尊崇されました。 本殿の下には青龍の穴があり、青々とした水を湛えた穴は都の中心・堀川御池の神泉苑に通じていたと伝わります。 平安京は、陰陽道による四神相応の風水に適した地として選ばれました。 四神というのは、都の四隅・東西南北を守る神獣、青龍・白虎・朱雀・玄武の事です。 牛頭天王は、恐ろしく力強い仏や神が集約された日本独自の神様なのです。 きちんとお祀りして味方になってもらえば、強力なご加護がいただける神様として尊崇されました。 牛頭天王 インドで釈迦が説法を行った「祇園精舎」の守護神、中国では道教の神、朝鮮半島では熱病に効果のある栴檀(せんだん)を産出した「牛頭山」の神とも伝わります。 また、牛頭天王は祇園精舎に因んで祇園天神とも呼ばれ、この地一帯が祇園と呼ばれるようになった由来とされています。 日本書紀には、スサノオノミコトは朝鮮半島の新羅国「ソシモリ」の地に降臨したという記述があります。 「ソシモリ」とは韓国語で「牛頭」を意味するため、牛頭山の神である牛頭天王が「牛頭」の地に降りたスサノオノミコトと同一視されたと伝わります。 ・厄除け粽(ちまき)の伝説 祇園祭と言えば、祇園祭の時期だけ販売される「厄除け粽」も有名。 厄除け粽は、笹の葉でくるんだ藁の束を裂いたイグサを巻いたもので「 蘇民将来子孫也(私は蘇民将来の子孫)」と書かれた護符が付いているのが特徴です。 京都の町を歩くと家の玄関先に飾られているのをよく見かけます。 厄除け・疫病除けのご利益があると言われる「粽」も「牛頭天王(=スサノオノミコト)」に由来しているのです。 裕福な弟、巨旦将来(こたんしょうらい)には、あっさり断わられましたが、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、貧しいながらも手厚くもてなしてくれました。 そんな蘇民の心遣いに感激した牛頭天王は、「お礼に、お前の子孫を末代まで私が守ってあげよう。 その言葉を守った蘇民将来の子孫たちは末代まで繁栄し、巨旦将来は没落したということです。 「茅巻(ちまき)」も由来は同じで、後に同じ読み方の「粽(ちまき)」へと変化しました。 牛頭天王は、もともと疫病神ではありますが、蘇民将来の伝説から、ますます信仰が広がったのかもしれないですね。 神輿の渡御(神幸祭)に先立ち、露払いとして都大路を祓い清める役目を担った華麗な山鉾が巡行されるなど、町衆が参加し楽しむ祭りとして発展しました。 「年中行事絵巻」に、神輿の渡御を中心として、山車や芸能・獅子舞も一緒に巡行し人で賑わう様子が描かれています。 神輿の渡御を盛り立てるべく華麗な山や鉾が登場し、町衆が主体的に行動し楽しむ風流で賑やかな祭となっていきました。 応仁の乱以前は山鉾は58基を数えました。 しかし、応仁の乱で30年以上中断。 戦乱後、神輿の復興が間に合わず比叡山側からは神事の中止を直訴されますが、町衆は山鉾巡行だけでも開催したいと声明を出すなど、山鉾行事は町衆が主体の祭になっていたようです。 「祇園社記録」よると、商業の発達に伴って発生した各種の「座」の中で、材木座練絹座・小袖座・綿座・袴座・菓子座・釜座の七座が祇園社に所属。 年貢を納め、祭礼に奉仕することで生産、営業活動の権利が与えられました。 そのため、祇園社に公認を受けた感謝のあかしに山鉾を建造し、祇園祭を盛り立てたとも考えられています。 1708年(宝永5年)宝永の大火 山鉾も素朴な形式であったために早く復興。 1788年(天明8年)天明の大火 被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。 1864年(元治元年)禁門の変、どんどん焼け 山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山。 菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は長期間断絶した。 明治10年(1877年)太陽暦の採用により祭日が7月17日と24日に改定。 明治19年、20年、28年 (1886、1887、1895年)にコレラが流行。 その影響で祇園祭は延期。 第二次世界大戦で4年間の中断。 昭和28年(1953年)菊水鉾が90年ぶりに復興。 1980年代には中絶していた「休み山」(焼山)が次々復興。 昭和41年~平成25年 (1966年~2013年)前祭・後祭を統合した合同巡行。 平成26年(2014年)後祭が再開。 平成21年(2009年)には「京都祇園祭山鉾行事」がユネスコ無形文化遺産に登録され、1000年を超える祇園御霊会の伝統、古式を保つ努力が続けられています。 その中のクライマックスと言えば、山鉾巡行を思い描く人が多いと思います。 しかし、本来の意味から言うと、祇園祭の一番重要な神事は「神幸祭」なのです。 八坂神社から御祭神をお遷しした3基の神輿が、洛中を巡行しながら四条寺町の御旅所へ渡御、還幸祭で再び洛中を巡り八坂神社に戻ります。 豪快で荒々しいスタイルが特徴で、3基の神輿を総勢1000人以上の男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う光景は迫力いっぱいです! ・ 還幸祭は24日夕刻から 四条御旅所に滞在していた神様が八坂神社に還る神事です。 3基の神輿は16時頃から出発、それぞれのコースを巡行し、神泉苑の南にある三条又旅社で神饌を供える「奉饌祭(ほうせんさい)」をとり行った後、八坂神社へ戻ります。 そして、24時頃から境内で厳かに「御神霊遷し(みたまうつし)」が行われ、神輿にのせられた御祭神を本殿にお遷しします。 【5】祇園祭 楽しみ方 祇園社の神輿の渡御から始まった祇園御霊会(祇園祭)。 幾多の困難を乗り越えて、1100年以上続く華麗なお祭りです。 厄除け粽をはじめとして、手ぬぐいや、この時期しか買えない山鉾町グッズなど、お土産探しにもおすすめ。 祇園祭は多くの行事が目白押しで、すべてを見ることは不可能だと思われます。 興味あるポイントから攻める、スケジュールから決める、などなど、自分にあった方法でお楽しみください! 前祭(さきまつり):7月14日~16日 後祭(あとまつり):7月21日~23日 祇園囃子が流れる町の日が暮れて、駒形提灯が灯る山や鉾を鑑賞できる宵山。 町会所には山鉾の御神体(人形)や懸装品(織物など)が展示されます。 同時に、山鉾町の旧家では、表の格子をはずし秘蔵の屏風などを飾り付けた座敷を開放する「屏風飾り(屏風祭)」も行われます。 夏祭りの風情あふれる宵山。 夕涼みといきたいところですが、京都は無理です。 蒸し暑いし、人も多いし、覚悟してお出かけください。 ちなみに、宵々々山が比較的空いています。 【 祇園祭の屋台・露店】 毎年7月15日・16日の宵山(前祭)に立ち並びます。 営業時間は、昼頃から夜遅くまでのお店が多いです。 出店場所は下記の場所あたりになります。 定番の厄除け(長刀鉾、月鉾、船鉾、函谷鉾、他)をはじめとして、縁結び・夫婦円満・商売繁盛・不老長寿など、山鉾由来のご利益にあわせた粽もあります。 沢山の種類があるので、きっと今の自分に合った粽が見つかるのではないでしょうか。 また、売り切れ終了となりますので、事前にリサーチして早めに買い求めるのが確実です。 粽が買える期間• 前祭:7月14日~16日。 13日から販売の山鉾も有り。 後祭:7月21日~23日。 粽の飾り方と返納方法• 厄除けの目印なので、玄関先など目につきやすい場所に飾ります。 粽は1年間飾ったら翌年返納します。 各山鉾の返納箱、八坂神社、近くの神社にお返ししてもOKです。 祇園祭限定の御朱印帳も販売されるので、お気に入りを見つけて、山鉾めぐりのお供にするのも記念になる楽しみかたの一つですね。 前祭(さきまつり):7月17日 9:00~ 後祭(あとまつり):7月24日 9:30~ 華麗な山鉾が京都の町を巡行します。 前祭は四条烏丸から、後祭は烏丸御池から出発。 山や鉾は「動く美術館」とも呼ばれ、懸装品と呼ばれる装飾品で飾りつけられた豪華絢爛な美しさも見所です。 鉾の重量は、人や懸装品を含めて10トンを超える物もあり、人力で方向転換する辻回しは、巡行の最大の見どころの一つ。 ただ、辻回しのある交差点は人気スポットなので、よほど早い時間に行って場所を確保しないと、たどり着けません。 辻回しにこだわらなければ、割と近くで見ることが出来たりしますが、絶対しっかり見たい方は、有料観覧席をゲットしてください。 ・その他 祇園祭は1カ月間わたり、様々な行事が行われます。 行事のスケジュールは、祗園祭山鉾連合会のサイトでご確認ください。 宵山、山鉾巡行が週末と重なると、さらに混みます!というか混みすぎます。 最寄りバス停「祇園」下車すぐ• 京阪電車「祇園四条駅」6、7出口から東へ徒歩約5分•

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京都の三大祭のうち葵祭と祇園祭が中止でネット上では残念がる声が

祇園祭 疫病

円山公園(まるやまこうえん)は知恩院の南側、八坂神社の東側に隣接する、明治19年 1886年 開設の京都市最古の公園。 名称は円山安養寺(えんざんあんようじ)ゆかりの塔頭(たっちゅう)にかかわる故事にちなみ名付けられました。 面積は東山にかけて約8万6600平方メートルあり、近代日本庭園の先駆者とされる作庭家・小川治兵衛(じへえ)の手によるもの。 公園中央に配された瓢箪池(ひょうたんいけ)をめぐる池泉回遊式庭園(大正2年 1913年 完成)を中心に構成され、また東から西に傾斜する公園内には、料亭や茶店が散在しています。 古くは真葛ヶ原(まくずがはら)と呼ばれ、江戸時代には一帯の時宗の寺などが酒食を提供し、公園東奥にある料亭が阿弥(あみ)の名を付すのはその名残。 有名な赤穂浪士の円山会議も、そうした寺院の1つ、重阿弥(今は廃絶)で催されました。 また円山公園は京都随一のサクラの名所で、園内中央には、通称「祇園の夜桜」という有名なサクラ(正式には一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら))があり、今のサクラは2代目で樹齢200年余りとされ、昭和18年 1938年 に天然記念物に指定された初代のサクラ(昭和22年 1947年 枯死)の種子から育成したものを、造園家佐野藤右衛門(とうえもん)から寄贈を受けて昭和24年 1949年 に植栽したもの。 樹高12m、幹回り2. 8mを測り、花見時は大勢の観覧者で賑わいます。 その南にある洋館(長楽館)はタバコ王として知られた実業家村井吉兵衛(きちへえ)が明治42 1909年 に建てた別荘で、現在は喫茶店・ホテルなどになっています。 公園南西端の八坂神社東側約70mには、祇園祭の山鉾(やまぼこ)11基を納める祇園祭山鉾館があり、各入り口に山鉾名が掲げられています。 公園南側の野外音楽堂「円山公園音楽堂」は昭和2年 1927年 の創設。 昭和48年 1973年 kara 2009年まで開かれていた宵々山コンサートは京の夏の風物詩でもありました。 公園の周囲には旧跡が多く残り、音楽堂の東側には、近世文人画家池大雅(いけのたいが)の旧宅跡にちなみ、「大雅堂旧址(きゅうし)」の石碑が建てられているほか、延暦年間 782〜806 創建と伝えられる雙林寺(そうりんじ、霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院(りょうじゅせんさらそうじゅりんじほっけさんまいむりょうじゅいん)とも、天台宗)では、本堂に木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう、国重文)を安置し、飛び地として西行庵が南西に。 西行庵では、毎年4月中旬に歌人が集まって西行忌が営まれ、西行庵に隣接して俳聖松尾芭蕉が西行を慕って詠んだ「柴の戸の 月やそのまま 阿弥陀堂」にちなんで、後世の俳人が芭蕉堂を建て、毎年4月12日に花供養、11月12日に芭蕉忌が行われています。 円山公園に隣接し、「祇園さん」と親しまれていて、東山祇園町の四条通に大きな楼門を構えているのが八坂神社。 656年(白村江の戦いの少し前ですね)に渡来系の伊利之使主(いりのしのおみ)が新羅(しらぎ)の国にある牛頭山の牛頭天王(ごずてんのう)を祀って創建したと言われています。 牛頭天王は釈迦の修業場・祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神。 疫病除けの神として崇敬を集め、日本の素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同神とされ、つまりはスサノオノミコトを祀っていたということになりますね。 神社創建当初は「祇園社」といい、古くから神仏習合の色合いが強く、一時は延暦寺の手中であったため、寺院とみなされていたこともあったそう。 明治時代の神仏分離令により、祇園社から八坂神社に名前を変え、全国にあるスサノオノミコトを祀る神社の総本山となったのです。 八坂神社の歴史は1300年ほどありますが、「八坂神社」と呼ばれるようになったのは、割と最近なのですね。 日本三大祭りの1つと言われる祇園祭は、平安時代の半ばから1100年あまり続く夏の風物詩で、八坂神社が7月1日から1ヶ月にわたって執り行う祭礼でもあります。 いまや山鉾(やまぼこ)巡行に代表される豪華絢爛さが目立つ祇園祭ですが、どのように始まったのでしょうか? 時は桓武天皇から6代目の清和天皇の時代、各地で災害が発生し疫病が蔓延。 人々はこれを早良(さわら)親王など朝廷に恨みを抱いて非業の死を遂げた6人の怨霊の祟りと恐れていました。 その怨霊を鎮めるため、貞観5年 863年 天皇は神泉苑(しんせんえん、大内裏に隣接する天皇の庭園)で御霊会を催しましたが、それでも疫病は収束せず。 さらに天変地異も起こったことで、貞観11年 869年 疫病退治の力を持つ牛頭天王を祀る祇園社(八坂神社)から神泉苑へ矛(これも、ほこ)66本を建てて神輿(みこし)を送りました。 この「祇園御霊会(ごりょうえ)」といわれた疫病除けの神事が祇園祭の始まり。 矛の数が66本なのは当時の数が66ヵ国だったためで、全国に蔓延する疫病を鎮めるために災厄除去を祈ったのです。 私は京都から電車で30分くらいの所に住んでいたことがあるのですが、いつも暑い季節にあるので、祇園祭には行ったことがないという体たらく。 しかし、こういう経緯があったのですね。 とすると、祇園祭は京都の人々の無病息災を祈る祭ということになるのでしょうか? 御霊会はその後、天禄元年 970年 から毎年行われるようになり、鎌倉時代以降は華美な山や鉾が出現するように。 悪疫神を依りつかせた山鉾は、次第に飾りつけられるようになり、今や「動く美術館」とも言われるほどの華やかさ。 山鉾は巡業の1週間ほど前から各山鉾町の道路で組み立てられ、巡業の前夜は宵山といい、飾り付けが終わった山鉾に駒形提灯(こまがたちょうちん)が灯ります。 応仁元年 1467年 の応仁の乱で一時は中断されますが、(京都の人にとって「戦後」は太平洋戦争の後ではなく、応仁の乱の後。 というのはよく聞く話ですよね)明応9年 1500年 に再開。 これ以降、御霊会は朝廷や幕府ではなく、京の町衆の強い熱意によって次第に大きくなっていきます。 7月1日、ひと月におよぶ多彩な神事や祭事が幕を開けます。 吉符入り、鉾建て、神輿洗いなどの行事が行われ、中でも一番の見所は、17日の山鉾巡行。 重要文化財のゴブラン織、ペルシャ製綴(つづれ)織など美術工芸品で絢爛豪華に飾られた山鉾32基が大勢の引き手に引かれて京都市内を巡り、その絢爛な光景から「動く美術館」とも。 前夜祭ともいわれる「宵山(よいやま)」では、各町内に置かれた山鉾が公開され、鉾の上でお囃子(はやし)が演奏されます。 「山」や「鉾」は町ごとに建てられ、「鉾」とは山車(だし)の屋根の上に、ビルの4〜5階にまで達する高い柱が立ったもの。 「山」は屋根やご神体の後ろに松があり、曳き手がいるものと神輿のように担ぐものがあり、山も鉾も、それぞれにご神体が乗っています。 山鉾は室町時代の応仁の乱前には60基を数え、安土桃山時代に貿易が盛んになると南蛮渡来の絨毯(じゅうたん)などが飾られるようになり、より豪華に。 応仁の乱より前から行われているのですね。 また、飾りが豪華になるのは、祭としての華やかさと、人々を楽しませるのが目的に変わってきたということでしょうか。 御霊会が祇園祭と呼ばれるようになったのは、明治以降のこと。 幕末の禁門の変で、祭りの中心となる山鉾町が大きな被害を受け、焼失した山鉾もあり、祭りを縮小したり、第二次世界大戦中にも一時中断を余儀なくされたりしましたが、京の町衆の力であきらめずに再興され、連綿と続けられてきました。 この伝統を今日まで引き継いできたのは京の庶民なのです。 昭和20年 1945年 の敗戦時にも29基の山鉾が残り、現在鉾が8基、傘鉾が2基、山が23基、合計33基の山鉾が受け継がれています。 応仁の乱、明治維新、太平洋戦争と京都の町に苦難が続いても受け継がれてきたのですね。 平安時代の半ばから鎌倉時代初めにかけて、京都では末法思想(まっぽうしそう)が広まり、貴族の間では政権争いが繰り広げられ、庶民は災害や飢饉(ききん)に苦しみ、人々は不吉な影におびえていました。 このような時代に「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)を唱えれば、誰でも仏に救われて極楽往生できるという浄土の教えが法然によって説かれ、またたくまに都に広まりました。 その浄土宗の寺として法然が開山し、今では浄土宗総本山となっているのが東山の知恩院。 入り口にそびえる三門は豪壮な姿で、高さ24m、現存する日本最大の楼門で、木造の楼門としては世界最大。 また、6万坪の広大な境内には、本堂を始め、経蔵、大方丈、日本一大きい梵鐘(ぼんしょう)がある大鐘楼、勢至堂(せいしどう)、阿弥陀堂、宝仏殿など100棟を超える堂宇(どうう)が立ち並んでいます。 大方丈は華麗な書院造りで54畳敷きの大広間を中心に、襖には狩野派(かのうは)による豪華な襖絵が描かれ、経蔵の天井にも狩野派の筆による鮮やかな極楽浄土が。 知恩院は、まるで壮大さと豪壮さを誇示するかのように造営されていますが、実は法然が開いた当初は今のような寺院ではなく、小さな禅坊でした。 自分が住まいとした東山の吉水の禅坊(現在の知恩院の御影堂の近く)を拠点とし、貧しい民衆に念仏の教えを説いていたに過ぎませんでした。 では、現在の知恩院はどのようにできたのでしょうか?それは徳川家康・秀忠・家光の3大将軍によるところが大きいのです。 徳川家は古くから浄土宗に帰依し、家康が次第に寺域を広げ、ほぼ現在の境内にまで拡大させ、2代将軍秀忠も造営を引き継ぎ、あの巨大な3門を造営しています。 寛永10年 1633年 の大火で焼失しましたが、3代将軍家光が再建に努めたのです。 徳川3代が知恩院をこれほどまで壮大なスケールに再興したのにはわけがあり、幕府安泰のため、江戸から離れた京都で徳川家の威光を民衆に知らしめ、朝廷をけん制する必要があったから。 どこの寺院よりも豪壮に造営し、天下に徳川の力をアピール。 いわば知恩院の荘厳な姿は、徳川3代の思いが形となった結晶なのです。 いわば日光東照宮と同じような理由で建てられたのですね。 しかし、家光に関しては「おじいさん大好き将軍」なため。 ただ単に「祖父が作ったものを再建したかっただけ」とも感じられます。 円山公園は明治19年開園の京都市最古の公園で、京都市随一の桜の名所。 西行や松尾芭蕉などが住んだゆかりの地でもあります。 また隣接する八坂神社は平安時代からあり、スサノオノミコトを祀り、明治までは祇園社と呼ばれていました。 そして、八坂神社が行う祇園祭は桓武天皇の時代に災害が発生し疫病が蔓延したため、怨霊を鎮めるために行われ、「御霊会」と呼ばれ、また祇園祭の山鉾は京都の町衆によって1000年以上の間受け継がれてきました。 また知恩院は幕府の力を天下にアピールするために家康・秀忠・家光の徳川3代将軍によって建てられました。 円山公園は私にとって「風情のある綺麗な公園、というか庭園」というイメージだったのですが、祇園祭りや徳川家とも関連があり、とりあえずまた訪れていろいろな歴史との関わりを肌で感じてみたいと思いました。 それでは、今回はこの辺で失礼します。 読んでくれてありがとうございます!.

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疫病の神を鎮める神社とその信仰の起源を解説!

祇園祭 疫病

新型コロナウイルスによる影響で、様々なイベントの開催中止が決まっています。 私が大好きな富士山の「吉田の火祭り」も中止が決まり、仕方ないことと理解しようとしても、感情的には悔しさで胸がいっぱいです。 京都でも祇園祭の山鉾(やまぼこ)巡行の中止が発表されました。 最大の見どころである山鉾巡行が中止になるということは、一般の方が想像するような華やかな山鉾が練り歩く形での祇園祭は行われないということになります。 関係者のご無念はいかばかりかと思いますが、山鉾の巡行は無くとも神事は行うそうです。 それもそのはずで、もともと祇園祭は864年に始められた御霊会(ごりょうえ)を起源としているそうです。 当時の京都では様々な疫病が流行ったため、疫病をおさめるために、疫病を抑えてくれるという牛頭天王(ごずてんのう)などを祀り、祈願したのだそうです。 つまり祇園祭の起源は感染症との戦いにあったと言うことができます。 本来は感染症を防ぐために行うお祭りも、規模を縮小して行わざる終えないということで、なんとも残念です。 牛頭天王はもともと大陸の神様ですが、日本では八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治で有名なスサノオノミコトと習合し、同一視されていることが多いようです。 私は愛知県出身なのですが、 愛知県にも同じような言われを持った神社があったのを思い出しました。 「津島神社(つしまじんじゃ)」です。 祇園祭と同じような疫病退散の意味を持つ「天王祭」が有名で、同じように牛頭天王およびスサノオノミコトを祀ってきた歴史があったなあと… そして愛知県の県庁所在地、名古屋市を代表する神社が「熱田神宮」 こちらの御神体は三種の神器の1つ「草薙の剣(クサナギノツルギ)」です。 あのスサノオノミコトがヤマタノオロチの尾から取り出した剣ですね。 ここからは宣伝なのですが(笑) 実は今、コロナ収束後に向けて、愛知県のツアーを考えています。 今回紹介した、津島神社や熱田神宮はもちろん、 日本三大稲荷の豊川稲荷(とよかわいなり) 三河国一宮の砥鹿神社(とが神社) 尾張国一宮の真清田神社(ますみだ神社) などを回る、とても盛りだくさんなツアーになりそうです。 妄想に終わらないように、企画・手配を進めたいと思います。 皆様、コロナが落ち着いたらまた一緒に旅に出かけましょう。 何卒ご了承ください。

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